朝起きたら、死んだはずの妻が甦っていたら?
尾妻 和宥さまからいただいたタイトルで書いてみました
その日の朝も、私は深い喪失感の中で目覚めた。
ダブルベッドが広すぎる。
18年連れ添った妻の幻影をそこに見る。
私は依子に一筋だった。
浮気をしたことも、しようと思ったこともない。
よく口喧嘩をしていたので、傍目からは仲が悪いと思われていたかもしれない。
しかし、互いに外で伴侶の悪口を言うことはなく、私の弁当にはいつも無言の愛が込められていた。
それは妻が大型トラックに跳ねられ、この世からいなくなって、何日めのことだったであろうか。
それまでの数日とは何か違う気配を、私は確かに感じていた。
階下のキッチンで、料理をしている物音がする──
娘の萩那だろうか? と最初は思った。
高校二年生にもなって、目玉焼きぐらいしか作れなかったはずだが、ようやく料理を覚えようという気になったのか? さては彼氏でもできたのか?
そう思いながら、二階の寝室から降りていくと、見慣れた妻の後ろ姿がそこにあった。
私が驚いて立ち尽くしていると、足音で気づいたのか、妻が振り向いた。
「おはよう、あなた。もうすぐ朝ごはん、できるわよ」
「あ……あぁ……」
私はいつものように、食卓の上を片付けると、妻の横へ行き、布巾を水で濡らす。
「今日は……おぉ……、あ、朝から豪勢だな」
妻が作っているのは肉じゃがだった。
甘い匂いが心地よく鼻をくすぐった。
「何よ。朝に肉じゃがぐらい、よく作るじゃない」
妻が私の顔を見て、おかしいひとを見るような表情をする。
「どうしたの? 目、腫れてるわよ?」
「あぁ……」
毎日、君を想って、泣いていたのだった。
「なんでもないよ」
久しぶりに、私は笑った。
「お母さん!?」
二階から降りてきた萩那が、階段の途中で足を止め、声をあげた。
階下で話し声がするのを訝しく思って降りてきたのだろう、いつもは制服に着替えてから来るのに、寝間着姿だった。
「あ、萩那。おはよー」
妻が料理の手を止めることなく、あかるい声を出す。
「ちょっと手伝ってくれる? っていうかあんたもそろそろお料理ぐらい覚えなさいよぉー」
「な……何なに!? お母さん……、何? 転生? って、え? あれ?」
混乱している娘に、私は言った。
「いいから手伝いなさい」
これを幻にしたくなかった。
不用意な言葉は妻を消し去ってしまうような気がした。
妻と並んで、娘が料理を教わっている。
私は邪魔をしないよう、食卓についてそれを後ろから眺めていた。
「作り方は途中までカレーと同じだからね。これが作れるようになったらカレーも作れるのよ」
最初は幽霊でも見るようにオドオドしていた娘も、だんだんと現実に馴染んで、以前と同じように母親とイチャイチャしはじめた。
「あたしさー……お母さん、彼氏できちゃった」
本当にできてたのか! と、私は心の中で突っ込みを入れた。
「あらぁ〜! カッコいい子? 今度連れてらっしゃいよ。品定めしちゃる」
友達のように依子が言う。
「……でもね、お母さんがアレだったから、最近は会ってなくて」
「お母さんのことなんか気にしなくていいわよぉー」
依子が娘の長い髪を撫でる。
「その子のためにお料理できるようにならなくっちゃね! よし、頑張るぞ?」
「うんっ!」
萩那が笑う。
私は後ろから声を投げた。
「おいおい、お父さんのためじゃないのかよ」
萩那が振り向き、ツッコミを入れた。
「お父さんにはお母さんがいるでしょ!」
出来上がった肉じゃがを人数ぶん皿によそって食卓に並べた。
我が家では肉じゃがはカレー皿に入れるものだ。これをスプーンで茶碗の白飯にかけて食べる。
「なかなかうまく出来たじゃないか」
私は笑顔で感想を口にした。
「──萩那が手伝ったにしちゃ」
「あたしお母さんの言う通りにしただけだもん」
萩那がスプーンで肉じゃがライスを口に運びながら、満足そうに頬を膨らませる。
「やっぱりお母さんの作る肉じゃが、美味しいよ」
「萩那の混ぜ方がよかったのよ」
娘の隣で、依子が幸せそうに笑う。
「これで次からカレーも作れるよね」
会社へ出掛けなければいけないのがもったいなかった。
この時間をずっと過ごしていたかった。
「……あれ?」
しかし、私は気づいてしまった。
「萩那、おまえ、髪が……」
「え?」
娘が自分の長い髪を見つめ、目を見開いた。
17歳の萩那の髪に、白いものが混じっていた。
それはみるみる増えていく、白髪だった。
「だめね」
依子が、悲しそうに、笑った。
「やっぱり一緒にはいられないみたい」
レースのカーテン越しに、遠くに幽世を見るように、朝日を見つめると、妻は言った。
「私、帰るわね」
朝日に照らされながら、妻には影がないことに、今さら気がついた。
「依子……」
「お母さん……」
その姿を目に焼きつけようとするように、二人で見送った。
「でも……ありがとう」
朝日の中で、妻がにっこりと笑う。
「私、もう一度あなたたちに会えて、幸せだったわよ」
そして朝日に溶けるように、消えてしまった。
「お母さん!」
萩那が泣き叫んだ。
「いいのに……っ! こんなの、染めればいいんだから! 行かないでよ!」
「萩那……」
私は、笑った。
「肉じゃがを食おう。母さんが作ってくれた、最後の料理だ」
皿に涙が降り注いだ。
それでしょっぱくなった肉じゃがを、二人でしばらく無言で食った。
二人とも大遅刻だったが、気にしなかった。
あれから十二年──
萩那は結婚して家を出ていったが、今日、この日にだけは必ず帰ってくる。依子が私たちの前に現れてくれた、この日にだけは──
二人で依子の墓参りに行くために。
萩那は必ずタッパーに肉じゃがを作って持ってくる。
依子の仏壇に供えるためだ。
「はい、お母さん。今年も作ってきたよ。年々上手になってるでしょ? あの時、お母さんが教えてくれたからだよ」
そう言って仏壇の前にタッパーを置く娘の横顔は、いつの間にか母親そっくりになっていた。