第19話 正眼の構え
少し長くなりました
美桜の初めての戦闘があります
「どうするんだカイ、ここでやるか、逃げるかだ。」
グロスの低い声が、空気を一段と重くする。
夕暮れの森とアスファルトが入り混じった薄闇の道。
湿った土の匂いと、コンクリートの匂いが鼻を突く。
その奥――森の影の向こうから、ザッ……ザッ……と“何かの群れ”が踏みしめる音が近づいてきていた。
カイは、美桜と湊に振り向いた。
その瞳には、さっきまでの朗らかさは微塵もない。
「美桜ちゃん。ここから二人で家まで帰れるか?
僕たちはここで来るヤツらを食い止める。君たちは、その間に――」
「――嫌です!」
美桜は反射的に叫んでいた。
心臓が跳ね、膝が震えているのが自分でも分かる。
でも、それでも声は止められなかった。
「私も……た、戦います!」
「お、俺も!」
湊も続く。けれど、握られた拳は明らかに震えていた。
その震えを見た瞬間、カイの表情が変わった。
迷い、焦り、そして――決意。
「……邪魔なんだ!」
乾いた声が、夕暮れの空気を裂いた。
美桜の肩がビクッと跳ねる。
これまで温厚で優しかったカイの声とは思えない強さ。
「君たちを守りながら戦えるほど……僕は、強くない。」
カイは俯き、苦しげに拳を握りしめる。
「ごめん。でも、これが君たちを守るための……最善策なんだ。」
美桜は、喉がひゅっと詰まる感覚を覚えた。
(そんな――。私たち、足手まといなんだ……)
隣を見ると、湊は唇を噛みしめながら目を伏せている。
その肩もまた、小さく震えていた。
「二足歩行ってことは、ゴブリンかコボルトか……あるいは別の何かだ。」
カイは息を整えて続ける。
「人型は知恵がある。戦えない相手を真っ先に狙う。だから君たちが残れば……真っ先に殺される。
君たちは“逃げる”ことが、生き残るための戦いなんだよ。」
言葉が胸に突き刺さる。
悔しくて。
情けなくて。
でも……分かってしまう。
(私……足を引っ張るだけなんだ……)
美桜は奥歯を噛み締め、小さく息を吸った。
そして、カイをまっすぐ見つめる。
「……カイさん。すみませんでした。
わかりました。逃げます。生きるために。」
震えは残っている。
それでも、声だけははっきりしていた。
「この先を行くと右側に灰色のマンションがあります。そこが私たちの家です。
そこまで来てください。……待ってますから!」
カイの瞳に、何かが宿る。
その“信頼の光”が美桜の胸に温かく刺さった。
「わかった。必ず行く。そこで落ち合おう。」
その瞬間――
「来るぞ!!」
グロスの叫びが道に響いた。
ガサッ――バキッ!!
森が裂け、黄緑の肌が夕闇から飛び出す。
ぎょろりとした黄色い瞳。
尖った耳。
肩ほどの大きさの棍棒。
ゴブリン――。
美桜の喉が凍りついた。
(なにあれ…怖い……!)
その恐怖に飲み込まれかけた瞬間、服の裾が“ぎゅっ”と引かれた。
振り返ると、湊がいた。
湊の顔は真っ青で、震えていた。
さっきまであんなに騒いでいたのが嘘のように。
それでも――必死に美桜の裾を握りしめている。
「姉ちゃん」
その声が、弱いのに――強かった。
守られる対象だった弟が、今は“美桜を支える存在”として立っていた。
美桜は息を吸い込み、胸の奥で固まっていた恐怖を押しつぶす。
「湊、行くよ!」
美桜は湊の手を強く握り、地面を蹴った。
「うんっ!」
二人は夕闇の道を駆け出す。
背後では、剣が抜かれる鋭い音。
ゴブリンの甲高い叫び。
金属が弾ける音――。
戦闘が始まった。
(絶対に……生きて帰る。
そして――必ず強くなる。)
美桜は歯を食いしばり、走り続けた。
はぁ、はぁ、と美桜は喉の奥が焼けるほど息を吐きながら必死に走っていた。
アスファルトの割れ目から土が覗き、そこに湿った落ち葉が貼りついている。足裏に伝わる感触が一定でなく、踏みしめるたびバランスを奪われた。肺の奥が痛い。喉が砂を含んだみたいに乾く。
「湊……早く……!」
後ろを振り返ると、湊は肩で激しく呼吸しながら、ついに速度を落とし——その場に膝をついた。
「む、無理……もう足が……」
その声を聞きながら、美桜は荒い息を押し殺し、周囲を一瞥する。
追ってくる気配は——今のところない。風に揺れる枝の音だけが耳に届いた。
(よかった……でも、まだ気を抜いちゃダメ)
少しだけ自分にも言い聞かせるように深呼吸し、湊に手を伸ばす。
