第三話
ホテルを出た私と女は、イルミネーションに輝く街を、あてどなく彷徨っていた。
「きれいだな」
澄んだ夜空に張り詰める空気の色は透明で、街の灯りはキラキラと鮮明な色彩を放っている。
「寒い」
街路樹を飾り付けるイルミネーションは明々と光り、クリスマスを楽しむ人々も多く行き交っているけれど、それらはまったく私たちのぬくもりにはならなかった。私の少し後ろをついてくる女はロングコートを羽織っていたが、肩抱く寒さにふるふると細く震えに耐えていた。
「何も食べなかったから」
ディナーは結局ワインだけを飲んで終わり、一切れの料理も口にしてはいなかった。空く腹は切なく鳴いて、身体の芯の熱は弱く、コートも保つ熱を失って、寒さは染み入るように肌からぬくもりを奪っていった。
「ケーキが食べたい」
女がぽつりと呟いた。
「クリスマスなんだから」
そう言って女はふらふらとコンビニへと入っていった。
「コンビニで?」
「いいの」
女は小さいチーズケーキを手に取ると、後は酒をバカスカ買い物カゴに投げ入れた。
私は肉まんを二つ買った。
「おいしい」
広場のイルミネーションが眺められるベンチに座り、肩を並べて女はケーキを、私は肉まんを食べていた。
青い光の絨毯が明滅に波走る。
美しいイルミネーションに集まる人影は絶え間無く、立ち止まっては流れていって立ち止まり、また流れて過ぎていく。
「ケーキ食べる?」
女はプラスチックのフォークにケーキの欠片を一つ載せ、私の口元に「はい」と運んできた。
甘いケーキの冷たさが肉汁のあたたかさに混ざる。
「肉まん食べます?」
「食べる」
女は肉まんをほぐほぐし、私も残りの肉まんをはぐはぐし、肉まんのぬくもりはじんわりと、胃から全身に染み込んでいく。
「あったかい」
後は酒だけだった。
――こんなことをしていていいんだろうか?
すがる女の消え入りそうな弱々しさに、私はつい手を差し出してしまった。
――どうするつもりなんだ、私は?
「はい」
女は私にワンカップを手渡した。いっそもう一度酔ってしまえば悩むこともないかと、私はぐっと酒をあおった。
アルコール。
どこかからクリスマスソングが流れる広場で、会話もなくワンカップを傾ける私と女は、やがて思い出したかのようにお互いの名前を訊いていた。
「カヤマキョウコ」
「坂井勝也」
女は嬉しそうに手を合わせる。
「じゃあカッちゃんだ」
そう言ってかくかく首振るカヤマキョウコは、何度も何度もカッちゃんカッちゃんと呼び掛けてきた。
「カヤマさん?」
こちらが聞くとカヤマキョウコは頭をプルプルと横に振った。
「キョウコ」
「キョウコさん?」
「さん」付けに不服なのか、カヤマキョウコはすねるように唇を突き出した。
「キョウコ」
「キョウコさん」
けれど名前を呼び捨てにするほどの仲にはならないつもりの私は「キョウコさん」と呼び続けた。やがて諦めたのか、カヤマキョウコは「さん」付けで呼ばれることに次第に抵抗を示さなくなった。
「キョウコさんも三ヶ月前に予約していたんですか?」
したたかに酒酔ったキョウコさんは、ぽつりぽつりと自分の話を始めていた。
七年の付き合いに婚約まで交わした彼氏は、けれどキョウコさんを置いていってしまったらしい。左手の薬指の青い光に反射する指輪の輝きは、どこか弱く淋しげに見えた。
「そう。でも来ないの」
キョウコさんは缶チューハイを傾けて、最後の一滴まで喉に垂らすと、空になった缶を振りながらうなずいた。
「彼はね、もう二度と私には会わないって」
キョウコさんはすくりと立つと、酔った足でゴミ箱にトトッと近付き、空き缶を放り捨てた。
「どこへ行っちゃったんだろうね」
カランと乾いた音が鳴る。
「大丈夫ですか?」
ふらふらしているキョウコさんはそのままだと倒れそうだったので、私が身体を支えてベンチまで連れ戻してくる。
