第30話 初めての町ヴェルナ
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
ひんやりとした湿気が、肌にまとわりつく。
湖が近いのだろう、水と藻の匂いがわずかに混じり、
その奥に、石と古木の乾いた臭いが重なっていた。
嗅ぎ慣れたはずの匂い同士。
それなのに、組み合わさり方が、どこかおかしい。
美桜たちは、その光景に思わず息を呑んだ。
「……どうなってる」
グロスが、低く呟く。
靴底に伝わる感触が、途中で途切れた。
石畳の硬さの下に、
アスファルト特有の、わずかに沈む弾力が混じっている。
歩くたび、感触が変わる。
無意識に重心が揺れ、足取りが定まらない。
視界が、近い。
広がるはずだった町並みはなく、
建物が、すぐそこまで迫っていた。
石造りの商館の壁に、
日本の住宅の外壁が半ば食い込み、
互いの輪郭を押し潰すようにして並び立っている。
塗装と石肌が、無理やり同じ平面を共有していた。
窓枠は途中で途切れ、
向こう側に、本来あるはずの部屋はない。
玄関だった場所は塞がれ、
その上から、補強材が打ち付けられている。
通りは、ある。
ただ、真っ直ぐではない。
石畳が急に細くなり、
数歩先でアスファルトに変わったかと思えば、
そのまま行き止まる。
脇には、建物と建物の隙間を縫うような、
人ひとりが、ようやく通れるほどの通路が続いていた。
さらに進むと、
その通路も途中で折れ、
建物の土台に塞がれている。
建物密集地の“途中”に、
何かを無理やり押し込んだような空間。
本来なら、成立しない距離感が、
力づくで成立させられている。
頭上も、落ち着かない。
二階建ての屋根の上に、
日本の家屋の屋根が半分食い込み、
瓦と石板が噛み合ったまま、静止していた。
雨樋は宙で途切れ、
その先は、別の排水溝へと繋がっている。
誰かが、咳払いをした。
振り向くと、住民らしい人物が立ち止まり、
落ち着きなく周囲を見回していた。
視線は忙しなく動くが、
行き先を決めきれない様子だった。
声は少ない。
話し声も、足音も、どこか控えめだ。
町に人はいる。
だが、音が立たない。
駐車場だったはずの空間は半分が潰れ、
残った部分に、
異世界の木箱や資材が積まれている。
生活の痕跡は、確かにある。
だが、整えられたものではない。
鼻をくすぐるのは、
中身が減った倉庫の匂い。
革と鉄の匂いに混じって、
わずかに、乾いた埃の気配があった。
生活の匂いはある。
だが、新しく補充された気配がない。
美桜は、喉の奥が少しだけ乾くのを感じた。
門の外で思い描いていた町は、
この数秒で、形を失った。
ヴェルナは、
迎え入れる準備が整った町ではなかった。
ここは、
どちらの世界の町でもない。
建物はある。
人もいる。
それでも――
落ち着く場所が、見つからない。
二つの町が、
まだ互いの居場所を探している途中の場所。
それが――
門を越えて最初に突きつけられた現実だった。
ヴェルナは、
門をくぐった者に、まずそれを分からせる町だ。
――ここでは、
立ち止まる理由が、至るところに転がっている。
「なんだか……ぐちゃぐちゃだね」
湊が、率直にそう漏らした。
「うん。建物と建物が、無理やり混じったみたい」
美桜も同意するように頷く。
視線の先では、異世界の石造りの壁に、日本のコンクリート外壁が噛み合い、互いに譲らぬまま歪んでいた。
「グロス、どうする?」
カイが問いかける。
「どうするも何も、とりあえずギルドだ」
グロスは短く答えた。
「でも……着けますかね? ギルド」
エナが苦笑混じりに辺りを見回す。
「……レオンの“頑張れ”ってのは、こういう意味か」
グロスは頭を掻いた。
そんな会話の最中――
目の前の細い路地から、冒険者風の男たちが現れた。
革鎧に剣、使い込まれた装備。
歩き方だけで、戦い慣れているのが分かる。
「すまない」
グロスが声をかける。
「……ん?」
男のひとりが足を止め、グロスを見る。
「ギルドには、どう行けばいい?」
「ああ、あんたたち……今戻ってきた口か」
男は苦笑した。
「そうなんだ。いや、凄いことになってるな」
「俺も驚いたぜ。外で魔法陣が出て光ったと思ったら、これだ」
肩をすくめる。
「ああ、ギルドな。この路地を道なりに進めばいいよ。少し開けた場所に出る。そこまで行けば、嫌でも分かる」
「そうか。感謝する」
グロスが礼を言うと、冒険者たちは手を振って去っていった。
「言われた通り行くか」
カイが歩き出す。
細い路地を抜けると、急に視界が開けた。
「……ここ、交差点なんだね」
美桜が言う。
