お誘いを断ったら国が滅びました
「お断りします」
王立貴族魔法学校の廊下で、見知らぬ男性から共同研究の誘いを受けた私は、研究の内容を聞く前に断った。
目の前の男性は断られるとは思っていなかったようでとても怒っている。
「大変申し訳ございませんが、今眼鏡をかけていないので、あなたがどなたなのか分かりません。もし、どうしてもと仰るのなら、バーソロミュー侯爵家へご連絡いただけると助かります。私の師匠、コルネリウス様がいらっしゃるので」
頭を下げてその場から逃げるように移動した。マズイ。あの人多分高位貴族だ。
私はバネッサ・ルーター。ルーター伯爵家の三女だ。先日下の姉が私の眼鏡を壊してしまった。代わりの眼鏡などなく、新しい眼鏡を買ってもらうこともできず、ただただ困っている。
両親は美しい見た目の二人の姉を可愛がるのに一生懸命だ。周囲の評判で自尊心がいい感じに満たされるらしい。一人だけ父方の祖母に似た私を嫌う母と、私を貶めたい下の姉のせいで私にまで予算が回ってこない。
眼鏡を買うのにも一苦労だというのに、テレーズ姉様のせいでレンズが割れてしまった。テーブルに置いた眼鏡を、アネモネ姉様がちょうど引っ掛けて落とし、テレーズ姉様がヒールで踏み抜いた。
謝りもせず、拾いもせず、ヒールに傷が付いたと頬を叩かれた。姉様の爪があたったのか、頬に引っ掻き傷。テレーズ姉様の爪はごちゃごちゃと飾りがついている。わざわざ顔を近づけた姉様はニーッと笑った。真っ赤な唇が横に広がる。気持ち悪っ。
テレーズ姉様はいつもそうだ。そもそも私に嫌がらせをするのが楽しいんだと思う。わざわざ近づいてくるし。アネモネ姉様は私の六歳年上。テレーズ姉様は私の二つ上。年齢が近い分私の存在が邪魔なのかもね。ほっといてくれればいいのに。
今日の放課後、集めておいた眼鏡の欠片を持って師匠のところに行こうと思っていた。師匠は凄腕の魔法使いなんだけど、理論的な面が苦手だとかで、私には魔法を文章化するという利用価値があるらしい。
師匠は何かと忙しいので、今日は一週間振りに会いに行く約束になっている。眼鏡が壊れたのが最後にあった日の夜だったから、眼鏡なしの不便な生活が一週間。長かった。今日まで何とか平穏に過ごせたのに、運悪く何処かの誰かに悪様に言われてしまった。
「僕からの申し出を断るなんて、随分と高飛車なご令嬢なんだね。テレーズが言ったとおりだ。君みたいなお高く止まったご令嬢と共同研究をしようなんて奴はきっと僕以外にはいないだろうね。自分の人望のなさを自覚してさっさと僕との共同研究を了承した方が君のためだと思うよ?」
誘っているのか脅しているのか。テレーズ姉様の知り合いって皆なんか変。どちらにせよ、共同研究はほぼ完成。あとは実証が必要で、それが終われば論文を纏めて提出できるところまで来ている。師匠のおかげだ。
師匠と知り合ったのは去年のこと。図書館で同じ本をほぼ同時に探していたのがきっかけだった。師匠の方が先に見つけて、その場で立ったまま読んでいた。
一足遅れでその本棚に辿り着き、隙間の開いた本棚の前でガックリした私に、優しくその本を譲ってくれたのが始まり。今思えばアレは対外用笑顔と対応だった。うん。今とは別人。
今はもっと意地悪だし、一人でニヤニヤしてるし、悪戯好きだし、まあ、お茶目っちゃお茶目だけど。多分今は懐に入れてもらったんだと思う。そう考えるとなんか嬉しいな。多分だけど。
この学園は十三歳から十八歳の間で、魔法適性があり、水準以上の魔力量を持っている者なら、身分に関係なく入学できる。決められた単位を取得していて、卒業資格があればいつでも卒業できる。
この学園は実力主義。身分の違いによる配慮は多少はあるけど、単位制の学校なこともあり、在学年数は人による。最長記録が十六年って噂があるくらい。さっき私に声をかけた男性は、きっと上手くいってないんだろう。年上っぽかったし。
