第21話 魔法への一歩
六人はリビングに腰を下ろしていた。
窓の外は日が落ち、黒い景色が静かに張り付いている。部屋の中央ではロウソクが小さく揺れ、そこから漏れる橙色の光が全員の顔を照らしていた。
自己紹介をひと通り終えたところで、グロスが口を開いた。
「今さらで悪いんだが……水場はあるか? 装備を洗いたいんだ」
母が少し考えるように首を傾げた。
「水場、というと……ああ、お風呂のことですか。でも今、水は出ないんですよ」
「出なくて構わん。場所さえ教えてくれればいい」
グロスの言葉に、美桜が立ち上がる。
「こっちです。案内します」
歩き始めた美桜の後ろを、グロス、テルマ、エナが自然に続く。
廊下の空気は少しひんやりしていて、靴下越しに床の冷たさが伝わった。
―――――
美桜が扉を開けると、風呂場には湯船に溜めておいた水が静かに残っていた。
グロスはそれを見て、腕を組む。
「全員は入れんな……エナ、お前が先に洗え」
「いえ、私はそこまで汚れてないので。どうぞお先に」
エナが控えめに返すと、
「そうか」
と短く応じ、グロスは胸当てや布を外しはじめた。
そして、ためらいなく湯船へ装備をドボンと放り込む。
「あっ……!」
美桜が驚いて声を上げる。
グロスは振り返り、眉を少し寄せた。
「……この水、何かに使う予定だったか?」
「まぁ……はい。一応……」
美桜は困りつつ答える。
「すまん。後で汲みに行ってくる」
その言葉に、カイがすぐ口を挟んだ。
「グロス、この辺に井戸なんてないと思うよ」
「井戸がない? じゃあこの水はどうやって……?」
グロスが湯船を指す。
カイは蛇口へ歩き、捻ってみせた。
金具がキュッと鳴るだけで、当然何も出ない。
「本来はここから水が出る仕組みなんだ。今は止まってるけどね」
グロス、エナ、テルマの三人が揃って目を丸くした。
「そんな便利なものが……」
「すごいですね、考えつきませんよ……」
「……」頷くテルマ
驚きが素直に声に滲む。
母は「困ったものね」と少し笑って肩をすくめた。
その時、湊がカバンを探り、小さなペットボトルを一本取り出して母に渡す。
「……これしかなかった。みんな取ってて、ほとんど残ってなかったよ……」
母はそれを受け取り、しばらく見つめたあと微笑んだ。
「そう……みんな同じことを考えるわよね。でも、一つでも十分助かるわ。ありがとう」
湊は照れくさそうに目をそらし、少しだけ胸を張った。
「まぁ、仕方ないですね。皆さん、その水は思う存分使って下さい」
母はロウソクの光の中で柔らかく笑った。
その笑顔は少し疲れて見えたが、強さがあった。
「でも……どうするの?」
美桜が小声でたずねる。
その瞳には“水がもうほとんどない現実”への心配が滲んでいた。
「次は私も一緒に行くわ!」
母はぐっと腕まくりをした。
「危ないよ!」
湊が慌てて止めようとするが、
「子どもにだけ仕事させるなんてできないの!」
母の声は揺るがなかった。
美桜と湊は顔を見合わせ、同時に小さくため息をつく。
“言っても無駄だ”というあのやれやれ顔。
母は洗面台の下から新しい固形石鹸を取り出し、軽く放る。
「グロスさん。これ使って」
光を受けて白く角ばった石鹸が弧を描き、グロスの大きな手に収まった。
「これは……?」
指先で触れた感触は固くて軽い。未知の道具の質感に眉を寄せる。
「石鹸ですよ」
「「石鹸?!」」
テルマは目を見開き、グロスとエナが同時に声をあげた。
驚きのあまりロウソクの炎がふっと揺れ、影が踊る。
「こんな高級なもの……使えん!」
グロスは慌てたように母へ差し返そうとする。
「そんな高いものじゃありませんよ。遠慮しないで、どうぞ」
母は笑みを崩さずに受け流す。
「本当に……使っていいんですか?」
エナは石鹸を見る目が完全に“憧れの宝物”のそれだった。
「もちろんです」
母の言葉に、エナは小さく「やった……」と漏らし、ローブの袖を胸元でぎゅっと握った。