「……じゃあ早足で行くよ。湊、立って」
「えー、もう……」
「文句言わないの。ほら行くよ」
腕を引っ張り、兄弟は歩き出した。
そのとき——。
ガサッ。
乾いた茂みの震えが、不意に空気を切り裂いた。
二人の身体が同時に硬直する。
血の気が一瞬で引き、鼓動だけが耳の奥で暴れた。
ガサッ……ガサ。
だんだんと音が近づき、影が揺れる。
葉の隙間から現れたのは——二匹のゴブリンだった。
夕暮れの薄闇に溶け込む濁った緑の肌。
肋骨が浮き出るほど痩せ、しかしその身のこなしは獣じみて滑らか。
片方はボロ布を腕に巻き、黄色い眼を細めて獲物を狙う。
もう一体は四足に近い姿勢で身体を揺らし、濁った視線に飢えを宿していた。
手には赤黒く染まった短剣と、もう1匹も節の荒い棍棒を持っている。
「っ……」
美桜の喉がひきつり、湊は尻もちをついて震えていた。
ギィ……
ゴブリンは口の端をつり上げ、歯の隙間から濁った息を洩らした。その笑みは、獲物を見つけた捕食者そのものだった。
すぐ後ろから、もう一匹が現れる。
棍棒の先に乾いた赤黒い汚れがこびりつき、眼光は飢えた獣のそれ。
二匹は歩みを止めず、ゆっくりと——だが確実に、こちらへ距離を詰めてきていた。
美桜の背筋を、氷の指で撫でられたような感覚が走る。
足が思うように動かない。
膝を見ると、細かく、痙攣のように震えていた。
(ダメ……なんで……こんな奴に……!
あの“狼”のほうが、よっぽど怖かった……!)
美桜は必死に自分を叱り飛ばす。
心臓は破裂しそうなのに、不思議と頭だけは冷めていく。
「姉……ちゃ……ん……」
湊の声は震えていた。
息が詰まったような弱い声。あの狼のときとは違う、完全な恐怖の声。
(守らなきゃ……!
湊は……私が守るんだ……!)
美桜は大きく息を吸い込み、肺の奥まで空気を叩き込む。
そして、その空気を一気に吐き出した。
「――ッハ!!」
空気が破裂するような鋭い掛け声。
剣道で何百、何千回と積み重ねてきた、自分を戦闘モードへ切り替える“スイッチ”。
(大丈夫…)
その瞬間、震えていた足に、熱い血が戻ってくるのを感じた。
二匹のゴブリンも湊も、一瞬ビクリと動きを止めた。
(これは……負けられない試合。
絶対に——負けちゃダメ)
美桜は木刀を握り、正眼へ。
剣先がぶれず、ゴブリンの正中線をまっすぐ射抜く。
二匹のゴブリンが、興奮したように喉を鳴らし、美桜を“次の獲物”として認識した。
つま先を軽く動かし、踵を浮かせる。指先に力が戻る。
「……行ける」
鼻から息を吸い、短く吐きながら摺り足で前へ。
ゴブリンたちは互いに顔を見合わせ、ニヤりと口を歪めた。
前にいた個体が、短剣を振りかぶり美桜へ飛びかかる。
ゴブリンの影が揺れた瞬間、空気がひりついた。
湿った土と草の匂いが、美桜の鼻腔をくすぐる。
肩の沈み、指の開閉、踏み込む足の角度──すべてが鮮明に“見えた”。
(来る……!)
その瞬間、鼓動がドクンと胸の奥で跳ね上がる。
握る木刀の柄が汗でわずかに湿っている。
美桜は呼吸を浅く整え、腰をわずかに沈めた。
迫るゴブリンの呼気が、獣臭と鉄のような生臭さを混ぜて漂う。
牙の間から漏れる低い唸りが、足元の土を震わせるほど近い。
美桜は一瞬、身体を左へ半歩だけ“滑らせた”。
「ッは!!」
すれ違いざまに振り抜いた木刀が弧を描き──
ゴッ。
拳大の石を殴ったような、重く鈍い衝撃が掌から腕へ走った。
ゴブリンの側頭部がめり込み、その身体は慣性のまま地面に倒れ、
乾いた落ち葉を撒き散らして転がった。
……まだいる。
二匹目が、美桜の一撃を見て足を止めていた。
その黄色い眼が、怯えとも怒りともつかない光で揺れている。
美桜は呼吸を乱さぬよう正眼の構えを崩さず向き合った。
耳の奥で、心臓の鼓動だけが大太鼓のように鳴り響く。
世界から音が消え、ゴブリンの喉の蠢きと足先の小さな震えだけが浮き上がる。
(あと一匹……ここで倒す)
じわりと間合いを詰めると、
ゴブリンは美桜の“圧”に押されるように、後ずさった。
美桜はあえて切っ先をわずかに下げ、視線を一瞬だけ逸らした。
その一瞬が、ゴブリンの本能を釣った。
棍棒を振りかぶり、跳ねるように飛び込んでくる。
(来い……!)
美桜の身体が自然と動いた。
下段から木刀をすくい上げる軌跡が弧を描き──
バチンッ!
