第二話
「なんで出ちゃうのよー」
プリプリ怒る女を引っ張りロビーまで降りてくると、私はこめかみを押さえながらソファーに腰から座り込んだ。
「飲み過ぎた」
酔いが醒めると頭蓋の裏から痛みが走り、鈍い痺れがズキズキと脈打った。
「頭、痛い?」
女も私の横に座り、心配げに顔を覗き込んでくる。
近い。
息が触れるほどの距離に女の唇が薄く開く。
触れる吐息は甘い。
「大丈夫?」
顔を背けた私を追って、女は私の肩に手を置き迫る。耳に吹き付く女の息のあたたかさに、むず痒い震えを覚えた私は、やや乱暴に女の手を払った。
「大丈夫だよ」
「顔、真っ赤」
私の動揺を見透かすように、女は笑顔にむふむふしている。
まったく何をやっているのか。酒の勢いとはいえども、名前も知らない女とキスをしてしまうとは。女の方からされたとはいえ、その直前の見つめ合いは本物だった。
――私はここまで軽い男だったか?
身をよじるような羞恥と、苦いわだかまりが私の胸に溢れた。
五年の付き合いだった。大学時代に知り合った彼女とは、これまでうまくやっていた。これからもうまくやっていくはずだった。
――どうしてこうなったのだろう?
卒業後、就職した会社で地方の営業所に配属された私は、彼女と会えるのも月一回の遠距離恋愛となっていた。
手を入れたポケットに固く触れるのは、指輪の入った箱だった。結婚指輪ではないけれど、仕事の忙しさに会えない詫びと、将来の意志を込めて選んだプレゼントだった。
――そうだ、意志だったのだ。
なのに今は、別の女に触れられて、心に揺らぎを浮かべている。
――彼女を責める資格などないではないか。
肌触れる熱の誘惑。
きっと彼女も同じ熱に触れたのだろう。
私は情けなさに込み上げる喉をこらえ、天井を仰ぎ見た。
「泊まってく?」
突然の囁きに胸が跳ねた。
「つらそうだから」
ショールを落とした女の肩がはだけ、やわい白肌に寄せ触れる。
――熱。
女の顎が上遣いに伸び寄って、しとりと耳に誘惑を吹き掛ける。
「慰め合おうよ」
私は立ち上がった。
「あっ」
女を押しのけエントランスへと足を向ける。
――最低じゃないか、最低じゃないか、最低じゃないか!
悔しさと悲しさと歯痒さと憤りがないまぜになった苛みが、私を衝動に立ち上がらせた。
――恥を知れ! お前の意志は結局そんなものだったのか!
しかし、大理石の床をカツカツと鳴らす靴音は、突然の後ろ引く抵抗に止んだ。
振り向くと女の手が私の服裾を掴んでいる。
「いや」
女の目はすがる目で、私の視線と重なる瞳は、何かに怯えるように揺らいでいた。
「一人にしないで」
女は私が立ち止まると、その場にくたりとしゃがみ込み、私の足を掻き抱いて、顔をうずめて呟いた。
「怖いの」
すがる女の白い肩がかすかに震え、野風に凍える子猫に見えた。
――くそっ。
私は頭を抱えながら、この名前も知らない女の手を引き立ち上がらせた。