第20話 再会の夕暮れ
2人は、息を呑んだまま外を見つめていた。
夕暮れの橙光が濁った影を引きずり、倒れた電柱の陰で風がざわりと草を揺らす。その風が、緊張で乾いた喉をさらにひりつかせた。
最初に気配が現れたのは、靴裏がアスファルトの破片を踏む微かな音だった。
続いて──影が4つ、ゆっくりと輪郭を帯びて浮かび上がる
先頭を歩く青年は、鋭い目つきを保ちながらも、呼吸はすでに落ち着いていた。
皮の胸当てには細かな擦れ傷がいくつも走り、ところどころに緑がかった泥と草の汁が薄くこびりついている。カーゴパンツの裾は枝に引っかけたようにほつれ、膝には乾きかけた土の粒が付着していた。
その後ろを進むのは、熊のように大柄な男。
腕や肩に力みはなく、大槌はいつものように軽々と担がれている。だが、打撃面にはいくつも小さな凹みが刻まれ、黒っぽい汚れが斑点のように散っている──返り血ではない。ゴブリンの脂と土が混ざって乾いた跡だ。
さらに、細身でローブ姿の弓使いが続く。
彼の弓の弦には薄い埃がかかり、ローブの端には茂みに擦れたような細い裂け目が見える。弦の震えの気配はもうなく、戦闘はすでにしばらく前に終えていることが伺えた。
最後に、小柄な女。
短い杖を胸の前に抱え、歩みに乱れはない。杖の先には微弱な魔力の残り香が漂っているが、それもすでに薄い。優しげな顔立ちは健在で、ただ瞳だけが“さっきまで警戒していた”名残をうっすら保っていた。
美桜は思わず息をのみ、そのまま胸が熱く跳ねた。
「──あ、皆さん!」
抑えきれず柱の影から身を乗り出す。
張りつめていた肩の力がほどけたように抜け、湊も慌てて美桜の背中を追う。
距離が縮まるほど、彼らの“現実的な戦闘直後”が細部まで目に映った。
革の胸当てに走る浅いひっかき傷。
グロスの大槌についた土埃の層。
テルマのローブの裾に残る、茂みに擦れた細かな破れ。
風がふっと吹き抜け、湿った土の匂いと、乾いた汗のかすかな酸味が混ざる。
鉄の匂いはほとんどない──彼らの戦いは、技術と経験で終わったのだと、美桜は直感で理解した。
「良かった。無事だったんだね」
カイが安堵と疲労を滲ませた笑顔で言った。
美桜は胸が一気に熱くなり、微かに震える指先を握りしめた。
「良かった……みんな、本当に無事で……」
言葉にした瞬間、喉が詰まって息が震えた。
「いや、大変だったよ。」
カイは胸当ての汚れを軽く払う。
「思ったより数が多くてさ。先に行かせて正解だったよ。」
苦笑しながら言うカイ──だが次の瞬間、彼の視線が突然止まった。
美桜の手元。
木刀。
先ほどまで浅い擦り傷しかなかったはずのそれは、一部が欠け、鈍く潰れたように歪んでいた。
カイの朗らかな目が鋭く狩人のそれに変わる。
腰の剣の柄に手が静かに触れる。
空気が一瞬だけ冷たく張り詰め、湊がごくりと喉を鳴らした。
「……何かに襲われたのか?」
その声を合図に、グロスは大槌を肩に担ぎ直し、テルマは弓に指をかけ、エナは杖を少し前に出す。
まるで次の脅威に備えるように。
「えっ、だ、大丈夫です!」
美桜は慌てて木刀を胸の前に抱えた。
心臓が跳ね、呼吸が浅くなるのを必死に抑えながら。
「ゴブリンに……会いました。でも──なんとか、やっつけられました」
言葉にした刹那、木刀を握る指先が汗でわずかに滑った。
その震えを、美桜はカイに悟られないよう強く握り直した。
「そうなんです!」
背後から湊の声が勢いよく弾んだ。
緊張が解けた反動か、声に少し震えが混じっている。
「姉ちゃん、すごかったんですよ! 二匹をあっという間に倒したんです!」
美桜は肩をびくりと震わせ、湊の腕を軽くつついて「ちょっと……」と目で訴える。
けれど湊は胸を張り、息を少し荒くしながら続けた。
「ほんとに、一瞬で……!」
「え、二匹も出たのかい?」
カイの目が驚きに揺れた。喉元の呼吸が一瞬だけ深まる。
グロスが首を回しながら低い声で言う。
「はぐれのやつだろ。さっきの群れから散ったやつかもしれねぇな」
エナがそっと一歩前に出た。杖を胸の前で抱え直し、柔らかい声で問う。
「でも……美桜さん、どうやって倒したんですか?」
美桜は一瞬だけ視線を逸らし、頬に小さな汗の線を残しながら、苦笑して答えた。
「実は……私、剣道をやってて。それで……どうにかなりました」
「なるほど。だから木刀も持ってたんだね」
カイが納得したように微笑む。
「けんどう……?」
エナは小首を傾げ、髪がさらりと揺れた。聞き慣れない単語に、瞳が興味で細くなる。
