【閑話】アルセルド
ーー寒い季節を控えたある日のことーー
大神官は日課の祈りを終え、神殿の廊下をゆっくりと歩いていた。
中庭に面した石造りの廊下には、時折冷たい風が吹き抜け、揺れる木々がザワザワと音を立てている。
「今日は風が強いようだな……」
アルセルドは、肩にかけた白い法衣の裾を押さえながら、呟いた。
「はい、この風が弱まる頃には寒さが一層、強くなりましょう」
脇を歩く、若い神官が答える。
「そうか……今年も厳しい寒さになる事だろう……」
アルセルドは遠くの空を一瞥し、ふっと目を伏せた。
「冬を越せぬ民を受け入れる準備を急がなければならんな……」
このやりとりも、もう何年続けてきただろう。
年が回れば、寒い季節もまた巡ってくる。 何年も、何十年も。
季節は訪れ、やがて去ってゆく。寒さが過ぎれば、木々が芽吹き、命が輝く季節がまたやってくる。
……そうやって、生きてきた。 神殿で、人生のほとんどを過ごして。
「ここも、変わらぬようでいて、少しずつ変わっていくな……」
彼ーーアルセルドは、数年間だけ、大甥を守るために辺境に赴いたことを除き、その生涯の大半をこの神殿で過ごしてきた。
” 彼女 ”がいた時も、彼はここにいた。
ーー 神の愛し子。 我が従姉妹、エリエゼル ーー
初めて見たとき、彼女はまだ幼かった。
痩せていて、虚ろな目をしていた。 まるで、生きることに希望を持っていないような。
「この子が……あの人の娘か」
思わず、そんな言葉が漏れてしまったのを覚えている。父の弟、つまり自分の叔父にあたる男が、彼女の実父だった。
王子でありながら、暴虐で放蕩な人物として悪名高かった男。
その娘である彼女は、母親亡き後、だれにも保護されることも無く”孤児”として神殿に身を寄せてきたのだ。
「もう、心配ないよ。俺が助けるよ……!」
彼女にそう言ったことがあった。
その時彼女が見せた微笑みは、どこか子供らしくなく、痛々しいほどに大人びていた。
だが、彼女は思っていたより、遥かに強く、逞しかった。
柔らかな物腰の裏に、したたかな意思と芯の強さがあった。そして妙な癖があった。
意地の悪い相手には、こっそりイタズラを仕掛けてやり返すのだ。 怒らせず、気づかれず、それでいてきっちり仕返す。
「こら……エリ、またやったのか」
ある日、自分が小声で咎めると、彼女はにっこり笑って指を口元に立てた。
「しーっ。内緒だよ、アル」
「……ったく、君という子は……」
ハラハラするのは、いつも自分のほうだった。 けれど、どこか目が離せなかった。
彼女の出自は誰もが知っていた。 知っていながら彼女はただの”孤児”とされていた。
王族の血を引きながら、王家が ” 悪女 ” とした女性の子。 捨てられた子。
その血筋から世間に捨て置くことはできず、かといって取り立てることも出来ない。
下級の神官と言う位置づけに置きながら、まともに着替えすら渡さず、常にボロを身にまとい、雑用を押し付ける。
そのような待遇でもあった。
当時、力を持たぬ自分にはこっそり、裏で助ける事くらいしかできなかった。
そんな彼女には強い浄化の力があった。
だがそれを誰にも言わず、神殿の裏手、林の奥で、静かに小さな『穢』を浄化していた。
杖も持たず、祈りも紡がずに浄化が出来るのは能力が高い証だ。
「エリ…それ、危ないだろう。誰かに見られたら……」
「大丈夫、大丈夫」
彼女は笑って、また唇に指を立てた。
「アルは、秘密を守ってくれるもん」
「……お世辞か?」
「ほんとのこと」
彼女は片目を閉じて、悪戯っぽくウインクしてみせた。
そんなある日。
「祈りの時間にね、女神さまからお話があったの」
彼女はぽつりとそう漏らした。
「え? まさか、本当に? 」
「祈ってたら白い場所にいてね、女神さまとお話ししたの。 内緒だよ? 騒がれたら、困るもん。 利用されるの、嫌だもん」
「確かに。 神殿にも国にも、我欲にまみれた者が多くいる……」
自分はそれを認めざるを得なかった。
「わかった。 黙っていよう。 秘密を守るよ」
その時、彼女は目を細めて笑った。 儚げに見えながらしたたかで、それでいて妙な愛嬌があって……
自分が、彼女に淡い恋心を抱いたのは、自然なことだった。
エリが15歳になったある日、彼女の実父が、評判の良くない男に彼女を嫁がせようとしていることを知った。
「エリ、一緒に逃げよう。俺が守るから」
そう告げたとき、彼女は少しだけ笑って、首を横に振った。
「大丈夫よ。 一人で逃げるわ」
「どうやって……?」
問い返すと、彼女は迷いのない目で答えた。
「友達が逃してくれるの。 もう計画もあるのよ」
そう言い張る彼女が、どうしようもなく心配だった。
神殿の人間なら外部の貴族の息がかかっている者も多い。貴族家出身者が多いのだ。
そんな私自身だって、王の子だ。
その『友達』がほんとに彼女を守ってくれるのだろうか。
本当に何かあったら、その時は自分の身を挺しても守ろう ーーそんなことすら考えた。
そして、ある日。
日課の祈りを捧げていたその時、突然、空間が震えた。
ーー 女神の神託 ーー
空間はまばゆい光に満ち、声は高すぎず、低すぎず、静かに、だが確かに響いた。
誰もがその声を聞いた。
《 我が愛し子を我が元へと導かん。探すことなかれ 》
その声とともに、彼女の身体は、女神の光に包まれていった。 そして彼女はふと、光の中で振り返った。
まっすぐにアルセルドを見つめ、
微笑みながら、手を軽く振った。 言葉はなかったが、その笑顔は確かに告げていた。
『ありがとう。 大丈夫よ』
その瞬間、彼女は静かに、確かに、女神の元へと消えていった。
彼女は、女神に愛された存在だったのだ。 その後、彼女の実父は謀反の罪で捕らえられた。
すべては導きなのだろう。
「あの頃の私は、ただ力が欲しかった……。 守れなかったことを、後悔している」
私は神殿の不正を正すために動き、神殿の腐敗を正し、出世を重ねた。
そして今では、神殿で最も高い地位にいる。
「私は力を付けた。 今なら、今の私なら、彼女のような人を、いや、 " 愛し子 " さえも守ることができる……」
だが、彼女はもういない。
女神に導かれ、どこかで幸せになったのだろうか。
「エリエゼル…… 君は、今も微笑んでいるのか?」
今日も祈りを捧げる。
世界が平穏である様に、民草が飢えることが無い様に、大甥クレイアスに祝福の運命が訪れる様に、
そして彼女が幸せでありますように……と。
***
……その半年後、大甥の元に運命の赤い布がもたらされる事は、この時点で知る由も無かった……




