第四話
私と目を合わせた美鈴は、そこではたと歩みを止めた。
「あ……」
ほんの数秒の視線の交錯に、美鈴はキョウコさんの顔を見た。
「どうした?」
「ううん、なんでもないの」
美鈴は急に顔を背け、連れの男の問いに首を振ると、その手を引いて足早にこの場を立ち去ろうとした。
私は腰を浮かせて手を伸ばしたが、途中で降ろし、再びベンチに座ろうとしたその瞬間に声が響いた。
「ちょっと!」
キョウコさんが立っていた。
「待ちなさいよ」
怒気をはらんだキョウコさんの声が、冷えた夜気に鋭く走り、美鈴の足がぴたりと止まった。
「なんで泣いてるのよ」
振り返った美鈴の瞳が、イルミネーションの影にキラリと濡れて見えたのは、何かの冗談のように私には思えた。
「なんだよ?」
美鈴の新しい彼だろう。私より少し若い、がっちりとした背格好のその男は、眉間にシワを寄せて私とキョウコさんを交互に見た。
「元カレ」
「はっ?」
キョウコさんは私を指差し、
「元カノ」
そして美鈴を指差した。
「でしょう?」
押し黙る私の腕を引いて、キョウコさんは私を立ち上がらせる。
「ほら、カッちゃん。なんか言いなさいよ」
キョウコさんは私の肩をパンと叩き、酒に絡んだ熱い息で私に言葉を促した。
「美鈴……」
私は二歩、三歩と足を出し、美鈴の前に進み立つ。
濡れた色に瞳を揺らす、美鈴の顔は何故か酷く弱々しげで、いやいやするように後ずさる。もっと汚いものを見るような、そんな表情を想像していた私にはとても意外な反応だった。
「ごめんな」
胸のわだかまりはさまざまに私の中で渦を巻いたが、けれど漏れ出た一言はそんな素直な謝罪だった。
「……なんで?」
美鈴が私に聞き返す。
「なんで謝るの?」
美鈴の顔はくしゃくしゃと、切なく歪んで私を見る。
「その人といるから?」
誤解だった。けれどその誤解は何故か美鈴を傷付けたように見えた。それが美鈴の心に私が思いの外に残っていた証明であるならば、あんなメールを送らせるまで美鈴を遠くに置き続けた私の罪は、取り返しのつかないほどに深いものだった。
「……ごめん」
他に言葉が出なかった。
「やだよ……」
美鈴は苦しげに首を振る。
「やめてよ……」
それでも私は同じ言葉を繰り返した。
「ごめん」
苦く絞る謝罪の言葉は釈明にもならず、さらに美鈴を苦しめるだけだったが、それでも今の私には他に用いる言葉がなかった。
「おい!」
突然に頭が揺れた。美鈴の彼氏が私の胸倉を掴み上げたのだ。
「お前が勝也とか言う奴か! いまさら出てきやがって!」
「やめて、トモキくん」
美鈴が彼氏の腕を引くが、私を掴む腕の力はますますに強まっていく。
「女連れで彼女に謝るだなんて、どんな無神経だ! だからてめぇはフラれたんだよ!」
彼は私を罵倒した。熱い息で罵倒した。真剣な眼差しで美鈴のために罵倒した。それは美鈴の罵倒で、いささかの未練もなく私を捨て去るために必要な罵倒で、美鈴が前に進むために不可欠な罵倒だった。
その罵倒を美鈴のために彼がしていた。
熱く、強く。
私は美鈴が彼を選んだ理由を知った気がした。
「やめてよ!」
美鈴が必死に止めに入るが、彼は構わず私を罵る。そして美鈴の声が涙に混ざり出したとき、不意にキョウコさんが割って入った。
「あんた、邪魔」
「イテェッ!」
キョウコさんは彼の耳を引っ張って私から引きはがすと、そのまま広場の端へと連れていってしまった。
「ちょっ……今のカレシはオレだぜ? イテテテッ!」
「そんなの彼女が決めることでしょ!」
唖然と佇む私と美鈴は、そこでしばらく離れる二人を見送った。
「……あの人は?」
私は苦笑に頭を掻いた。
「今日知り合った。……美鈴の思うような相手じゃないよ」
私の横顔をじっと見た美鈴は、やがて目を伏せて独り言に唇を動かした。
「……じゃあ、やっぱり私が悪いんだ……」
二人が遠くのベンチに落ち着くのを見届けると、私はあらためて美鈴と顔を向き合わせた。
「勝也くん……私こそ……」
伏し目に視線を迷わせていた美鈴は、意を決したように顔を上げた。しかし続きの言葉が想像できた私は、そこで美鈴を遮った。
「ちょっと、遠かったんだ」
私は少し視線を外した。冬の夜に張り詰める空は、硬く、高い。
「寒かったんだよな」
息は白く浮かび、冷めて消えた。
「気付いてやれなかった」
視線は戻る。美鈴は青い光の影を背に、口を結んで私を見ていた。波打つ光に影は揺れる。けれど美鈴の瞳はまっすぐに私の言葉を待っていた。
「――ごめんな」
美鈴は否定に首を振った。
「怒って欲しかった」
俯きに美鈴は言葉をこぼした。
「嫌われたくて、あんなメール送ったのに」
美鈴は彼が私にしたような罵倒を求めていたのだ。
「優しいなんてずるいよ」
美鈴にも罪悪感があったのだ。私がキョウコさんにキスをされたときと同じ罪悪感が。だから悪者として罵倒され、未練なく捨ててもらうことが、互いにとっての救いになると、きっと美鈴は思っていたのだ。
しかし私は自分の罪を知ってしまった。だから、もう優しくすることしかできなかった。
「ごめんな」
「私、酷い女」
美鈴は泣いた。私の胸に顔を預け、泣いた。けれど私の手は美鈴を抱けず、ただその髪を撫でてやるだけだった。柔らかく手に梳く髪はさらさらと、指に止まらずに流れていく。
淡い熱が胸にかよった。けれどそれは決して燃えはせず、ただ淡く伝わるだけだった。
――もっと早くこうしていれば、もっと強く抱きしめられたのだろうな。
過ぎた熱は戻らない。
「……ありがとう」
ひとしきり泣いた美鈴はか細い声で呟いた。私は黙って首を振り、そして優しく問い掛ける。
「彼はいい人?」
私を見上げる美鈴の首がコクリと小さく頷いた。
「よかった」
私はニコリと微笑んだ。
美鈴の頬は濡れていた。
けれどその瞳はしっかりと、私の微笑みを映している。
その微笑みは弱くなく、力みもなく、影もない柔和な優しい微笑みで、だから私はその微笑みで、最後の言葉を告げたのだった。
「さようなら」
私は彼女の瞳を覗き込み、自分の唇が別れを告げ終えるその時まで、笑顔でいたのを見届けた。