手首を打ち抜かれ、棍棒が宙へ跳ね上がる。
ゴブリンの腕がビキッと変な角度に折れ、その口が悲鳴を上げた。
その隙を、美桜は逃さない。
「ッ──!!」
短く息を吐き、木刀を振り下ろす。
ドスッ。
湿った肉を叩くような鈍い音。
ゴブリンの身体が崩れ、落ち葉の上でぐたりと動かなくなった。
森が、一瞬だけ完全に静まった。
美桜の耳には、自分の乱れた呼吸音だけが残った。
「……はぁ……はぁ……」
何とかなった――。
そう胸の奥でつぶやいた瞬間、緊張の糸がぷつりと切れた気がした。
木刀を握る手はじんじんと痺れ、指先にはまだ、骨を打ったときの鈍い反響が残っている。
美桜は反射的に湊の方へ駆け寄り、震える手を強く掴んだ。
「行くよ、湊!」
「え……あ、うん……!」
湊の声は掠れ、不安が混じっている。それでもその手は、美桜が引けば必死についてきた。
胸が痛いほど脈打つ。喉の奥が焼けるように熱い。
アスファルトに落ちた夕暮れの残光が揺れ、森の匂いが湿った風に乗って追いかけてくる。
美桜と湊はマンションのエントランスへ滑り込むようにして駆け込んだ。
背後の自動ドアはとうに沈黙しており、ガラス越しの外は薄橙の残光に包まれている。
「はぁ…はぁ……っ」
美桜は壁に手をつき、肩で大きく呼吸を繰り返した。胸が焼けるように痛い。
湊もしゃがみ込み、喉の奥で荒い呼吸を震わせている。
「……こんなに急がなくてもよかったんじゃん……」
湊が弱々しく言う。
「もし……ほかにも出てきたら……困るでしょ……っ」
美桜は汗に濡れた額を拭いながら答えた。
あの森で起きた出来事がまだ肺の奥から離れない。
ゴブリンの骨張った腕、短剣の光、倒れたときのあの“重さ”。
すべてが掌の内側に残っているようだった。
「……どこで待つ?」
「柱の影に……隠れましょう」
2人はエントランス内の太い柱へ身を寄せる。外から死角になり、息を潜めれば気配も紛れる。
冷たいタイルの床が、ほてった身体にじわりと吸い付いてくる。
「姉ちゃん……さっきの……ホントすげーよ」
湊が、驚きと少しの震えを混ぜた声で言った。
「……あんまり覚えてないんだけどね」
美桜は乾いた笑みを漏らす。
けれど視線は、自分の手元へと吸い寄せられた。
――震えている。
指先から、肘にかけて、微細な痙攣がつたっていた。
さっき木刀に伝わった硬質な衝撃、肉の沈む手応え、ゴブリンの転がる音。
その全てが“まだそこにある”ように掌へ張り付いている。
「私……生き物を……殺しちゃったんだ……」
口にした瞬間、喉がきゅっと締まった。
胸がざわつき、吐き気にも似た衝動が腹の底を押し上げる。
湊は姉をじっと見つめ、ゆっくりと言った。
「……姉ちゃん。仕方なかったよ。あそこでやらなかったら、俺ら……死んでた」
「俺……姉ちゃんに守られてばっかで……また助けられちゃった……」
「湊」
美桜は顔を上げ、弟の瞳の奥をまっすぐ見る。
湊の目は、恐怖と悔しさと、わずかな誇りが入り混じった揺れる光を宿していた。
「私は剣道をやってたから、たまたまうまくいっただけ。
本当に……本当に助かったと思ってるよ。でもね湊……」
美桜は震える手を自分で包み込み、言葉を紡ぐ。
「私だって湊に……いっぱい助けられてきたんだよ?
家族はね、誰か一人が強いから成り立つんじゃない。
皆で支え合うから、前に進めるの。
世界がこんな風に変わっても……そこだけは変わらない」
湊は少し驚いた顔をし、そしてゆっくり笑った。
その笑顔には、さっきまでの弱さがほんの少し消えていた。
「……そっか。
よし、見ててくれよ姉ちゃん。
俺……この世界で最強になるから!」
美桜も笑った。ほっと緩んだ肩が少し震えたが、それはもう恐怖ではなかった。
「期待してるわよ。バカ弟」
「バカは余計だろ!」
エントランスに、ほんの数秒だけ、日常のような柔らかい笑い声が響いた。
それがどれほど貴重で、どれほど儚いものか──2人はまだ知らない。
***
そのとき。
――コツ……コツ……コツ……。
外から、乾いた靴音のようなものが響いた。
コンクリートを踏みしめる、ゆっくりとした足音。
1人ではない。複数の気配が重なっている。
2人は反射的に息をひそめ、柱の影に身を寄せた。
空気が張りつめる。
美桜の耳は脈打つ血流でじんじんと痛いほどだ。
ガラス越しの夕闇が、ゆっくりと揺れた。
読んでいただきありがとうございました。
いかがだったでしょうか?
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