表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第一話

「なあに、キミ? フラれちゃったの?」

 携帯電話の画面に映る、メールの文字を見つめて固まっていた私に、その女は話し掛けてきた。

 見知らぬ女だった。黒いドレスにウールのショールを肩掛けたこの若い女は、まだ八時前だというのに、すでに酒の匂いを帯びていた。

 私は不快にこの女の顔を見上げたが、女は意にも介さずへらへらと笑いながら向かいの席に腰を下ろし

た。

「ふひひ、やっぱりフラれちゃったんだ」

 ホテルラウンジでのイブのディナーは七時からの予約だったが、グラスにワインが注がれないまま、時計の針はすでに八時を指そうとしていた。

 三度かけた電話が虚しく空コールを鳴らしたあと、彼女からメールが届いた。


『あなた以外にも夜があるのよ』


 裏切りの言葉に呆然と、何度も何度もその文字列を見返していた私の顔を見て、この女はやってきたようだった。

「ひどい顔だね」

 ネオンを映す夜窓の鏡に、青く白じむ顔があった。

「かわいそう。まるで私みたい」

 そう笑う女のまぶたは腫れ気味に、赤く弛んで溶けたマスカラに滲んでいた。

 女の左手の薬指には指輪が嵌められていた。しかし女が指差した自分の席には、一人分の料理しか置かれていない。どうやらこの女にも相手がいないらしい。

「フラれた同士、相席しない?」

 返事を待たずに女はウエーターを呼んだ。

「こちらの方と相席したの。ワインを開けて下さる?」

 ウエーターが困惑に私の顔を窺う。女はあまりにも突然過ぎた。ためらい黙る私の顔に、女は酔いに紅差す微笑みを向ける。

「うしろめたい?」

 その言葉に湧き上がったのは沸々とした憤りだった。


 ――あいつ以外に過ごす夜があって何が悪い。


 そう思ったときには私はウエーターにうなずきを与えていた。

 コルクが抜かれた。

「恋人のいない夜に、カンパーイ」

 卑屈に明るい乾杯がワイングラスをチンと鳴らすと、女は一飲みにワインを干してしまった。

 吐く息の甘く漂う。

「なあに、その目? あなたも飲みなさいよ。グイッとほら。男の子でしょ?」

 喉に鳴らすワインの熱が、カッと焼けて胃に墜ちていく。

「よっ、男の子!」

 女は手を叩くと、空いたグラスにボトルを傾ける。

 ほろく酔った身体の熱が、心地よく頭に巡った。

 ボトルが空いた。

「あんな女、フラれて正解だったのさ!」

「そうだそうだ!」

 酔いに酔われてほろほろに、空のボトルがまた一本。並んだディナーに触れる手もなく、メインディッシュのチキンソテーは淋しげに冷め残り、ワインの熱だけが繰り返しに喉の奥へと流れていった。

「少しかわいいからって、いい気になるんじゃないぞ!」

「なるなー!」

 女と私はすっかりに投合し、恋人にフラれた憂さを酒酔いに晴らしていた。

「かわいいからってなぁ、かわいいからってなぁ……」

「からって?」

 私はテーブルに突っ伏して、しばらくぶつぶつと呟くと、いきなりガバッと顔を上げた。

「……かわいかったんだよぉぉぉ、こんちくしょぉぉぉっ!」

「おお、よしよし」

 女はいつの間にかに椅子を引き寄せ、私の横に肩寄せ座ると、私の背中に腕を回してぽんぽんと、優しく肩を慰め叩いた。

「ねえねえ」

「うん?」

 女は私の頬に指突いて、自分に顔を向けさせる。

「私はかわいい?」

 酔い笑う女の顔は、泣き痕に化粧こそ崩れていたけれど、白い歯を見せながら上目遣いに丸い瞳をくりくりさせて、まじまじ見ればなかなかにかわいい顔だと、酔った頭にぼんやりと思えてきた。

「……かわいい」

 私は女の瞳をまっすぐ見つめて、ぽつりとぼんやりを呟くと、女は喜色を満面させて、私のグラスにワインを注いだ。

「わーい。私、かわいい。むふふ。じゃあもう一杯」

 ぼんやり頭にワインを重ねて傾注し、さらにぼんやりする酔いどれ頭が、私に女の両肩を鷲掴ませた。

「かわいい」

「まあ」

 女はわざとらしくしなを作ると、恥じらいに口を押さえて、楚々と顔を背けてみせる。

「かわいい」

 繰り返される私の言葉に女はしとりと向き直り、やがてゆっくりとまぶたを下ろす。

 薄く閉じた唇は、引いたルージュに鮮やかな濡れ紅色べにいろに私を誘い、私の顔は惹かれるように女の唇へと近づいていく。

 掴む肩がわずかに身悶えたように感じた。


「……お客様」


 見上げるとウエーターが困った顔で私を見ている。 

「他のお客様がいらっしゃいますので、大声で話されたり、そういった行為をなされるのはお控えして頂きたいのですが……」

 広いラウンジを見渡せば、対面席の椅子を横に並べて、肩を寄せ合い見つめ合う男女など、他にはひとつも見られなかった。ぼやけた頭に冷めた血の流れる音は、周囲の客の(しか)めた視線がこちらに集まっていることを、私にしっかりと認識させた。冷静になればこんな場所で居酒屋よろしく、酒を浴び呑み大声で愚痴騒ぐ奴等などいるわけがない。

「そういったって、こういった行為ぃー?」

 けれど女の頭は冷めなかったか、ぷくっと頬をふくらませ、私の顔をぐいっと引き寄せると、唇を熱い息で柔らかく閉ざした。


「――――!」


 ラウンジはどよめきに息を呑み、好奇と非難の視線が私と女に集中する。

 熱が糸引き、息に離れる。

 私を解放した女は得意げに、どうだとばかりに胸を張ったが、羞恥にすっかり酒醒めた私は、慌てて女の手を引いて、ラウンジの外へと逃げ出していた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