第17話 夕暮れに灯る小さな光
空気がわずかにざわりと揺れ、残り香のように熱を含んだ風が頬をかすめる。
西日が赤橙の光を地面に引き伸ばし、長い影がアスファルトに滲む。
アスファルトの切れ目、ひび割れた道の端に広がる茂みを押し分けて、
グラッシャーホーンが姿を現した。
距離にしておよそ三十メートル先。
夕暮れと言っても、木々の影が濃く落ちるだけで、
黄金の光が差し込むような穏やかさはない。
むしろ、濁った薄明かりに照らされた巨体は、
暗がりと形を溶かし合い、異様な存在感を帯びていた。
青白い装甲のような皮膚が、木の陰からぬらりと現れる。
重い鼻息がアスファルトの砂埃を揺らし、
湿った土と獣の匂いが、風のない空気の中にじわりと広がった。
ズシ…ッ。
地面がわずかに震える。
足元の舗装路と、傍らの土の路肩が同時に軋んだ。
夕暮れの弱々しい明るさの下で、
その巨獣だけが――まるで世界の色を食ったかのように濃く、重く見えた。
湊が車の影からそっと顔を出した。
影の端で揺れる前髪の向こうに、獣の異様な輪郭がくっきり見えた。
「姉ちゃん……いるよ……あいつ……!」
湊の声は震えと好奇心の入り混じった細い囁き。
しかし美桜はその肩を強く引いた。
「いいから! 隠れなさい!」
その声音には、さっきまで涙を流していた姿が嘘のような鋭さがあった。
その間に、テルマが矢の先端をエナのほうへ向ける。
エナは小さく息を吸い込み、静かに詠唱を紡いだ。
「火よ――息吹を持ちて、形を成せ。《ファイヤーボール》」
ボッ――ッ。
エナの手のひらに、空気を押し退けるような圧で火球が生まれた。
オレンジ色の光が周囲の空気を揺らし、その熱で湊が「うわぁ……!」と喉を震わせる。
テルマはその火球を矢に巻かれた布にそっと近づけ、**チリ……**と小さな音を立てて着火した。
火は一瞬で布を包み、赤い尾を引くようにゆらめきながら燃え上がる。
テルマは無言で弓を構えた。
引き絞られた弦はキィ……と細い軋みを上げ、
その瞬間――
「《エアスリップ》」
風が、矢へと吸い込まれるように集まった。
まるで空気そのものが矢の形を思い出したかのように、
ピンッと張り詰めた緊張が周囲に広がる。
耳に届くのは、燃える布のパチパチという音。
固唾を飲む誰かの喉の音。
そして、静寂の上に落ちてきた一枚の木の葉が――
ひら……ひら……
地面へと舞い降りた瞬間だった。
バシュンッ!
弦が解き放たれ、矢が光の筋となって射出された。
普通の矢なら放物線を描くはず。
だがこの矢は――落ちない。
真っ直ぐ、まるで空気の抵抗など最初から存在しないかのように走った。
枝の隙間を、
看板の裏を、
木と木の狭間を、
まるで“避ける”ことを計算しているかのような軌道で抜けていく。
美桜は息を呑んだ。
(……すご……!)
