第9話 最初の探索
リビングの時計の針が、カチリと10時を指した。
美桜は深呼吸をひとつ。
胸の奥のざわつきを押し込むようにして、湊へ声をかけた。
「――湊、そろそろ行くわよ」
「ちょ、待ってー!」
湊の声が部屋の奥から弾む。
美桜は玄関で、自分の格好をもう一度見下ろした。
手には木刀。
拳には剣道の篭手。
動きやすい上下ジャージ。
背中には空のリュック。
(……本当に行くんだ)
喉の奥で小さな鼓動が跳ねる。
その時、湊が勢いよく飛び出してきた。
「準備できた!」
声は頼もしいが――
その姿は別の意味で圧倒的だった。
上から下までジャージ。
腰にはベルトと、その左右にぶら下がる二丁の水鉄砲。
パンパンに膨れたウエストポーチ。
肩から水筒。
さらにリュックもぎゅうぎゅう詰め。
腕とすねには、雑誌を丸めて巻きつけ、ガムテープでがっちり固定。
完全に“即席装甲兵”。
美桜は呆れたように眉をひそめた。
「……荷物多すぎじゃない? あんた走れんの?」
「へーきへーき。体育で走ってるし!」
自信満々の笑顔だが、肩の水筒はすでにカランと揺れている。
母は呆れ半分、心配半分の顔で近づいてきた。
「湊、水筒は置いていきなさい。それ、重いでしょ?」
「えー!? のど乾いたらどうすんだよ!」
「はいはい……これくらいで十分よ」
母は棚から一回り小さな水筒を取り出し、
湊の大きな水筒から中身を移し替えた。
「……ケチ」
「命に関わる時にケチとか関係ないでしょ!」
そんなやり取りをしながら、湊は文句をつぶやきつつ玄関へ向かう。
美桜も木刀を握り直し、ゆっくりと立ち上がった。
玄関に並ぶ二人を見て、母は深く息を吸った。
その視線は震えていた。
「……さっきの約束、覚えてるわよね?」
美桜も湊も、黙ってうなずく。
「無理しちゃダメ。危ないと思ったら、すぐ帰ってきなさい。
……いいわね?」
声が少しだけ掠れていた。
美桜は背筋を伸ばし、はっきり答えた。
「……行ってきます、お母さん」
「気をつけて……本当に、気をつけてね」
湊が扉に手をかけ、小声で言う。
「姉ちゃん……大丈夫そうだよ」
美桜はかすかに微笑んだ。
「うん」
けれど足は震えていた。
玄関の段差を一歩踏み出す瞬間、地面が少し遠く感じる。
外の空気は、湿った森の匂いとコンクリートの埃っぽさが混ざった、異様な匂いだった。
エントランスへ向かう途中、ふと視線がある一点で止まる。
――あのおじさんが倒れていた地点。
そこにはもう何もない。
ただ、乾いた黒い血の跡と、壁に走るえぐられたような傷跡だけが残っていた。
一瞬で、あの光景が脳内に蘇る。
悲鳴。
翼の影。
肉を裂く音。
鉄の匂い。
吐き気と恐怖。
膝が折れそうになり、目が潤む。
喉が締まり、視界が揺れる。
(……大丈夫。大丈夫……私は……)
美桜は腰の木刀を強く握りしめ、深く息を吸った。
「姉ちゃん、行くよ?」
背後から湊の声。
「……うん。行こう」
美桜は湊の前を歩き出す。
毅然とした足取りで。
湊はその背中を見て、ほんの少し安心したように微笑む。
二人はマンションの5階、エレベーター前へ到着。
美桜は無意識に指を伸ばした。
――寸前で止まる。
(……だめだ。こんなの使ったら……)
横の階段に視線を向ける。
「エレベーター使わないの?」
湊が首を傾げた。
美桜は即答した。
「壊れたら終わりよ。……階段で行きましょ」
「えぇ〜……」
湊の落胆は大きかったが、美桜の判断に逆らわずに階段へ向かう。
コンクリートの階段は薄暗く、
裸足で歩くような静けさが響いていた。
金属製の手すりが冷たく、
下の階へ行くほど森の湿った匂いが濃くなる。