卒業していなくても、卒業資格を得た段階でこの国の魔法使いとして登録され、職業の斡旋などが行われる。賃金を貰いながら学生もできる。でも、学園を卒業した方がお給料が良いから、今焦って昼間働くよりは卒業を目指した方がいい。
共同研究は異なる入学年同士でも問題はない。二人で特定の魔法についての理論構築と実践、論文執筆と口頭試問を経て、一定以上の成績を取ると卒業資格を得ることができる。
当時からお互い『目』について調べていたから、読みたい本が重なることが多く、何度も本のやり取りをする中で共同研究の誘いを受けた。
私たちの共同研究は視力を回復する魔法。つまり、眼鏡無しで生活できるようになることを目指している。
自分の眼球に自分の魔法をかけるのが怖くて、なかなか最後の一歩が踏み出せない。繊細な魔力操作が必要なのは分かっているから、不安が大きい。そう言ったら、師匠は睡眠不足だから自信が持てないんだと呆れたような目で私を見た。
そう言われても、家のお金が回ってこない私は自分で働く以外に収入を得る方法がなかった。結局寝る時間を削って働くのが最善と判断した当時の私は伯爵家の侍女頭に相談した。
親身になって話を聞いてはくれたけど、流石に家の外で働かせてはもらえず、屋敷内の侍女の仕事をもらった。侍女頭の指示通り動いてお給金を貰って、なんとか凌いでいた。
もちろんドレスのような高価な物は買えない。社交に出ないから不要と言えば不要。ノートや筆記用具、論文用の紙、昼食などなど、学園で必要な物を優先して買ってた。
もっとも師匠と出会ってからは『余ってるから』と随分と助けてもらった。ほんと、感謝しかない。物資をかなり援助してもらったけど、下着だとかそういう細かい物は流石に言い出せないし、将来への不安もあるし、今もバリバリ働かせてもらってる。お陰で銀行にちょっとだけお金が貯まったから嬉しい。
共同研究期間は侯爵家の別邸の部屋を貸してもらって論文を書いた。着替えから何から用意してもらえて、人として尊重してもらえて、すごく嬉しかった。同時に家での生活が異常なんだってすごくよく分かった。
衣食住が保証された生活は快適で、研究に没頭できて今まで生きてきた中で一番幸せだった。師匠が仮提出の日時を間違えていたせいでエライ目にあったけど。
反面、侯爵家滞在中は侍女の仕事をさせてもらえなかったから、その時に得られたはずのお金が無い。今の私はカツカツだ。眼鏡がなくて不便だけど、師匠に頼めばなんとかしてくれると思うと新しい眼鏡を買う気にもなれなかった。
目立たないように気を配り、なんとか迎えた放課後、やっと師匠に会える喜びで震えた。師匠にこんなに会いたいと思ったのは初めてだ。
「バネッサ! あなたなんて失礼なの?」
めんどくさいなぁ。教室にテレーズ姉様が文句を言いに来た。美人のテレーズ姉様はクラスの男子からすこぶる人気が高い。『眼福』なんだそう。彼らがテレーズ姉様に近づいていく。背中に隠した手で私に早く行けと合図をくれた。
「テレーズ様だ!」
「今日もお綺麗だ!」
「なんか良い匂いがする」
ありがたい。テレーズ姉様に男子が群がってくれたお陰で、私は難なく教室から抜け出せた。私がいるクラスは文官コース。切磋琢磨する貴重な仲間。私とテレーズ姉様の関係を見抜いていて、何度も助けてくれた。
成績優秀とは言え平民も混じっているので、貴族家出身の皆が率先して対応してくれる。テレーズ姉様はやることは陰湿だけど見た目だけはとてもいいから、中には何かの思惑がある人もいるかもだけど、そこはどうぞご自由に、だ。
学園で貸し出されている馬車に乗って、バーソロミュー侯爵家へと向かう。私は肩の力を抜いて深く息を吐いた。バッグに忍ばせておいたクッキーを齧る。疲れていたみたいで馬車の中でうっかり眠ってしまった。
なんだか気分がいい。ゆらゆらと揺れて、ふわふわする。いい匂い。なんか安心する。でも瞼が重くて目が開かない。意識が沈んでいった。