カイは彼女に向き直り、手振りを交えて説明する。
「剣道はね、エナたちの世界でいう“剣術”に近いと思う。ただ、こっちの世界では競技なんだ。人と戦うための力じゃないんだけど……」
「ほー、剣術か」
グロスが腕を組み、にかっと笑う。
「カイ、お前もその剣道ってやつをやってたのか?」
「いや、俺はやってないよ。俺が初めて剣振るの、見ただろ?」
「あぁ? あー、そういえばそうか!」
グロスは腹の底から笑った。
「へっぴり腰でよ、あれじゃ“剣術やってました”なんて言われても信じられねぇわ!」
「うるさいな!悪かったね!へっぴり腰で!」
カイが笑いながら肩で軽くグロスを押す。
そのやり取りが滑らかにふっと空気を緩める。
風が通り抜け、夕暮れの匂い──湿った木の香りと冷えた土の匂いが混じる。
緊張していた美桜の肩にも、ようやく柔らかさが戻った。
「皆さん、お疲れでしょう? ……良かったら、家に上がっていってください」
美桜は控えめに、けれど確かな声音で言った。
湊もこくりと大きく頷く。
「いいのかい?」
カイは胸当ての汚れに視線を落とし、少し遠慮がちに言う。
「こんなに汚れてるけど」
「私たちも……もう十分汚れてるんで大丈夫ですよ」
美桜は照れ笑いを浮かべたあと、小さく息を吸い、付け加えた。
「それに……皆さんがいてくれた方が、安心ですから」
その言葉に、カイの瞳が静かに和らぐ。
「……それじゃあ、お言葉に甘えるよ」
柔らかな笑顔とともに、フォーエッジの4人は頷いた。
六人は、美桜の家の前に立っていた。
夕暮れの橙光が玄関のタイルに薄く反射し、風が民家特有の洗剤の残り香を運んでくる。
緊張と帰宅の安堵が入り混じった、微妙な静けさ。
美桜がインターホンのボタンを押した。
カチッ。
……しかし、音は鳴らない。
「……あれ?」
美桜が首を傾げ、もう一度押す。
カチ、と乾いた手応えだけが返り、玄関の前に沈黙が落ちた。
“仕方ないか” と胸の奥で小さくつぶやき、美桜は拳でトントンとドアを叩いた。
「お母さーん! 私、美桜ー!」
言い終えた直後──
ドンドンドンドンッ!
ドアの向こうから、軽快というより慌てた足音が一気に近づいてきた。
ガチャッ! 勢いよく扉が開く。
「美桜っ!!」
母の声が溢れ、次の瞬間には美桜も湊も、両腕でぎゅっと抱き寄せられていた。
柔軟剤と料理の匂いが混じった“家の匂い”が一気に押し寄せ、湊は顔をしかめる。
「ちょ、ちょっとお母さん! 離れて!」
「いいじゃないの、無事だったんだし!」
母は涙声混じりにさらに抱きしめる。
湊は必死に身体を捻るが、まるで脱力してくれない。
「恥ずかしいから!」
「恥ずかしいって……誰も見てないわよ?」
「見てるだろ!」
湊が叫び、母は顔を上げた。
そこには──
カイが、どこか困ったような、しかし温かい目をして立っていた。
「あっ……」
母はようやく周囲に視線を向けた。
カイたち四人の姿を見た瞬間、表情がカチリと固まる。
「ど、どちらさまっ?!」
焦った声とともに、美桜と湊を解放した。
「この人たち、私たちを助けてくれたの」
美桜が一歩前に出て説明する。
母は目を丸くし──
「まさか……危ない目に遭ったの? どこか怪我してない? 痛いところは?」
矢継ぎ早に心配の言葉を投げてくる。
「大丈夫、大丈夫だよ」
美桜は頬を緩ませ、小さく笑って見せた。
「とりあえず……みんな、中に入ってもらお?」
美桜が言うと、母も息を整え直し──
「そ、そうね。皆さん、中へどうぞ」
玄関の靴箱から漂う柔らかな木の匂いが満ち、家の中の温度がほのかに暖かい。
美桜と湊に続き、カイが靴を脱ぎながら家に上がった。
残されたグロス、テルマ、エナの3人は、玄関前で立ち止まり……互いに顔を見合わせた。
「……何してるの? 中に入らないの?」
カイが振り返って問いかける。
グロスが自分の足元を見て、不思議そうに言った。
「靴……脱ぐのか?」
「あっ……」
カイは一瞬ポカンとし、それから苦笑いを浮かべた。
「うん。僕らの国ではね、家に入るときは靴を脱ぐ習慣があるんだ。……ちょっと忘れてたよ」
「へぇ……そういうもんか」
グロスが感心したように鼻を鳴らす。
「問題ない。」
テルマが淡々と紐をほどき、足を抜く。
エナも「面白い文化ですね」と微笑みながら靴を揃えた。
こうして──
異世界の空気をまとった四人は、夕暮れの日本家屋へ静かに足を踏み入れた。