矢に灯った火は、風に煽られるどころかむしろ輝きを増し、
夜のトーチのように尾を引きながら獣の目前を横切った。
グラッシャーホーンが反応した。
ドッ――
硬い岩を叩くような一歩とともに頭を振り上げ、
その紅い光の軌跡を追って巨体を跳ねさせる。
次の瞬間には、矢が誘うように飛んでいく方向へ――
グラッシャーホーンは轟音を立てて駆け出していった。
土が跳ね、地面が震える。
冷気を撒き散らしながら遠ざかっていくその背中を見届け、
テルマは、静かに短く言った。
「……行った。よし」
わずかに安堵の息が、全員の肺から一斉に漏れた。
「よし、行くぞ」
グロスが腰を上げると、どっしりとした体格から想像できないほど静かな足取りで歩き出した。
その背中を追うように、美桜も足を進める。夕暮れの風が頬をかすめ、森とアスファルトの混じった奇妙な匂いが鼻をかすめた。湿った土の匂い、割れた舗装から立ち上る熱、入り交じる“元の世界”と“何かが混ざった世界”の空気――それらが今の現実を静かに突きつけてくる。
「うおおおぉ……! 姉ちゃん見た? さっきのファイヤーボール! それにあの弓矢! 俺もあれやってぇぇぇ!」
湊は興奮で声が半割れしており、両腕をぶんぶん振りながら弓を引く真似をして跳ね回っている。
「……はぁ……湊、行くよ。歩きなさいってば」
美桜は呆れながらも、どこか安心していた。泣き崩れて、世界が崩れ落ちたと思ったあの瞬間からの反動なのか、弟がはしゃぐ姿が少しだけ胸の奥を暖めてくれた。
そのとき、すっと影が差した。
「もう少し胸を張るんだ。こうやって」
テルマが後ろから手本を見せるように軽やかな動作で弓を構えた。
その所作は無駄がなく、流れるようで、まるで一本の線を描くように美しい。
「すげぇぇぇっ……!! かっこよ!!」
湊は目を輝かせ、テルマを見上げた。
テルマはほんの一瞬だけ口元が緩む。普段は寡黙な男の、ふっと漏れた柔らかさが印象的だった。
先を歩いていたカイが振り返り、手をひらひらと振る。
「おーい、みんな。行くよー。君達の家まで案内してー」
「あ、はいっ!」
美桜と湊は慌てて走り出した。
カイたちの前を歩く美桜と湊。
湊はテルマに教えてもらったように弓を引く動作を真似ている
「ちょっと湊! ちゃんと前見て歩きなさい!」
美桜は軽く湊の頭をはたいた。
「いてっ……!」
湊は頭をさすりながらも、またしても弓を引くポーズをとる。
「あはは。君たち仲良いね」
カイがふわりと笑う。
その柔らかい光に照らされるように、美桜と湊は振り返り――
「「そんなことない!!」」
二人同時に言い返した。
カイは肩を揺らしながら笑う。
「ほら、やっぱり仲良いんじゃん」
美桜と湊は同時にぷいっと顔をそむけ、耳まで赤くして前を向いた。
その後は、誰も言葉を交わさず歩き始めた。
けれど――空気は、先ほどよりもほんの少しだけ柔らかかった。
アスファルトの割れ目から伸びる草の青い匂い。
風がそよぐたび、森の影がゆらりと揺れる。
住宅街だったはずの道に、異世界の森の生態がじわりと滲み込んでいる。
“元の世界”と“見知らぬ世界”が継ぎ接ぎになった、不気味で不安定な景色。
アスファルトと茂みが並び、街灯の根元には見知らぬ蔦が絡みついている。
そんな混ざりあった道を、六人は静かに歩き続けた。
木々が影を落とし、風の音はどこか異世界の生き物の息遣いのようなのに――
美桜の胸に張り付いていた恐怖は、さっきより確かに薄れていた。
――誰かに“守られながら歩く”って……こんな感じなんだ。
背中に纏わりついていた冷たい不安が、ゆっくりと温度を帯びていく。
横には、幼くても必死に強くなろうとする弟・湊。
その姿が、美桜の心の震えをそっと落ち着かせてくれる。
そして、前を歩く四人の冒険者。
頼もしい背中が並んでいる。
ほんの少し前まで、泣き崩れるほどの恐怖に飲まれていたのに――
今は、わずかでも前へ進める気がしていた。
大切な弟と、頼れる四人と歩く奇妙な帰り道。
夕暮れの風がふっと頰を撫でる。
美桜はそのたび、胸の奥に宿った新しい温度を確かめるように小さく息を吸った。
それは、恐怖を薄めてくれる“誰かと歩く温もり”だった。
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