第15話 姉弟の在り方
美桜は、胸の奥でふっと力が抜けるのを感じた。
――やっと終わったみたいだ。
息が震えながらも、心のどこかで安堵がほぐれていく。
隣では湊が、さっきまでの死線を忘れたかのように興奮していた。
「なぁ姉ちゃん、見た!? さっきの! やっぱ魔法あるって絶対!
俺、何が使えるんだろ!? 土とか? 土魔法だったらさ、ゴーレム作れるじゃん!
マジで俺、ゴーレム使いになれるかも!」
ひとりで勝手に盛り上がり、満面の笑みで手をばたつかせる湊。
美桜は呆気に取られ――そして深くため息をついた。
(……この状況で、よくそんなテンション保てるわね……)
そんな時だった。
「おーい! そこの二人ー!」
さっき狼と戦っていた青年――“カイ”と呼ばれていた男が手を振りながら近づいてくる。
美桜と湊は、反射的に互いを見る。
美桜の視線はすぐにカイへ移り――
腰に下げられた、血の匂いすらしそうな鋭い刃に向かった。
湊はのほほんと立ち上がり、返事をしようとする。
「は、はい――」
「ちょっと待ちなさい!!」
美桜が湊の腕を引き、制止した。
「なんだよ姉ちゃん……」
「こんな状況よ? 信用して大丈夫なの?」
湊はきょとんとしながら言う。
「助けてくれたんだし、悪い人じゃないと思うけど……」
返事がないまま警戒されていることに気付いたカイは、
「あっ」と何かに気づいたように言い、
ゆっくりと剣を抜いて地面へ置いた。
両手を上げ、敵意がないことを示す。
「大丈夫! 本当に何もしないから! 話をさせてくれ!」
そのまま慎重に、足音を殺すように近づいてくる。
湊は嬉しそうに囁く。
「ほら、剣置いたじゃん。行こーよ」
「アンタは黙ってて!」
美桜は湊を一喝し、車の影から半身だけ出してカイを見た。
カイは美桜の姿が現れた瞬間、胸を撫で下ろすように息をついた。
「よかった……出てきてくれた」
「そこまでです。これ以上近づかないで」
美桜の声は強張っていたが、震えはなかった。
カイは少し悩んだ表情を見せる。
「……いや、俺としても大声を出したくないんだ。魔物を呼び寄せたくないし。
だから……あと少しだけ近づいてもいいかな?」
「魔物!?」
湊が目を輝かせ、半分立ち上がりそうになる。
美桜が人差し指を口に当て、
「しっ!」と鋭く静止させる。
湊は頬をぷくっと膨らませて黙った。
美桜はカイに言った。
「……わかりました。もう少しだけなら」
五メートルほど距離が縮まる。
カイはそこで立ち止まり、自己紹介した。
「僕は桜井 海。25歳、ただのサラリーマン。日本人だよ。
君の名前は?」
美桜はわずかにためらいながらも答える。
「……篠崎です」
「篠崎さん、そっちの男の子は弟さんだよね?」
「はい……」
短く、必要最低限だけ。
カイはすぐに本題へ入った。
「君たちも、薄々気づいてると思うけど……
ここは“東京であって、東京じゃない”んだ」
美桜の眉がわずかに動く。
カイは続けた。
「もともとこの辺に森なんてなかっただろ? それに――」
背後で待機している三人を顎で指す。
「彼らは日本人じゃない。
“日本という国を知らない”。
それどころか、ここを“僕の知らない国”の名前を言っていた」
美桜の背筋に冷たいものが流れる。
「彼らはスキルや魔法を使える。
……そして、なぜか俺も同じように使えるようになってる」
「……っ」
頭が追いつかない。
「つまり……世界は今、とんでもない異常事態なんだ。
だからこそ俺は、力を合わせないといけないと思ってる」
美桜は言葉を失った。
心の奥で、黒く沈んでいた不安が一気に吹き上がる。
(魔法……スキル……異世界人……?
