第25話 父の地図
数回の練習を終え、エナは小さく息を整えてから口を開いた。
「……それじゃあ、この辺にしておきましょうか」
湿ったタイルの冷気がまだ残る風呂場に、その声が落ちる。
「え、もうちょっと練習したいです」
湊が名残惜しそうに言うと、エナは人差し指を立てて首を振った。
「だめですよ。
あまり練習しすぎると、移動に支障が出てしまいますから」
穏やかな口調だが、そこには経験に裏打ちされた確信があった。
美桜は湊の横顔を見て、軽く息を吐く。
「この辺にしておきな。……私もちょっと疲れたし」
湊は一瞬だけ口を尖らせたが、やがて小さく頷いた。
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それから三十分ほど、家の中で静かに過ごした。
窓から差し込む朝の光は、どこか白っぽく、
家具や壁に落ちる影がやけにくっきりしている。
誰もが言葉少なで、
それぞれが“これから”のことを胸の奥で反芻していた。
やがて、リビングにいたカイが立ち上がる。
「……じゃあ、そろそろ行こうか」
その一言で、美桜と湊は無言のまま立ち上がる。
それぞれ自分の荷物を手に取るが、
指先にわずかな力が入り、表情は硬い。
母はいつも通りの穏やかな笑顔を保っていたが、
その奥には、隠しきれない不安が揺れていた。
カイはそんな二人に向けて、まっすぐ言う。
「大丈夫。
僕たちが守るから」
その言葉に、母は何も言わず、ただ小さく息を吐いた。
フォーエッジを先頭に、家を出る。
玄関の扉が閉まる音が、
思っていたよりも大きく響いた。
最後に残ったのは、美桜と湊。
美桜は足を止め、振り返る。
見慣れた壁、玄関先の靴箱、
当たり前だった空間が、もう“過去”に変わろうとしていた。
湊が、小さく、しかしはっきりと言う。
「……絶対、帰ってこよう」
美桜は一度だけ、強く頷く。
「うん。
強くなって……また戻ってくる」
その言葉を胸に刻むように、二人は背を向けた。
マンションのエントランスを抜ける。
外に出た瞬間、空気が変わった。
湿った土の匂い。
葉擦れの音。
コンクリートの隙間から伸びる草と、
建物の影に覆いかぶさるような木々。
見慣れた街は、もう別の顔をしていた。
母は思わず足を止め、周囲を見回す。
「……すごいわね」
低く呟く声。
「本当に木が生い茂ってる……。
まるで、違う世界に来たみたい」
誰も否定しなかった。
それは比喩ではなく、
今の現実そのものだったからだ。
美桜と湊が外に出てきたのを確認すると、
グロスは低く通る声で告げた。
「これから向かうのはヴェルナという町だ。
俺たちが元々、拠点にしていた場所だ」
朝の空気はまだ冷たく、
土とコンクリートが混ざった匂いが鼻をつく。
カイが歩きながらグロスに視線を向ける。
「ここから遠いのか?」
「徒歩で半日ほどだな。
日が沈む前には着けるだろう。方角は南西だ」
淡々とした言い方に、冒険者としての経験が滲んでいた。
湊が少し考えるようにしてから、遠慮がちに口を開く。
「ていうか……グロスさんたちは、なんでこんな所にいたんですか?」
グロスは一瞬だけ視線を前にやり、それから肩をすくめた。
「俺たちは元々、四人だった。
だが一人、辞めちまってな」
その声は重くもなく、かといって軽くもない。
「新しい仲間を探してたんだが、なかなか見つからなくてな。
とりあえず、俺たちより下のランクのクエストを受けて……
この辺りまで来たってわけだ」
美桜は歩調を合わせながら、静かに頷く。
「それで……カイさんと出会ったんですね」
「あぁ。ゴブリンに襲われててな」
グロスは口の端を少しだけ上げた。
「しかも、泣きべそかきながら剣をブンブン振り回してた」
「ちょっと待て!
その話はいいだろ!」
カイは顔を赤くして声を荒げる。
「……早く行くぞ!」
その様子に、エナが小さく笑い、テルマは無言で視線を逸らした。
一時間ほど歩いたところで、グロスが足を止めた。
「……少し休憩しよう」
その言葉に、後方を歩いていた湊と母が、
ほっとしたように表情を緩める。
「悪いな。ここに集まってくれ」
全員が集まると、グロスは周囲を見渡した。
倒れかけた電柱、
壁を這う蔦、
森と街の境目が曖昧になった風景。
「方向は合っている。だが……
建物が多くて、かなり遠回りしているようだ」
グロスは美桜と湊を見る。
「この辺の地理に詳しいか?」
二人は同時に首を横に振った。
「……正直、どこにいるのかも分からないな」
カイもそう付け加える。
その時だった。
「地図なら……持ってますよ」
母がそう言って、カバンの中から一冊取り出した。
角が擦り切れ、何度も折り畳まれた跡のあるロードマップ。
「なにそれ? 地図?」
湊が不思議そうに聞く。
「そうよ」
母は少し懐かしそうに微笑んだ。
「お父さんね、地図だけで出かけるのが好きだったの。
ナビなんて使わない人だったから」
そう言って、地図を差し出す。
「だから、これを持ってるのよ。
……お父さんに感謝ね」
美桜はその言葉に、
切なさと温かさが混ざったような表情で「うん」と頷いた。
グロスは地図を受け取り、自分たちの持つ簡素な地図と並べた。
そして、思わず声を上げる。
「……これは……すごいな」
細かな道路、地名、地形。
圧倒的な情報量。
「ここに行きたいんだが……見方、分かるか?」
カイたちに二つの地図を見せる。
一方は、目印だけが描かれた冒険者用の地図。
もう一方は、現代のロードマップ。
母は冒険者の地図を覗き込み、しばらく考え込む。
「……これは……津久井湖かしら」
ロードマップをめくり、形を照らし合わせる。
「あったわ。ここね。……住所、分かるかしら」
湊が周囲の家を見て確認する。
「神明四丁目……みたい」
母は指で地図をなぞる。
「このまま下ると二〇号線に出るわ。
そこを右。道沿いに行きましょ」
グロスたちは目を丸くしていた。
「……なんだ、それは。
どういう意味だ?」
聞き慣れない単語に、完全に混乱している。
カイは苦笑いしながら、グロスの肩を叩く。
「まぁまぁ。行こう。
説明は歩きながらでいい」
「……あぁ」
こうして七人は再び歩き出した。
森とコンクリートが入り混じる、不思議な道を。
ヴェルナという町へ向かって。