「やっちゃった!」
飛び起きた私は慌てて周囲を見渡した。
「え。ここどこ?」
「お目覚めかな。お姫様?」
「その声は、師匠?」
「ああ、眼鏡がないのか。早く視力回復の魔法を試せばいいのに。僕の顔、見えてる?」
「……いいえ」
部屋に入ってきた男性は呆れたように息を吐いた。
「まあ、眼鏡でいいや。どこにしまったの?」
「壊されちゃいました」
「はあ? いつ?」
「前回師匠に会った日の夜です」
「もう一週間も前だよ? その間ずっとどうしていたの? 僕に会いに来てくれたら直せたのに」
「お忙しいと思って」
「確かに忙しいけど、眼鏡を直すくらいならそんなにかからないでしょ?」
「仕事をしないといけなかったので」
「まだ侍女の仕事していたの? そもそもなんでそんなにお金が必要なの?」
「姉二人にお金をかけているので、私の生活費はないのです」
「はぁぁ、なるほどね。研究のためじゃなくて生活のためだったのか。まさか家でお金を貰ってないとは思いもしなかった」
「すみません。伝えていませんでしたね。働いていた理由」
「じゃあ、論文を書いてた間のお金が足りないんじゃない? 僕には婚約者用の予算があるからそれを君に贈ろう」
「いえ、そんな! 滅相もございません」
「遠慮するなって。共同研究者だろう? そうだ! 研究員として僕が雇うよ。今までの給金の三倍くらいは出せると思う。侍女の仕事を辞めてうちに来なよ」
「え! いいのですか?」
「その代わり、住み込みになるけど平気?」
「問題ありません! 今も家族とは食事も別ですし、元々侍女は足りているので私がいなくても特に問題はありません」
「なんか聞いてて切なくなってきたけど、こちらには好都合だ」
「ごめんなさい、聞き取れなかったのでもう一度言ってもらえますか?」
「ああ、すまない。早速今日から頼めないかと思ってね」
「今日からというのは侍女の仕事があるので難しいですね。今夜伝えれば明日の放課後からだったら大丈夫だと思います」
「ダメか……。あ、荷物を纏めたりする時間はある? 徹夜はダメだよ?」
「大した荷物はないのであっという間ですよ」
「僕が贈った物は結構嵩張ると思うんだけど?」
「贈り物、ですか? 何かいただいたのでしょうか。申し訳ありませんが、家に届いた物は全て姉のモノなので私が受け取ることは無いのです。お気持ちだけありがたく受け取らせていただきますね」
バキッ。
コート掛けが折れた。音に釣られてそちらを見ると、逆再生されたようにコート掛けが戻っていく。師匠お得意の修繕魔法だ。相変わらず凄い。ん? なんか苛立ってるなぁ……。師匠、まさかの八つ当たり?
「そうだ!眼鏡!」
慎重に箱を取り出して師匠の前に置いた。
「師匠、お願いです。直していただけませんか?」
「もちろんだよ。じゃあ、預かるね」
眼鏡の逆再生が始まった。良かった。直りそう。
そう思ったのも束の間。現実は甘くなかった。ちょうどテレーズ姉様が踏んだ辺りの直りが特に悪い。
「うーん。全部のパーツが無いと直らないよ? ガラスの粉も集めてきた?」
「あー。粉、ですか……。例えば、レンズを踏み抜いたテレーズ姉様のヒールに付着した粉も、ですよね?」
「ヒールで踏み抜くって、どういう状況? やっぱり家に帰したくないんだけど」
「たまたま私の目にゴミが入ってしまって眼鏡をテーブルに置いたんです。洗面でゴミを取って部屋に戻ったら姉様たちがいて。アネモネ姉様がテーブルに置いてあった眼鏡をたまたま落として、それをたまたまテレーズ姉様が踏んでしまって」
「たまたまが重なり過ぎだし、滅多に部屋に来ない二人が来ている時点でだいぶ怪しいと思うんだけど」
「共同研究はどうなっているの? と心配して聞きに来てくださったんですよ。もちろんもう終わっているとお伝えしましたけど」
「パートナーについては?」