そんなもの、現実にあるわけ……)
「ど、どういうことなんですか……?
東京は……どうなってしまったんですか?」
声が震えた。
カイは申し訳なさそうに首を振る。
「……僕にもわからないんだ。
地震のあと、眩しい光に包まれたと思ったら……
気づけばこの世界になってた。
彼らも、同じらしい」
美桜の胸の奥で、何かがぷつりと切れた。
理解が追いつかない。
現実が歪んでいる。
頭の中では「大丈夫」と言い続けてきた声が、もう役目を終えて崩れていく。
「わ、わたしたちは……これからどうなるんですか……?」
声は震えていた。喉の奥がひりつくほど乾いて、自分の声じゃないみたいだ。
「どうしたら……元の世界に、戻れるんですか……?」
息の仕方がわからなくなる。
胸がぎゅっと締めつけられ、肺がうまく動かない。
熱いものがこみ上げてくるのに、視界は逆に冷たい色でにじんだ。
カイは申し訳なさそうに眉を下げ、ゆっくりと首を横に振る。
「……すまない。それもわからないんだ」
その言葉が――
とどめだった。
「……そんな……」
膝の力が抜けて、地面に吸い込まれるように座り込んだ。
アスファルトの冷たさが太ももから背筋へと登り、全身に震えが走る。
「じゃあ……どうしたらいいのよ……どうしたら……!」
声は勝手にあふれた。
抑えていた感情が堰を切ったように、胸の奥から怒りと恐怖と悲しみが一気にせり上がる。
「こんなところ……もう嫌……!」
「帰りたいよ……お母さん……湊と……普通に……!」
涙が止まらない。
視界が揺れ、景色が何度もにじんでは崩れた。
肩がひくひく震え、呼吸が乱れて喉が詰まる。
胸の奥に溜まっていた黒い塊が、一気に溶けて溢れ出したみたいだった。
「……っ、うぅ……うああぁ……!」
声を出した瞬間、今までかろうじて形を保っていた“平常心”が、粉々に砕け散る。
自分でも止められない。
涙が頬を伝って顎を濡らす音さえ聞こえそうだった。
カイも湊も言葉を失い、ただその場に立ち尽くして美桜を見ていた。
冷たい風が吹き抜け、涙で濡れた頬がさらに冷たくなる。
でも胸の奥は逆に痛いほど熱い。
――家族の前で、絶対に見せなかった弱さ。
今、崩れ落ちてしまった。
“守られる側”の自分が、ようやく表に出てきた瞬間だった。
湊は、泣き崩れた美桜を前にして、
「姉ちゃん……」
とかすれた声を漏らした。握った拳は白くなるほど力が入り、指先が震えていた。
美桜はアスファルトに膝をついたまま、ただ、涙をこぼしていた。
泣き声は息を吸うたびに喉の奥でつまって「ひっ、ひっ」と途切れ、
胸が上下するたびに肺の奥が痛むほどだった。
世界が壊れた音の余韻が、まだ耳の奥でわずかに反響している。
鼻先には焦げついたゴムの匂いが残り、涙に濡れた頬は早くも冷え始めていた。
それでも――美桜は、必死に呼吸を整え、涙を止めようとしていた。
数分後。
「……っ、は……」
声にならない息を吐き、美桜は、濡れた指先で頬を乱暴に拭う。
まだ涙は滲んでくる。それでも、顔を上げようとした。
「カイさん……ごめんなさい。かっこ悪いところ、見せちゃって……」
濡れた睫毛を震わせながら立ち上がった美桜は、
無理やり作った微笑みでそう言った。
カイは少し言葉を探すように、視線を泳がせた。
「無理しないでいいよ。大丈夫かい?」
美桜は一瞬だけ迷い、ぎゅっと唇を噛み、
「……ずっと我慢してたんです。
でも……もう大丈夫です」
と、不安と強がりの混じった声で答えた。
空気が張りつめたその瞬間――
