第4話 静寂のきしみ
美桜は「ふぅ」と息を吐き、脱衣所を後にした。
頬に残る水滴を指で拭いながら、リビングへ向かう。
そこでは母と伊原さんが顔を寄せ合い、深刻な表情で言葉を交わしていた。
「街がね、植物でいっぱいなの。
それに――見たこともない鳥まで飛んでて……」
伊原さんの声はかすかに震えていた。
母も窓の外を見た記憶をたどるように、低く息を漏らす。
「地震と関係があるのかしら……それに、美桜も……。――あ、美桜」
二人の視線がこちらに向く。
美桜はわずかに肩をすくめ、笑顔を作った。
「お母さん、私……本当にもう大丈夫」
口ではそう言いながら、胸の奥ではまだ心臓の鼓動が収まらなかった。
それでも、母の前では強くありたかった。
「そう。美桜がそう言うなら信じるわ。でも、無理はしないでね」
母の声は柔らかく、どこか祈るようだった。
「姉ちゃん、テレビ変だよ」
湊の声がリビングの隅から響く。
振り向くと、画面には灰色の砂嵐。
チャンネルをいくつ変えても、映るのはざらついたノイズばかりだった。
「地震か、あの鳥のせいじゃない?」
美桜は冗談めかして言う。けれど笑みは引きつっていた。
「えー、どうなってんだよ。携帯も圏外だし」
湊はため息をつき、ソファに寝転ぶ。
その何気ない仕草に、美桜の肩から少しだけ力が抜けた。
「……そうだ。こういうとき、水をお風呂に貯めておくのがいいんじゃなかった?」
「そうね。早く貯めておかないと」
母はそう言って小走りで脱衣所へ向かう。
残されたリビングに、湊のゲーム機の起動音が短く響いた。
けれどすぐに消える。Wi-Fiのマークが点滅したまま、接続は戻らない。
電気はついているのに、世界の“声”だけが遠ざかっていく気がした。
「おばちゃんの家、大丈夫なの?」
美桜が問いかけると、伊原さんは苦笑した。
「心配だけど……またあんなのがいたら怖いわ」
「ちょっと見てくるね」
美桜は立ち上がる。
玄関へ近づくたび、鼓動がひとつ、またひとつ強くなる。
(……大丈夫。今度は、怖がらない)
手を伸ばした指先が、震えていた。
「姉ちゃん」
背後から声。振り返ると、湊が立っていた。
「俺が見るよ」
「あなた、あの鳥……見てないでしょ」
声がかすかに震えた。
それでも湊は真っ直ぐに言った。
「俺が見るよ」
美桜はドアノブから手を離し、小さく呟く。
「……ごめん」
湊が覗き穴を覗き込む。
「……見える範囲には何もいないけどな」
そこへ母が戻ってきた。
「どうしたの? 何かあったの?」
「ううん。おばちゃんを家に戻してあげようと思って」
「外は危ないわよ」
母の声に、伊原さんは微笑んだ。
「でも帰らないと、みんな心配するから。二軒隣だし、大丈夫」
湊が鍵を回した。
カチャ、と金属の音が響く。
「ちょ、ちょっと!」
母の声を遮るように、扉がわずかに開いた。
冷たい風が室内に流れ込み、三人の髪を揺らす。
「大丈夫そうだよ」
湊が小声で言う。
伊原さんは「またね」と笑い、小走りで外に出た。
通りの先で扉をノックする音。
「私よ、開けて」
しばらくして「ガチャ」と音がして、彼女の姿が家の中へ消えた。
母が静かに扉を閉める。
三人は同時に息を吐いた。
その瞬間、家の奥で蛍光灯が一度、かすかに明滅した。
明かりはすぐ戻ったが、
その“瞬き”の間に――世界の空気が、確かに変わった気がした。
三人は再びリビングへ移動した。
空気は落ち着いたように見えて、どこか張りつめている。
「あ、お母さん。水は?」
美桜が尋ねると、母は小さく頷いた。
「バッチリ溜まってるわ」
「そっか……良かった」
すると湊が眉を寄せた。
「でもさ、地震で水って止まるの?」
「ほら、あれだけ大きかったし……水道管とか壊れるかもしれないしね。念のためよ」
母がそう答えると、湊は「ふーん」と少し納得したように肩をすくめた。
美桜は窓の方に目をやる。
「それに……外の様子もおかしいしね」
「そうだ。俺、まだちゃんと見てないんだよな。どうなってんだ?」
湊は言うなり、リビング奥のベランダへ向かった。
カーテンは三分の二ほど閉じており、外の光が細く漏れている。
湊がその布に手をかけようとした――その瞬間。
「ダメっ!!」
鋭い声がリビングを裂いた。
湊の肩がびくりと跳ねる。
血相を変えて駆け寄る美桜。
「また……あいつがいたらどうするのよっ!!」
怒鳴るというよりは、悲鳴に近かった。
湊は思わず振り返り、むっとした顔で言う。
「そんな怒らなくていいだろ!」
「あんたね――!」
「美桜! 湊!」
母が二人の間に入るように声を上げた。
「今は喧嘩してる場合じゃないでしょ。湊も不用意なことしないの。
美桜も……あんなことがあったんだから仕方ないけど、少し落ち着きなさい。
今は普段と違うんだから」
美桜は息を呑み、ゆっくり吐き出した。
「……ふぅ。湊、ごめん。急に怒ったりして」
「いや……俺もごめん。気をつけるよ」
二人が言葉を交わした、まさにその時——
――ドォンッ!!!
外から、地面を揺らすような爆発音が響いた。
「っ……!?」
三人が一斉にカーテンの隙間へ視線を向ける。
遠くの森の中から、黒煙が太く立ち上っていた。
爆発の地点は少し離れてはいるが、ただ事ではない規模だった。
湊が食い入るように外を見つめる。
「すげぇ爆発だよな……全部森になってるし。
あ、あれ……いつものスーパーじゃん。ほら、姉ちゃん」
「え? あー……そうね」
美桜は曖昧に答えながら、外を警戒するように見回した。
(……あの鳥は、見当たらない)
湊は少し興奮気味に続けた。
「でさ、姉ちゃんが見た鳥ってどこにいるんだ?見てみたいんだけど」
「今のところ……いないね。あいつ一匹だけなのかな」
母が不安げな声で問いかける。
「さっきの爆発……大丈夫なの?」
美桜は振り返り、安心させるように頷く。
「うん。少し離れてるし……あの鳥もいない。今のところは、ね」
母は胸を撫でおろし、穏やかな声で言った。
「そう……。危ないからカーテン閉めて。早くこっちへ来なさい」
「はーい」
二人は返事をし、カーテンを閉じた。
布が重く落ちると、また部屋に静寂が戻った。
だが、その静けさは――
爆発の余韻と、未知の気配の中で、どこか不自然に歪んでいた。
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