第28話 迫る影
グロスがゆっくりと立ち上がり、低く通る声で告げた。
「――そろそろ行こうか」
各々が好きな場所に腰を下ろし、短い休息を取っていた一行は、その声に反応して顔を上げる。
グロスは視線を巡らせ、項垂れている二人を見つけると、少し呆れたように声をかけた。
「……何をそんなに落ち込んでいる。行くぞ、二人とも」
そこにいたのは、カイと湊だった。
肩を落とし、地面を見つめたままの二人。
「だってさ……」
カイがぼそりと呟く。
「魔剣、なかったんだもんな……湊くん」
湊も同じように深く項垂れ、力なく頷いた。
「はい……何も、感じませんでした……」
二人は示し合わせたかのように、はぁ、と大きなため息をつく。
その様子を見て、美桜が歩み寄る。
「ほら、湊。行くよ」
「いいよなぁ、姉ちゃんは……」
湊は恨めしそうに顔を上げる。
「そんな、かっこいい刀ゲットしてさ」
「もう、まだ言ってるの?」
美桜は半ば呆れ、半ば照れたように返す。
「仕方ないじゃん。私が選んだわけじゃないんだから」
その腰には、和泉守兼定が帯びられていた。
鞘越しでも分かる存在感が、否応なく視線を引く。
「……気持ち切り替えて、行くか」
カイはそう言って立ち上がる。
「はーい……」
湊も気のない返事をしながら、ゆっくりと立ち上がった。
一行が入口へ向かおうとした、その時。
「あ、そうだ」
母がふと思い出したように声を上げ、くるりと踵を返した。
「お母さん?」
美桜が呼びかける。
「行くよー?」
「はーい、ちょっと待ってね」
母は小走りで事務所の方へ向かい、財布を取り出す。
中身を確かめ、少し迷ってから紙幣を抜き取る。
「……足りないかもしれませんが」
誰に聞かせるでもなく、そう呟きながら、窓口の隙間へそっと差し込んだ。
「これで、許してくださいね」
それを終えると、母は再び皆の元へ駆けて戻ってきた。
「お金なんて、役に立たないんじゃない?」
湊が不思議そうに言う。
だが母は、首を横に振った。
「いいの。これはね、気持ちの問題よ」
そう言って、穏やかに微笑んだ。
それから、三時間ほど歩いた。
街の名残と自然が入り混じる道。
ひび割れたアスファルトに、雑草が強引に顔を出している。
「ここで少し休憩しよう」
カイが声を上げる。
「ふー! やっと休憩だー!」
湊はその場に座り込もうとした。
「待て」
背後から、低い声。
テルマだった。
「地面に直接座るのは良くない。反応が遅れる」
「……そっか」
湊は素直に立ち上がり、周囲を見回す。
「あ、じゃあ……テルマさん。あの椅子ならいいですか?」
指差した先には、カフェのテラス席だったらしき椅子が二脚、倒れたまま残っていた。
テルマは静かに頷く。
湊は椅子を起こし、一つ差し出す。
「テルマさん、どうぞ」
だがテルマは手を挙げ、近くの木に背を預けた。
「……私は、ここでいい」
「じゃあ、お母さん」
湊は母に手招きする。
「この椅子、座りなよ」
「あら、ありがとう」
母はそう言って腰を下ろし、ゆっくりと息を整えた。
美桜は、木の根に腰を下ろしたまま、静かに息を吐いた。
遠くで、風に揺れる枝の音。
アスファルトの割れ目から伸びた草が、擦れ合ってかすかな音を立てている。
――カチャ。
腰元で、金属が小さく触れ合った。
和泉守兼定。
鞘越しでも伝わる、冷えた重み。
それが確かに“ここにある”という感触。
(……本当に、持ってるんだ)
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
(なんで……あなたは、私を選んだの?)
