↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/37

第25話 父の地図

数回の練習を終え、エナは小さく息を整えてから口を開いた。


「……それじゃあ、この辺にしておきましょうか」


湿ったタイルの冷気がまだ残る風呂場に、その声が落ちる。


「え、もうちょっと練習したいです」


湊が名残惜しそうに言うと、エナは人差し指を立てて首を振った。


「だめですよ。

あまり練習しすぎると、移動に支障が出てしまいますから」


穏やかな口調だが、そこには経験に裏打ちされた確信があった。


美桜は湊の横顔を見て、軽く息を吐く。


「この辺にしておきな。……私もちょっと疲れたし」


湊は一瞬だけ口を尖らせたが、やがて小さく頷いた。


⸻


それから三十分ほど、家の中で静かに過ごした。


窓から差し込む朝の光は、どこか白っぽく、

家具や壁に落ちる影がやけにくっきりしている。


誰もが言葉少なで、

それぞれが“これから”のことを胸の奥で反芻していた。


やがて、リビングにいたカイが立ち上がる。


「……じゃあ、そろそろ行こうか」


その一言で、美桜と湊は無言のまま立ち上がる。

それぞれ自分の荷物を手に取るが、

指先にわずかな力が入り、表情は硬い。


母はいつも通りの穏やかな笑顔を保っていたが、

その奥には、隠しきれない不安が揺れていた。


カイはそんな二人に向けて、まっすぐ言う。


「大丈夫。

僕たちが守るから」


その言葉に、母は何も言わず、ただ小さく息を吐いた。


フォーエッジを先頭に、家を出る。


玄関の扉が閉まる音が、

思っていたよりも大きく響いた。


最後に残ったのは、美桜と湊。


美桜は足を止め、振り返る。


見慣れた壁、玄関先の靴箱、

当たり前だった空間が、もう“過去”に変わろうとしていた。


湊が、小さく、しかしはっきりと言う。


「……絶対、帰ってこよう」


美桜は一度だけ、強く頷く。


「うん。

強くなって……また戻ってくる」


その言葉を胸に刻むように、二人は背を向けた。


マンションのエントランスを抜ける。


外に出た瞬間、空気が変わった。


湿った土の匂い。

葉擦れの音。

コンクリートの隙間から伸びる草と、

建物の影に覆いかぶさるような木々。


見慣れた街は、もう別の顔をしていた。


母は思わず足を止め、周囲を見回す。


「……すごいわね」


低く呟く声。


「本当に木が生い茂ってる……。

まるで、違う世界に来たみたい」


誰も否定しなかった。


それは比喩ではなく、

今の現実そのものだったからだ。


美桜と湊が外に出てきたのを確認すると、


グロスは低く通る声で告げた。


「これから向かうのはヴェルナという町だ。


俺たちが元々、拠点にしていた場所だ」


朝の空気はまだ冷たく、


土とコンクリートが混ざった匂いが鼻をつく。


カイが歩きながらグロスに視線を向ける。


「ここから遠いのか?」


「徒歩で半日ほどだな。


日が沈む前には着けるだろう。方角は南西だ」


淡々とした言い方に、冒険者としての経験が滲んでいた。


湊が少し考えるようにしてから、遠慮がちに口を開く。


「ていうか……グロスさんたちは、なんでこんな所にいたんですか?」


グロスは一瞬だけ視線を前にやり、それから肩をすくめた。


「俺たちは元々、四人だった。


だが一人、辞めちまってな」


その声は重くもなく、かといって軽くもない。


「新しい仲間を探してたんだが、なかなか見つからなくてな。


とりあえず、俺たちより下のランクのクエストを受けて……


この辺りまで来たってわけだ」


美桜は歩調を合わせながら、静かに頷く。


「それで……カイさんと出会ったんですね」


「あぁ。ゴブリンに襲われててな」


グロスは口の端を少しだけ上げた。


「しかも、泣きべそかきながら剣をブンブン振り回してた」


「ちょっと待て!


その話はいいだろ!」


カイは顔を赤くして声を荒げる。


「……早く行くぞ!」


その様子に、エナが小さく笑い、テルマは無言で視線を逸らした。


一時間ほど歩いたところで、グロスが足を止めた。


「……少し休憩しよう」


その言葉に、後方を歩いていた湊と母が、


ほっとしたように表情を緩める。


「悪いな。ここに集まってくれ」


全員が集まると、グロスは周囲を見渡した。


倒れかけた電柱、


壁を這う蔦、


森と街の境目が曖昧になった風景。


「方向は合っている。だが……


建物が多くて、かなり遠回りしているようだ」


グロスは美桜と湊を見る。


「この辺の地理に詳しいか?」


二人は同時に首を横に振った。


「……正直、どこにいるのかも分からないな」


カイもそう付け加える。


その時だった。


「地図なら……持ってますよ」


母がそう言って、カバンの中から一冊取り出した。


角が擦り切れ、何度も折り畳まれた跡のあるロードマップ。


「なにそれ? 地図?」


湊が不思議そうに聞く。


「そうよ」


母は少し懐かしそうに微笑んだ。


「お父さんね、地図だけで出かけるのが好きだったの。


ナビなんて使わない人だったから」


そう言って、地図を差し出す。


「だから、これを持ってるのよ。


……お父さんに感謝ね」


美桜はその言葉に、


切なさと温かさが混ざったような表情で「うん」と頷いた。


グロスは地図を受け取り、自分たちの持つ簡素な地図と並べた。


そして、思わず声を上げる。


「……これは……すごいな」


細かな道路、地名、地形。


圧倒的な情報量。


「ここに行きたいんだが……見方、分かるか?」


カイたちに二つの地図を見せる。


一方は、目印だけが描かれた冒険者用の地図。


もう一方は、現代のロードマップ。


母は冒険者の地図を覗き込み、しばらく考え込む。


「……これは……津久井湖かしら」


ロードマップをめくり、形を照らし合わせる。


「あったわ。ここね。……住所、分かるかしら」


湊が周囲の家を見て確認する。


「神明四丁目……みたい」


母は指で地図をなぞる。


「このまま下ると二〇号線に出るわ。


そこを右。道沿いに行きましょ」


グロスたちは目を丸くしていた。


「……なんだ、それは。


どういう意味だ?」


聞き慣れない単語に、完全に混乱している。


カイは苦笑いしながら、グロスの肩を叩く。


「まぁまぁ。行こう。


説明は歩きながらでいい」


「……あぁ」


こうして七人は再び歩き出した。


森とコンクリートが入り混じる、不思議な道を。


ヴェルナという町へ向かって。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。