酔ったキョウコさんは私の肩に頭を寄せて、イルミネーションの青い波と流れる人影をぼんやりと見つめていた。
私は缶ビールの口を開ける。
「私が予約したのも三ヶ月前でした」
ビールの苦味が喉に走る。口を閉ざしたキョウコさんと替わって、私は自分の話をした。
「私が地方に行くと決まったとき、会える回数が少なくなるから会う日は大切にしようって約束して。だから三ヶ月前に会った日にイブはどう過ごすか話し合って、それで二人で今日の予約を入れたんです」
遠くない過去に浮かぶ約束は、淡い色に包まれて私の胸を過ぎていく。
イルミネーションの青い波。
流れゆく人影。
「距離と時間は……」
肩に触れる酒混じりのぬくもりに、離れた熱の遠さを感じた。
「……気持ちまでは埋められないものなんですかね?」
「埋まらないよ」
私の問い掛けに、キョウコさんは即答した。
「気持ちだけ変な道に迷い込んで、どこか別の場所に飛んでっちゃう」
ぼんやり顔で青い波の明滅を見つめたまま、キョウコさんはそう続ける。
「どこに?」
「どこかに」
キョウコさんの手がふわりと浮かぶ。
「私の気持ちはまだ飛んでるの。あの人がまだいるんじゃないかって、寂しい期待を胸に残して」
浮かんだ手はしばらく夜空の寒さに彷徨って、やがてゆっくり胸へと帰る。
「カッちゃんは、まだ好きなの?」
今度はキョウコさんが尋ねてきた。
「信じられないです」
キョウコさんが丸い瞳で私の顔をじっと見てくる。
「フラれたことが?」
「自分の気持ちが」
キョウコさんは得心したかのようにうなずいた。私は整理のつかない気持ちをひとつひとつ言葉にしていく。
「最初は酷い裏切りに思えました」
私はビールを一口含むと、ポケットに手をやった。
「こんなものも買ってたんですよ」
ポケットから箱を取り出し、中身をキョウコさんに見せて上げる。
「まあ」
小さいダイヤがささやかに輝く指輪に、キョウコさんが大きく目を開く。
「だから腹が立って、キョウコさんの誘いに乗ったんです」
ゴクリと飲んだビールの苦さが、泡の刺激に身体に凍みた。
「でもキョウコさんにキスをされて、ひどく意識がそっちに振れて」
私を見つめるキョウコさんの赤い唇。
「自分の気持ちがわからなくなって、それがとても恥ずかしくなって」
凍みる胃が酒に染みて熱くなる。
「裏切りに思えました」
キョウコさんの白い吐息が熱に浮き、私の鼻腔に甘く漂う。
「近いということだけが、こんなにも強烈なものだなんて考えてもみなかった」
イルミネーションの前で恋人たちが立ち止まり、光の波に影立った。互いに伸びた手の影は、重なり合って固くつながっている。
いつの間に互いの熱は離れていってしまったのだろう。
もっと会えなかったのか?
もっと話せなかったのか?
もっと触れ合えなかったのか?
かつて彼女の手を握った私の手は、今は缶ビールの冷たいアルミを握っている。
「……遠かったのかもしれません。私にも、彼女にも」
残りのビールを一気にあおった私の息は、苦味を吐いて夜空に溶けた。
「カッちゃんはえらいね。もう整理して」
キョウコさんは首を竦めて、ベンチの背もたれにずりりと落ちた。
「整理なんて、まだ出来てないですよ。やり直せるならやり直したい」
私は空き缶を地面に置くと、指輪の箱を強く握った。
「……でも、無理なんでしょうね」
箱はポケットに戻った。それを見ていたキョウコさんは、もう一本チューハイを開ける。
「まだ、好きなんだ」
否定できなかった。その沈黙に酒飲むキョウコさんは独り呟く。
「私もまだ好き……。でも、だから別れないといけないんだよね……」
誰へともない呟きは、けれど私の耳にほとんど入っていなかった。
「あっ」
手をつなぎイルミネーションを見ていたカップルが、こちらへと歩いてきていた。そして前に通り掛かる直前に、女性の方が私の顔を見て驚きに口を押さえたのだ。
「美鈴……」
彼女だった。