第一話
「なあに、キミ? フラれちゃったの?」
携帯電話の画面に映る、メールの文字を見つめて固まっていた私に、その女は話し掛けてきた。
見知らぬ女だった。黒いドレスにウールのショールを肩掛けたこの若い女は、まだ八時前だというのに、すでに酒の匂いを帯びていた。
私は不快にこの女の顔を見上げたが、女は意にも介さずへらへらと笑いながら向かいの席に腰を下ろし
た。
「ふひひ、やっぱりフラれちゃったんだ」
ホテルラウンジでのイブのディナーは七時からの予約だったが、グラスにワインが注がれないまま、時計の針はすでに八時を指そうとしていた。
三度かけた電話が虚しく空コールを鳴らしたあと、彼女からメールが届いた。
『あなた以外にも夜があるのよ』
裏切りの言葉に呆然と、何度も何度もその文字列を見返していた私の顔を見て、この女はやってきたようだった。
「ひどい顔だね」
ネオンを映す夜窓の鏡に、青く白じむ顔があった。
「かわいそう。まるで私みたい」
そう笑う女のまぶたは腫れ気味に、赤く弛んで溶けたマスカラに滲んでいた。
女の左手の薬指には指輪が嵌められていた。しかし女が指差した自分の席には、一人分の料理しか置かれていない。どうやらこの女にも相手がいないらしい。
「フラれた同士、相席しない?」
返事を待たずに女はウエーターを呼んだ。
「こちらの方と相席したの。ワインを開けて下さる?」
ウエーターが困惑に私の顔を窺う。女はあまりにも突然過ぎた。ためらい黙る私の顔に、女は酔いに紅差す微笑みを向ける。
「うしろめたい?」
その言葉に湧き上がったのは沸々とした憤りだった。
――あいつ以外に過ごす夜があって何が悪い。
そう思ったときには私はウエーターにうなずきを与えていた。
コルクが抜かれた。
「恋人のいない夜に、カンパーイ」
卑屈に明るい乾杯がワイングラスをチンと鳴らすと、女は一飲みにワインを干してしまった。
吐く息の甘く漂う。
「なあに、その目? あなたも飲みなさいよ。グイッとほら。男の子でしょ?」
喉に鳴らすワインの熱が、カッと焼けて胃に墜ちていく。
「よっ、男の子!」
女は手を叩くと、空いたグラスにボトルを傾ける。
ほろく酔った身体の熱が、心地よく頭に巡った。
ボトルが空いた。
「あんな女、フラれて正解だったのさ!」
「そうだそうだ!」
酔いに酔われてほろほろに、空のボトルがまた一本。並んだディナーに触れる手もなく、メインディッシュのチキンソテーは淋しげに冷め残り、ワインの熱だけが繰り返しに喉の奥へと流れていった。
「少しかわいいからって、いい気になるんじゃないぞ!」
「なるなー!」
女と私はすっかりに投合し、恋人にフラれた憂さを酒酔いに晴らしていた。
「かわいいからってなぁ、かわいいからってなぁ……」
「からって?」
私はテーブルに突っ伏して、しばらくぶつぶつと呟くと、いきなりガバッと顔を上げた。
「……かわいかったんだよぉぉぉ、こんちくしょぉぉぉっ!」
「おお、よしよし」
女はいつの間にかに椅子を引き寄せ、私の横に肩寄せ座ると、私の背中に腕を回してぽんぽんと、優しく肩を慰め叩いた。
「ねえねえ」
「うん?」
女は私の頬に指突いて、自分に顔を向けさせる。
「私はかわいい?」
酔い笑う女の顔は、泣き痕に化粧こそ崩れていたけれど、白い歯を見せながら上目遣いに丸い瞳をくりくりさせて、まじまじ見ればなかなかにかわいい顔だと、酔った頭にぼんやりと思えてきた。
「……かわいい」
私は女の瞳をまっすぐ見つめて、ぽつりとぼんやりを呟くと、女は喜色を満面させて、私のグラスにワインを注いだ。
「わーい。私、かわいい。むふふ。じゃあもう一杯」
ぼんやり頭にワインを重ねて傾注し、さらにぼんやりする酔いどれ頭が、私に女の両肩を鷲掴ませた。
「かわいい」
「まあ」
女はわざとらしくしなを作ると、恥じらいに口を押さえて、楚々と顔を背けてみせる。
「かわいい」
繰り返される私の言葉に女はしとりと向き直り、やがてゆっくりとまぶたを下ろす。
薄く閉じた唇は、引いたルージュに鮮やかな濡れ紅色に私を誘い、私の顔は惹かれるように女の唇へと近づいていく。
掴む肩がわずかに身悶えたように感じた。
「……お客様」
見上げるとウエーターが困った顔で私を見ている。
「他のお客様がいらっしゃいますので、大声で話されたり、そういった行為をなされるのはお控えして頂きたいのですが……」
広いラウンジを見渡せば、対面席の椅子を横に並べて、肩を寄せ合い見つめ合う男女など、他にはひとつも見られなかった。ぼやけた頭に冷めた血の流れる音は、周囲の客の顰めた視線がこちらに集まっていることを、私にしっかりと認識させた。冷静になればこんな場所で居酒屋よろしく、酒を浴び呑み大声で愚痴騒ぐ奴等などいるわけがない。
「そういったって、こういった行為ぃー?」
けれど女の頭は冷めなかったか、ぷくっと頬をふくらませ、私の顔をぐいっと引き寄せると、唇を熱い息で柔らかく閉ざした。
「――――!」
ラウンジはどよめきに息を呑み、好奇と非難の視線が私と女に集中する。
熱が糸引き、息に離れる。
私を解放した女は得意げに、どうだとばかりに胸を張ったが、羞恥にすっかり酒醒めた私は、慌てて女の手を引いて、ラウンジの外へと逃げ出していた。