湊が、そっと車の影から前へ出た。
砂を踏む音がやけに大きく響く。
「……俺、湊って言います」
真っ直ぐカイを見るその瞳は、震えているのに強かった。
「俺に……戦い方を教えてください」
「ちょ、ちょっと湊、何言ってるの……!」
美桜が慌てて振り返る。
だが湊は、一歩も退かなかった。
「もう嫌なんだ!」
空気を震わせる大きな声だった。
その声に、感情がむき出しになっていた。
「お父さんが死んでから、姉ちゃん、ずっと無理してた。
怖くても……泣きたくても……
俺とお母さんを安心させようとして、ずっと笑ってた。
夜……こっそり泣いてたの、知ってるよ」
美桜の肩がビクリと揺れる。
「今回だって、姉ちゃんは怖かったのに……俺たちを守ろうとして……
俺、もう……そんな姉ちゃん見たくないよ!」
湊は拳を握り、涙をこらえながらカイへ向き直る。
「だから……だから俺が今度は姉ちゃんとお母さんを守りたいんだ。
お願いします……教えてください……!」
深く頭を下げる湊の背中が、震えていた。
ただ怯えている震えじゃない。
何かを必死に押し殺し、それでも前へ進もうとする――そんな震え。
美桜は、胸の奥がぎゅっと絞られるような感覚に襲われた。
さっきまで、必死に守ろうとしていた“幼い弟”。
弱くて、泣き虫で、父を失ってからは特に不安定で……
母と自分が守ってやらなきゃと思っていた存在。
胸の奥が、熱い何かで満たされていく。
湊はゆっくり顔を上げた。その瞳は涙を湛えながらも――真っ直ぐで、揺らぎがなかった。
(この子……もう “守られるだけ” の存在じゃないんだ)
美桜の喉が、きゅっと鳴った。
どこか遠くで風が木々を揺らし、微かに焦げ臭い空気が流れてくる。
戦いの余韻がまだ残るこの場所に、湊の決意だけが温度をもって響く。
胸に手を当てると、心臓がドクッ、ドクッ、と強く跳ねていた。
恐怖とは違う、熱い脈動。
(この子と――一緒に前へ進むんだ)
守ってきた相手が、気づけば横に立っている。
その瞬間、世界の見え方が変わった。
美桜はごくりと息を飲み、
涙を拭き、静かに湊の横に歩み出た。
身体の震えはもう止まっている。
足の裏には、地面をしっかり掴むような感覚が戻っていた。
視界も、さっきまでの霞んだ景色とは違い、鮮明だった。
「……お願いします」
声が震えなかったのが自分でも不思議だった。
腹の底に、確かな“覚悟”が根を張っていた。
「私たちに……戦い方を教えてください。
一緒に……戦えるようになりたいんです」
その瞬間、湊の瞳がわずかに揺れた。
驚きと、嬉しさと、誇らしさが混じった――そんな光。
そして美桜自身も気づいていた。
(私はもう……湊を“守るだけの姉”じゃない)
(これからは――二人で、前に進む)
湊はそっと、目だけで美桜を見た。
カイは、困惑と戸惑いの表情から、ゆっくりと優しい笑みに変わっていった。
「……もちろん、そのつもりだよ。
君たちにスキルがあるかはわからないけど……
教えられることは全部、教えるよ」
カイは美桜と湊に向けて手を差し出す。
美桜と湊は互いに頷き、同時にその手を握った。
「「よろしくお願いします!」」
声が重なり合い、かすかな風が三人の間を抜けていく。
その瞬間――
不安と恐怖で崩れそうだった姉弟の心の中に、
初めて、ほんの少しだけ〈光〉が灯った。
読んでいただきありがとうございました。
いかがだったでしょうか?
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