「伝える前に眼鏡が壊れたので、その場はそこでお開きになりました。あ! そう言えば、どなたか分からなかったんですが、私を蔑む立場のお方から共同研究のお誘いを受けました。お断りして、その件はバーソロミュー侯爵家に連絡するようにと伝えました。以前師匠に言われた通りに」
「よくやった! 僕の名前は共同研究者としてちゃんと伝えたんだろうね?」
「あ。伝えなかったかもです」
「えー! せっかくの抑止力なのに!」
「すみません。嫌味がすごくて伝え損ねてしまったんです。そもそも、どなたにお誘い頂いたのかが分からなくて不安です。テレーズ姉様のお知り合いのようでしたけど」
「なるほど。となると、伯爵家の令息だろうな。侯爵家以上には通達を出しているから敢えて口は挟んでこないだろうし。知ってるとは思うけど、侯爵家までの男子がほぼ同い年だったから今もお互いの情報交換が活発でね、バネッサと僕が共同研究をほぼ完成させていることは知らせてあるんだ」
「そういうことでしたか。高位貴族の方に、眼鏡がなくて見えなかったなどと言い訳をしてしまったのでどうしたものかとは思っていたのですが、伯爵家のご令息だったのなら同格です。少し安心しました」
「なんならバネッサの家は筆頭伯爵家だからそもそもその令息は立場をわきまえていない、と取るべきだね」
「知りませんでした。いつもありがとうございます。師匠がいて良かったです」
「弟子の不出来は師匠である僕のせいだからね。これからも精進してくれよ?」
「頑張ります! あ、もうこんな時間ですね。師匠と過ごすとあっという間に時間が過ぎてしまいます。早く帰って仕事をしなくては」
「ちょっと待って。視力の回復魔法、かけていい? 安全性はもう試してあるんだ。この一週間、病院で視力に問題のある人たちに魔法を試させてもらったんだ。もちろん挑戦したいと言ってくれた人たちだけだけどね。バネッサは不安がると思って内緒にしたんだけど、本来なら我々が先に試すべきだったなと反省したよ。もちろん失敗は一例も無かったけどね。実証はできた。バネッサも僕を信じてほしい」
「そうですよね。実際に視力が欲しい私が試すべきでした。怖がってばかりいてはダメでしたね。早速お願いします!」
「じゃあ、目を閉じて」
素直に目を閉じると瞼に柔らかい何かが触れた。心なしか師匠が近い。吐息が顔にかかったような?
「はい。もう目を開けていいよ。全盲の患者さんはすぐに目を開けたらダメなんだけど、バネッサは大丈夫だから目を開けて」
「分かりました」
目の前に顔が見える。左右対称で整った顔。黄金比かもしれない。計測したい。
「どう? 見えるでしょ?」
黄金比が私に話しかけてきた。
「計測したらきっと黄金比な美丈夫が見えます。カッコいいです」
黄金比が赤く染まった。
「もしかして僕の顔、ちゃんと見たの初めてなんじゃない?」
「どうやらそのようです。眼鏡の度数が合っていなかったのかもしれません。美し過ぎてドキドキしてきました。もうお顔を見ていることができません。計測することもできません」
コルネリウスはバネッサを抱きしめた。
「ほら、これで見えないよ。落ち着いて。大丈夫。美人は三日で飽きるって言うし」
「それ悪口ですよ。師匠のお顔に飽きるなどと言うことはありません。美術品みたいです」
「寝不足が過ぎるんじゃない? いつもは言わないようなことまで言ってるけど大丈夫? 信じちゃうよ? ああ、この手を離したくはない。けど、流石にそろそろ家まで送らせるよ」
「いつもありがとうございます」
バーソロミュー侯爵家から辞する時、師匠が少し不機嫌だったのが気になる。善意の申し出を断って侍女の仕事に戻るからかな。師匠からは貰うばかりで何も返せていない。明日からはしっかりとお仕えしよう。
侍女の仕事を終えて、部屋の荷物を整理し、軽く掃除をしておく。立つ鳥跡を濁さずって言うものね。身支度を整えて眠る。明日からはこの部屋では過ごさないのだと思うと不思議な気分だ。いつからこの部屋で暮らし始めたんだった?