「僕たちの世界では、石鹸って本当に大したものじゃないよ。家にいくつも置いてあるくらいだし」
カイは苦笑しながら言う。
「そうなのか……? こっちじゃ貴族が使う代物だぞ……」
グロスは石鹸を両手で丁寧に持ち直し、深く息をついた。
「……ありがたく使わせてもらう」
――――
グロスの後はテルマ、そしてエナの番になった。
「ローブを洗った後……少し水浴びしてもいいですか?」
エナが遠慮がちに言った瞬間、美桜と湊が同時にキョトンとした。
「え、水出ないですよ? まさか、この水で?」
美桜が浴槽を指さす。
そこには血と泥を洗い落とした残り水。濁った水面が揺れる。
「まさか。そんなことしたらまた汚れますよ」
エナは笑いながら、ローブの裾をつまんで揺らした。
「じゃあ……どうやって?」
美桜の眉がきゅっと寄る。
「あ……そうか。すっかり忘れてた」
カイが頭をかいた。
「そう。魔法で水を出すんです」
エナは指先を揺らすようなを仕草をした。
「え、水出せるんですか?! どうやったら? 私にもできますか?」
美桜は思わず距離を詰め、目を輝かせる。
呼吸が早くなり、肩が小刻みに上下していた。
「ちょ、ちょっと美桜。エナさんがお風呂終わったら聞きましょ」
母が美桜を腕で引き戻した。
――――
しばらくして、装備品は全て洗い終わり、ベランダに干された。
湿った風が吹き抜け、革の匂いと鉄の匂いが夜気に混じる。
フォーエッジの三人は、美桜たち家族の服に着替えていた。
特にグロスは、母が出した古いジャージ姿。
肩周りが明らかにきつい。
「すまないな……少しきついが、良い服だ」
グロスは動くたびに肩が引きつる音を立てながらも、満足そうに笑った。
「ごめんなさいね。亡くなった夫のものだから……ちょっと小さいでしょ」
母が寂しげに笑う。
「いや、大丈夫だ」
グロスは胸を張ったが、胸がパツパツに張っていた。
――――
「それじゃあ…」
カイが全員に向き直った。ロウソクの炎が彼の横顔を淡く照らす。
「これからのことを話そう。僕は“街”に行こうと思ってる」
「街?」
美桜が息を呑む。
「うん。グロスたちがいた街だ。そんな大きくないところみたいだけど、冒険者ギルドもあるし、情報も集まると思うんだ。僕たちももっと動きやすくなると思う」
ロウソクの火が揺れ、壁の影が波打った。
「そこで、君たちに聞きたい。僕たちと来るか、それともここに残るか。どっちでもいい。来るにしても残るにしても……僕たちにできることは全部教えるよ」
美桜と湊はわずかに目を合わせた。
その表情に“もう答えは決まっている”と分かる色があった。
しかし、母は何も言わなかった。
ただ、静かに立ち上がる。
そして──押し入れから重そうなダンボールを持ってきて、机の上へ置いた。
ゴトッ。
中には缶詰、乾パン、レトルト食品。
今の世界で、ほとんど“命”に等しいものたち。
母は深く頭を下げた。
「この子たちを……その町へ連れて行ってあげてください。ここに残るより、あなたたちと行動した方が安全だと思います。これは……今この家にある食料の全部です。私に渡せるのは、これだけですが……どうかお願いします」
母の背筋は真っ直ぐだった。
「え……ちょ、ちょっと、やめてください!」
カイが慌てて手を振る。
「そんなつもりで言ったんじゃない! 食料なんてなくても、本人たちが行きたいと言えば連れて行くつもりでした!」
しかし母は頭を下げ続けた。
「それでも……これを受け取ってください」
「い、いやいやいや……!」
カイが箱を押し返す。
母がさらに押し返す。
押し返す。
押し返される。
ロウソクの炎が揺れ、影がばたばたと動いた。
その時──美桜がすっと立ち上がった
目を真っ直ぐに上げて、短く、強く言った。
「――私も魔法を使えるようになりたい。」
その瞳はもう、怯える少女ではなかった。
ロウソクの光をまっすぐに返す、
覚悟を決めたひとりの女性の目だった。




