第18話 腐敗の漂う中で
夕暮れの道を、美桜たちは並んで歩いていた。空は薄紫に沈み、家々と森の影がゆっくりと溶け合っていく。湿ったアスファルトから立ち上る、夕方特有の生ぬるい匂いが鼻をかすめた。
「……あ、少しコンビニ寄ってもいいですか?」
美桜が足を緩め、カイたちを振り返る。
カイは「あぁ、いいよ」と頷いたものの、肩をすくめて付け加える。
「でも……あまり期待しないほうがいいかもしれない。昨日も寄ったんだけど、ほとんど残ってなかったからさ」
エナが小さく笑う。
「そういえばカイさん、昨日も“コンビニに行きたい”って言ってましたよね?」
「そうそう。日本にはね、こういう小さなお店がどこにでもあって……食べ物も飲み物も日用品も、その場で何でも買えるんだ。ほんと便利でさ」
カイは懐かしむように遠くを見る。
美桜は小さく息をつく。
「……そうなんですね。残ってない、か……。水、どうしよう……」
胸の奥がきゅっと縮み、不安が顔に現れた。
そんな美桜の表情を見て、湊が横から身を乗り出す。
「姉ちゃん、とりあえず行くだけ行ってみよ! あるかもしれないじゃん!」
「んー……」
美桜は唇を噛み、しばし悩む。そして意を決して顔を上げた。
「カイさん……すみません。少しだけ寄ってもいいですか?」
カイは明るい声で返す。
「もちろん。残ってるかどうかは運次第だけど、行ってみよう」
その笑顔に、美桜も自然と微笑み返した。
「ありがとうございます」
グラッシャーホーンのいた場所から数分歩くと、薄暗い森を抜けた先に、見慣れた建物が現れた。
「……あった。ここ、私たち……よく来てたんです」
美桜の声は、懐かしさと寂しさが混じったかすかな震えを含んでいた。
コンビニの看板は半分落ちて、入り口のガラスも小さくひび割れている。けれど、そこに確かに“日常の名残”があった。
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
美桜が前に出ると、カイが首を傾げる。
「僕も行くよ。危ないかもしれないし」
「えっ……ありがとうございます」
エナも一歩踏み出す。
「わたしも……見てみたいです。コンビニって、カイさんがよく話してた場所ですよね」
「うん、そうだよ。……グロス、テルマ、二人はどうする?」
グロスは腕を組み、辺りを見渡した。
「俺は外で見張る。中は狭いしな」
「俺もここでいい。周囲を警戒する」
テルマも無駄のない動きでコンビニの壁にもたれかかった。
夕暮れの光が、二人のシルエットを長く伸ばす。
「それじゃ、頼んだよ」
カイは軽く手を挙げ、コンビニのドアへと向かった。
ぎし、と音を立てて扉が押し開かれる。
薄暗い店内へと足を踏み入れたのは――
カイ、美桜、湊、そしてエナ。
失われた日常の残り香が漂う、かすかな埃の匂いが鼻に触れる。
静まり返った店内で、乾いたベルの音がチリン……と寂しく揺れた。
コンビニの自動ドアが半ば壊れたように鈍い音を立てて閉まると、
店内には、湿った空気がまとわりついてきた。
室内は薄闇に沈んでいる。
棚の奥から漂ってくるのは、腐った惣菜と湿気の混じった、鼻の奥に刺さる甘い腐臭。
「くっさ……!」
湊は入るなり、鼻を摘まんで飛び退いた。
カイも眉をひそめ、声を落とす。
「腐ってるね。冷蔵も止まってる。……うわ、これはキツいな」
「ちょっと暗くて……見えづらいですね」
美桜が不安混じりに呟く。
その瞬間――
「闇よ退け、静寂の中に微光を灯せ──ライト」
エナの掌から放たれた淡い光が、ふわりと花開くように広がった。
暗い店内の影が一気に後退し、腐った棚や散乱した商品がくっきり浮かび上がる。
「うぉぉぉぉ……! 光ってる! 魔法だ!」
湊は目を輝かせ、まるで新しい世界に踏み込んだ子どものように跳ねた。
エナは少し照れたように、頬を赤らめる。
「えへへ……便利なんですよ、これ」
「すごい……! 本当に魔法なんだ……」
美桜は光を反射する自分の手を見つめ、そのまま握りしめた。
もし私にも……こんな力があったら。
この世界でも、湊を……みんなを守れるかもしれない。
わずかに胸が熱くなった、そのとき――
バンッ!
店の入口が、誰かに蹴破られたかのような勢いで開いた。
「カイ! 急げ! 何か来るぞ!」
グロスの怒号。
喉の奥がキュッと縮まり、美桜の心臓が跳ねた。
カイが即座に指示を飛ばす。
「わかった! みんな、外へ!」
美桜は反射的に走り、湊の手を引いた。
4人は腐臭の残る店を飛び出し、夕闇に染まる外へ。
外では、グロスがテルマに向き直り、アスファルトの上で重い声を落とした。
「どれくらいだ?」
テルマは耳に意識を集中させるように目を細め、周囲の空気を読む。
「……多い。十はいる。しかも二足歩行だ」
グロスが舌打ちする。
「チッ……よりによって人型かよ」
美桜の背筋がぞわりと冷たくなる。
人の形をしている“何か”。
一番想像したくなかったやつだった。
「美桜ちゃん、家までは?」
カイが急ぐように問いかける。
「え、あ……あと少し歩いたら……です」
声が震え、喉の奥が乾いていく。
「そこまで行かれると面倒だな……」
カイの険しい顔に、美桜の呼吸が浅くなる。
――どうすればいいの?
――私たち……また襲われるの?
胸がきゅっと縮み、とっさに足がすくんだ。
その瞬間。
服の裾を、ぎゅっと引く小さな力。
振り返ると、湊がいた。
さっきまで興奮して騒いでいた少年の面影はどこにもなく、恐怖を必死に押し殺した顔。
その瞳は震えていたが――
それでも、美桜の袖を握る彼の手には、強さが宿っていた。
「姉ちゃん……」
その一言で、胸の奥が大きく揺れた。
守ってあげなきゃ……そう思ってた。
でも今の湊は、私と“並んで”立とうとしてる。
震えているのに、逃げない。
怖いのに、前を向こうとしている。
その姿が、美桜の中で静かに――しかし確実に何かを変えた。
喉の奥でうずまいていた恐怖が、別の熱に押し流されていく。
湊の手をそっと包み込むように握り返し、美桜は深く息を吸った。
(私が……やらないと。
一緒に戦うって言ってくれたこの子のために。
今度は、私が隣に立たなきゃ)
美桜は顔を上げた。
瞳の奥に、確かな決意の光が宿っていた。




