10 洗濯女の日常 / スペイニ国王の独り言
※モーガン男爵夫人視点となります。
そして、私が皇宮内で任された仕事は……
夜が明けきらず、あたりはまだ薄暗い。私は重い足取りで井戸の前に立った。袖口がほつれた粗末な服に身を包み、かつての華やかな姿は跡形もない。震える手で荒縄を握り、じっと井戸の底を見つめる。水面に映るのは、かつて男爵夫人として贅沢な日々を過ごしていた私ではなく、皇女誘拐の罪によって奴隷へと落とされた、今の惨めな自分だった。
「まさか、私がこんなことをするなんて……」
ほんの数日前、ローマムア帝国に行きたいとフリートウッド国王に願い出たときには、貴族の身分を捨てる覚悟はあった。けれど、奴隷にされるとは思っていなかった。
荒縄をきつく握り締め、井戸の中に桶を沈めた。澄んだ水でいっぱいの桶を引き上げると、木製の大きなバケツに入れていく。かつて男爵夫人だった自分が、今は水汲みをしているだなんて。
皇宮は果てしなく広い。私は何度も重いバケツを持って各部署に水を運んだ。そのたびに腰は痛み、肩に重さがのしかかる。頬に刻まれた奴隷の烙印もひりひりと痛み、そよ風があたるだけで飛び上がりたくなる。
どうにか火傷用の薬をもらおうと奴隷長に申し出たけれど、徒労に終わった。
「あんた、皇女様を誘拐した大罪人だろう? そんな奴に塗り薬なんて贅沢すぎるよ。ほっとけば、そのうち治るさ。さっさと仕事に戻りな。生きてるだけでもありがたく思うんだね!」
「少しくらい薬を分けてくれてもいいじゃないですか?」
反射的に口を開いたその瞬間、烙印を押されていない頬に、鋭い痛みが走る。奴隷長が私の頬を叩いたのだ。
「お前が皇女様を誘拐したから、あげたくないんだよ。皇帝陛下や皇太后陛下が、どれほど心を痛められ、どれだけ長くお苦しみになられたか……この皇宮で働く者たちは、皆、慈悲深い皇帝陛下と皇太后陛下を心から敬愛しているんだっ!」
理解している。ここに私の味方などいない。皆が皇帝陛下や皇太后陛下を崇拝し、私を大罪人として憎んでいるのだと。
ようやく水汲みを終え、皇宮の地下にある洗濯場に足を運ぶと、そこには使用人たちの作業着が山のように積まれていた。
馬丁の服や、庭園の手入れで泥だらけになった庭師のズボン、料理人の油汚れが染みこんだコックの服など。しみついた汚れを落とすのは容易ではなく、布地を何回もこすり続けなければならなかった。
洗い続けるうちに指先がじんじんと痛み、すすぎの泡が消える頃には私の手はすっかり赤くなっていた。それでも、まだ私の仕事は終わらない。
洗濯し終わった衣類を抱えて、皇宮の端にある干し場へ向かう。大量の洗濯物を干していると、聞き慣れた女性の声が風にのって、微かに聞こえた。ここは、高貴な人々の視線が届かない場所だが、木々の向こうに庭園が広がっているのがちらりと見える。私はこっそりそちらに目をやった。
庭園の中央にはアグネス。きらめく陽光を浴び、薄紅色のドレスに身を包んだその姿は、遠目でもわかるほど華やかだ。隣には皇太后陛下が寄り添い、ふたりは笑い合いながら楽しげな時間を過ごしていた。
惨めな今の私と比べて、皇太后陛下たちはとても幸せそうだ。私の胸の奥で妬みと恨みの感情が芽生えかけたその瞬間、突如として背後から鋭い声が響く。
「恐れ多くも皇太后陛下と皇女殿下を盗み見るんじゃない! お前のような者が見るだけで、あの方たちの身が汚れるわ」
奴隷長は私を常に見張っていた。……些細な仕草でも、奴隷長が気に入らなければ、容赦ない叱責が飛んできた。悔しさで涙が滲んでいたその時、思いがけないことを聞かされた。
「あら、まぁ……あんたの旦那は、屋根修繕を命じられたようだね。皇宮の屋根を見てごらんよ」
(高所が苦手な夫が、屋根修繕?)
※スペイニ国王視点
――ローマムア帝国の隣に位置するスペイニ王国は、政治的にも経済的にも途上国である。国土は痩せた土地が多く、豊かな自然の恵みを享受できないため、農作物の生産が乏しい。国王は民衆の窮状には目を向けず、自身の贅沢にのみ熱を入れ、豪華な宮殿と高価な品々に囲まれていた。
「もっと民衆から税金を搾り取らんといけないな。あいつらは余のために存在しているようなものだ」
「おっしゃるとおりでございます。民の不満を全てローマムア帝国に向けさせれば良いのです」
「ははは! まさにその通りだ。ローマムア帝国の若き皇帝を、冷酷無比だと触れ回った甲斐があったわ。あいつは腐敗した貴族や役人どもを粛清したに過ぎないのだが、そんな真実など民衆にはどうでも良いのだ。愚かな民どもは、真実よりも過激な噂に踊らされる」
余は民に容赦なく重税を課し、貧しい者どもは喘ぎ苦しんでいる。国全体は荒れ果て、貴族と民の間には深い亀裂が生まれていた。
(だが、それが何だというのだ? 余はスペイニ国の王族として生まれ、この世の贅沢を享受するために存在している。民がどれほど困窮しようと、余の知ったことではない!)