信号機が立ち、車がそのまま放置されている。
異世界の町並みに、現代の“交差点”がそのまま残っていた。
「ほんとね……」
母が息を吐く。
「車も、止まったまま」
「――あったぞ」
グロスが指をさした。
「あれが、ギルドだ」
そこにあったのは、
分厚い石造りの外壁を持つ、重厚な建物だった。
長い年月を耐え抜いたのだろう。
表面は削れ、ところどころに修復の跡が残る。
白でも灰色でもない、土と煤が混じったような鈍い色合い。
装飾は少ない。
だがその分、実用一点張りの堅牢さが際立っていた。
正面には、幅広の木製扉が観音開きで据えられ、
鉄製の補強帯が何本も打ち付けられている。
剣や斧で打たれたような細かな傷が、無数に刻まれていた。
扉の上には、
交差した剣と盾を模した金属製の紋章。
塗装は剥げ、雨風に晒されて鈍く光っている。
「うわ……すげぇ」
湊が声を上げる。
「漫画みたいだな……!」
グロスたちは足早に扉へ向かう。
片方の扉を押し開け、中へ。
美桜たちも続いて入った瞬間――
空気が変わった。
中には、冒険者たちがいた。
グロスや、先ほどの男たちと似た装備。
鎧の擦れる音、革の匂い、鉄の気配。
話し声が、ぴたりと止まる。
視線が、一斉にこちらへ向けられた。
美桜は、思わず息を詰める。
「登録するぞ。こっちだ」
グロスの声に、はっとして動き出す。
受付台の向こうから、一人の女性が現れた。
「この方たちですね、グロスさん」
「ああ」
「初めまして。
リーネ・クラウディアと申します」
淡い栗色の髪を後ろでまとめ、首元はすっきりとしている。
白いシャツに濃緑のベスト。実務向きの装い。
整いすぎない顔立ちと、落ち着いた琥珀色の瞳。
一通り自己紹介を終えると、リーネは頷いた。
「では、冒険者登録を行います。
こちらの水晶に、手を乗せていただけますか?」
受付台の下から、水晶のついた装置を取り出す。
「これは……?」
カイが尋ねる。
「こちらに手を乗せていただくと、魔力を使用して、
本人しか使えない冒険者証を発行いたします」
リーネは淡々と説明した。
「へぇ……手を載せるだけで?」
カイが半信半疑で聞く。
「はい」
短く、だが慣れた返答。
カイは肩をすくめるようにして、水晶の上へ手を置いた。
ひんやりとした感触。
思っていたよりも硬く、石というより――
何か“生き物の表面”に触れたような不思議な冷たさだった。
次の瞬間、水晶が淡く光を放つ。
強すぎず、眩しすぎず、
まるで呼吸するように、ゆっくりと。
「おぉ……」
カイと湊の声が、同時に漏れた。
光がすっと収まると、
リーネは水晶の土台――木製の枠から、金属プレートを抜き取った。
「カイ・サクライ様。こちらがG級冒険者証になります」
プレートはずしりとした重みがあり、
表面には微かに温もりが残っている。
「あ、ありがとうございます」
軽く会釈して受け取る。
「俺もやる!」
湊が勢いよく手を挙げ、前へ出た。
「少しお待ちくださいね」
リーネはプレートを土台に差し戻し、
一拍置いてから微笑む。
「……どうぞ」
湊は一瞬ごくりと喉を鳴らし、
緊張した面持ちで手を置いた。
淡い光。
カイの時と、ほとんど変わらない。
「……なんも起きないや」
ぽつりと呟く。
「当たり前でしょ」
すかさず美桜が言い、前へ出る。
「いいですか?」
「はい。どうぞ」
リーネは柔らかく笑った。
美桜が水晶に手を載せた瞬間――
指先から、何かが引き抜かれるような感覚が走る。
冷たいのに、痛みはない。
だが確かに、“持っていかれている”。
(……変な感じ)
胸の奥が、わずかにざわつく。
それでも水晶の反応は、
カイや湊と同じ、穏やかな光のまま。
滞りなく、終了する。
「……最後は、お母さんね」
美桜が振り返る。
「え? 私?」
母は戸惑ったように首を振った。
「私はいいわよ。戦うとか、性に合わないし」
「でも登録しとかないとダメだよ。身分の証明できないじゃん」
美桜が言う。
「そうだな」
グロスが口を挟む。
「別に戦うだけが冒険者の仕事ってわけでもねー。
掃除だの、荷物運びだの……
いわゆる何でも屋みたいな側面もある」
「……そう?」
母は少し考え、肩をすくめた。
「じゃあ」
そう言って、水晶の前に立つ。
静かに、手をかざした瞬間――
水晶が、これまでよりも強く光った。
淡い光ではない。
芯のある、はっきりとした輝き。
一瞬、周囲の空気が張りつめる。
美桜は、思わず息を止めた。
今年最後のエピソードです
今年はありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。