美桜は息を整えながら、一段一段を確かめるように降りていく。
マンションのエントランス前。
そこは、すでに“外”ではなく“境界”だった。
ガラス戸は粉々に砕け、白い破片が朝の光を鈍く反射している。
アルミのフレームは、何か巨大な力で押し曲げられたように歪み、その向こうには――本来、駐車場があるはずの場所に、濃い緑が壁のように立ち塞がっていた。
「……やっぱり森になってる」
美桜の声は、喉の奥で硬く震えていた。
風が、見慣れない大木の梢を揺らし、“ざわ……っ”と低い音を届ける。
陽は高いのに、森の影が道路を覆い、どこか薄暗い。
粉々のガラスを踏まぬよう、足を慎重に運ぶ。
「湊、気を付けて。破片、多いから」
「うん……」
マンションの外へ出た瞬間、空気が変わる。
生温く湿った“森の匂い”が、一気に胸へ流れ込んできた。
腐葉土、湿った木肌、見たことのない野草の青臭さ。
街の匂いが、もうどこにも存在しない。
「スーパーは家出て左だったよね。……こっち」
美桜が進むと、湊は小さく頷き、腰に差した水鉄砲を抜いた。
(……なんの役に立つのよ、それ)
ツッコみたい気持ちと、湊の不安を守りたい気持ちが胸の中で交錯する。
◆
数分歩く。
森は深まり、道路はかつての輪郭をかろうじて残すだけになった。
「ここの……コンビニの交差点を右、だったよね……」
美桜が立ち止まり呟いたその時――
「ね、ねぇちゃん……ちょっと待ってって……!」
湊が息を切らし、木に手をつきながら追いついてきた。
肩から下げたリュックと水筒、腰のポーチ、腕と足に巻かれた雑誌がガサガサと音を立てる。
「だから荷物多いって言ったじゃないの」
「手芸部なんだから手加減してよ……」
膝に手を置き、背中を丸める湊。
美桜はため息をつき、木の根元に腰を下ろした。
「……ちょっと休憩しましょ。時間ないけど、倒れられても困るわ」
「……ありがと」
二人は数分だけ息を整えた。
「よし、行きましょ。急がなきゃ」
湊はいつの間にか元気を取り戻し、先に歩き出す。
「ほら、早くー」
美桜は苦笑しながら立ち上が――その瞬間。
――ズシン……ッ。
大地が腹の底から震えた。
空気が、一瞬ひゅっと吸い込まれる。
「……え?」
もう一度。
――ズシン……ッ。ズシン……。
今度ははっきりと、地面が“揺れた”。
落ち葉が微かに跳ねるほどの振動。
遠くで鳥たちが一斉に飛び立ち、“バサバサバサッ”と羽音が響く。
美桜の背筋を、冷たい汗が一筋、つっと流れ落ちた。
「姉ちゃん……!」
湊が低い姿勢で駆け寄ってくる。
「今の……何?」
小声なのに、震えが混じっている。
美桜も答えられない。
心臓の音が、振動と同じリズムで跳ね上がる。
手汗がじわりと篭手の内側に滲む。
「わからない……でも……」
言葉が喉でひっかかる。
森の空気が、ほんの一瞬“張りつめた”ように感じた。
――ズシン………ズシン……。
重低音が、さっきより近い。
確実に、近づいてきている。
風が、止まった。
葉のざわめきすら消えた。
世界の音が、重低音だけに書き換わったような異常な静寂。
湊が囁く。
「姉ちゃん……これ……マズいよな……?」
美桜は喉を震わせながら答えた。
「……ええ。」
息が詰まる。
地面の震えが足裏から体の芯まで伝わってくる。
(何……? 何が“来る”の……?)
湊が美桜の手首をぎゅっと握る。
「姉ちゃん、怖い?」
「……こ、怖くなんか……っ」
否定しようとした声は震え、説得力を失っていた。
――ズシン。ズシン。ズシン。
足音は、もう“すぐそこ”だった。
読んでいただきありがとうございました。
いかがだったでしょうか?
ブックマーク、感想、意見、お待ちしております