問いかけた、その瞬間。
空気が――変わった。
肌に触れる風が、止まった気がした。
音が、遠のく。
美桜の背中を、氷の指でなぞられたような感覚。
――嫌な予感。
理由はない。
だが、はっきりと「分かる」。
美桜は、勢いよく振り向いた。
見えるのは、
木。
ひび割れたアスファルト。
伸び放題の草。
人影は、ない。
(……なに、これ)
心臓が一拍、強く跳ねる。
美桜は、ゆっくりと立ち上がった。
無意識に、刀の柄に指がかかる。
指先に伝わる、革と金属の感触。
「……どうしたんだい、美桜ちゃん?」
カイの声。
美桜は、視線を逸らさないまま答えた。
「……わかりません」
喉が、わずかに乾く。
「なんだか……嫌な予感がします。
こっちの方から……」
その時だった。
背後から、足音。
砂利を踏まない、静かな歩み。
振り返ると、
テルマが弓を手に、こちらを見ていた。
弦には、まだ矢はかかっていない。
だが――
その目は、すでに“見ている”。
テルマは、低く息を吐き、
一言だけ告げた。
「……敵だ」
テルマを見て、グロスが短く問う。
「……どっちだ」
テルマは迷いなく、ある一点を指さした。
それは――美桜が先ほど嫌な予感を覚え、指さした方向と、まったく同じだった。
「あっちだ」
「数は」
「五……いや、六体。
――いや、五体だ。」
即座に修正が入るのは、敵が動いている証拠だった。
グロスが低く唸る。
「種類はわかるか」
「この気配……たぶん、コボルト。
もう、こちらに気づいている」
その言葉に、空気が一段重くなる。
「……よし。問題ないな」
グロスはそう言い切った。
「ここで迎え撃つぞ」
「え……逃げないんですか?」
湊の声は、わずかに裏返っていた。
「早く逃げた方が――」
その言葉を、カイが遮る。
「湊くん。コボルトは足が速い。
今から逃げても、正直ちょっと遅い」
カイは地面に視線を落としながら続ける。
「テルマの探知範囲は、広くて五十メートルくらいだ。
ここまで正確に数が割れてるってことは……」
「十から二十メートル」
テルマが淡々と補足する。
「奴らの脚力を考えれば、どのみち接敵する。
それなら、無駄に走ってスタミナを削るより、
ここで迎え撃った方が勝率は高い」
カイは笑みを浮かべた。
「それに――コボルトなら、何度も倒してる。
大丈夫だよ」
その笑顔は軽いが、判断は冷静だった。
「……はい」
湊は短く頷いた。
「お願いします」
美桜は、無言で柄に手をかけていた。
だが、その手は――わずかに震えている。
(……震えてる場合じゃない)
心臓が早鐘を打つ。
喉がひりつくほど乾いている。
(みんなを守るためにも……今は、震えちゃダメ)
そう言い聞かせると、
指先の震えは、ゆっくりと収まっていった。
――抜刀。
和泉守兼定が、鞘を離れる。
真上から差し込む太陽光が刃を舐め、
鈍く、しかし確かな光を返した。
「美桜ちゃん」
カイが声をかける。
「ゴブリンを倒した、その剣術。
ここで見せてくれよ」
少しだけ、冗談めかした声。
「ゴブリンより、ちょっと強いけどな」
「……はい!」
美桜は、短く応えた。
「――来るぞ!」
グロスの声が、低く響く。
陣形が組まれる。
前衛――グロスとカイ。
中衛――テルマと美桜。
後衛――エナ、湊、そして母。
次の瞬間。
森の奥から、
ぬちゃり、と湿った足音が連なって響いた。
現れたのは――コボルト。
五体。
背丈は人間の子どもほど。
犬科とも猫科ともつかぬ獣の顔に、
黄色く濁った眼が、不規則に光っている。
灰色やくすんだ褐色の毛並みは乱れ、
ところどころ剥げ、泥と乾いた血がこびりついていた。
清潔さなど、どこにもない。
腰に巻かれているのは、
布切れか獣皮を雑に結んだだけの腰布。
鎧と呼べるものはなく、
革の切れ端や木片を紐で縛っただけの粗末な防具が、
肩や前腕に申し訳程度に付いている個体もいる。
黒く伸びた爪。
欠けた歯列。
口を開くたび、
喉の奥から低い唸り声が漏れた。
武器も統一されていない。
刃こぼれした短剣。
原木に釘を打ち込んだだけの棍棒。
どれも粗雑で、
「奪えればいい」と言わんばかりの代物だ。
五体は横一列ではなく、
互いの距離を少しずつずらしながら、
獲物を囲むように散開している。
統率はない。
だが――狩りの経験だけで身についた動き。
数で押すための、最低限の知恵。
その濁った視線が、
ねっとりと美桜たちに絡みついた。
「――きたぞ!」
グロスの声と同時に、
キィン――!
テルマの放った矢が、
先頭のコボルトの額を正確に射抜いた。
即死。
倒れた仲間を見て、
残りのコボルトたちが一斉に唸り声を上げる。
テルマが次の矢を番えようとした、その瞬間。
四体が――走った。
二体は、正面からグロスとカイへ。
残り二体は左右に分かれ、大きく回り込み――
後衛を狙う。
「ちっ……!」
グロスが舌打ちする。
「知恵の回る獣どもめ!
テルマ! 嬢ちゃん! そっちを頼む!」
テルマは無言で頷いた。
美桜は、迫り来る魔物を見据える。
――その目。
獲物を見る目。
ここ数日、
何度も、何度も見てきた目だった。
だが――
手が、また僅かに震える。
心臓がうるさいほど鳴り、
呼吸が浅く、早くなる。
(……怖い)
正直な感情が、胸をよぎる。
「姉ちゃん!」
湊の声。
振り向くと、
湊が震える手で、美桜の腕を掴んでいた。
「俺に任せろ!」
その手には、
唐辛子入りの水鉄砲。
「……湊」
「俺たちで戦うんだろ?」
湊は、敵から目を離さず言った。
その言葉に、
美桜の胸に、じんわりとした温かさが広がる。
「……そうね」
眼前まで――
コボルトが、迫っていた