テレーズ姉様の部屋は見たことがある。煌びやかで素敵なお部屋だった。私のとは大分違う。衣装が詰まったクローゼット、宝飾品が溢れた引き出し、デスクには高価な万年筆とインク壺。あまりにも自分が知る世界とは色彩が違って、引き留める姉様を振り切って自室に帰ったっけ。
後日、宝飾品は私に見せるために置いておいたんだって分かった。仕事でお部屋を掃除した時にはちゃんとケースに収まっていた。もしかして私に羨ましがられたかったのかな。
自分の方が親に愛されてるよって伝えたかったのかもしれない。人の心の機微は魔法の研究よりも難しくて、でも興味を持てなくて、結局考えるのは止めた。
姉様たちと見た目が違うのは分かっている。鏡を何度覗いても、綺麗な姉様たちと私は似ていない。私もそれなりの顔だとは思うんだけどな。肖像画の中のお祖母様によく似てるから、それがダメだったのかな。
勉強を頑張れば両親から期待してもらえると考えていた時期もあった。学年で首位を取っても、研究発表で高評価を貰っても、師匠の家に泊まり込んで作業しても、何も変わらなかった。
あの日、私から捨てようと思った。向こうを変えるよりも自分が変わる方が簡単だ。両親も姉も元々いなかった。そう。私は一人。独りきり。
頭の中であの四人を亡き者にしよう。実際にしたら洒落にならないから、頭の中でコッソリと。頭の中は自由。彼ら四人の存在を心の中から消そう。私を弾いたあの四人家族。異端。異質。そう。不必要なのは私。
あの泣きながら残虐な光景を頭の中で繰り広げた夜から、どれだけ経ったんだろう。まだ期待する心が残っている。執着かもしれないし、未練かもしれない。
見てほしい。構ってほしい。与えてほしい。そんなのはもう諦めた。無理なものは仕方ない。できないものはできない。でも……。ルーター伯爵家での最後の夜は悶々と考え事をして終わった。
朝が来た。これまでにも何度も朝が来た。でもきっと今日は何かの区切りになる。期待に胸を膨らませ、淡々と侍女としての最後の仕事をこなす。もうこの家には帰らない。
『家族』の朝食の給仕。直接料理を出すのは私よりも地位が上の侍女なので、私が直接触れ合うことはない。まあ、侍女頭の配慮でもあるけど。さすがに、ね。
自分の朝食はもう済ませているし、私の席は元々ないので『家族』とは言うものの実感も中味もない。私は室中には入らず廊下で、新しい料理が運ばれて来て、食べ終わった食器やカトラリーが運ばれて行く、一連の流れの補佐をしていた。
「お父様、バネッサったら酷いのよ!」
テレーズ姉様が私の名を口にしたので、それまで意味のない音の羅列だった会話が、急に意味を持った言葉になった。
「リーヌス様の共同研究のせっかくのお誘いを断ったのよ。リーヌス様のお怒りは相当なもので、今後我が家に何をされるか分かりませんわ。私、怖い。問題が起こる前にバネッサに学園を辞めさせて、例の商人の希望通り嫁がせたらいいのよ」
「リーヌス様か……。それは不味いな。例の商人は王室御用達なんだ。その筋でバネッサのことが耳に入ったのかもしれん。どうするのが一番良いのだろうな」
「待って、テレーズ。バネッサは毎日何かに忙しくて家族の朝食の時間にも顔を出せないと聞いているわよ?学園には行っているの?」
「もちろんよ! アネモネ姉様は呑気で良いわね。婚約者の方との関係も良好そうだし、この家の後継ですものね。私たちは婚活に忙しいのよ。学園で良いご縁を探しているの。お父様の人脈では良いご縁はお姉様の分だけ。私の分ですらなかったんですもの、バネッサにあるはずがないでしょう? 商人から奇跡的に望まれたご縁が最良に決まっているわ」
「そんな風に言うもんじゃないわ。あなたにもご縁があったでしょう?」
「子爵家の年上の方との縁談がね。嫌よ。子爵家なんて!」
「文官になって働くのはどう?」
「無理に決まっているでしょう? 私の成績をご存知ないからそんなことが言えるんだわ」
「じゃあ、評判が良いルーター家のご令嬢って、バネッサのことではないの? バーソロミュー侯爵家のご令息と研究をしているって」
「アネモネ姉様はとっくに学園からご卒業されたからお分かりでないと思いますけど、バネッサには良い評判はありません。絶世の美男子と謳われるコルネリウス様とのご縁などある訳がないでしょう? 平民に混じって学んでいますのよ? 信じられませんわ。あんなマナーもなく群がってくるような人たちとなぜ同じ学園に通わねばならないのか、理解に苦しみますわ!」
「まあまあ、バネッサと今一緒の学園に通っているテレーズがそう言うんだから、きっとそうなんだろう?」
日和見主義の父が言う。母はこういう時何も言わない。姉様たちの性格が、何かと母に辛くあたった祖母にそっくりだからだ。萎縮して何も言えなくなってしまうらしい。
「バネッサを呼んでちょうだい?」
まずい! アネモネ姉様が私を呼んでる! でも今は侍女の格好をしているから、出て行くわけにはいかない。一緒に給仕をしていた人たちも緊張してる。
ずっと廊下にいたから顔は見られていない。何ならアネモネ姉様とはここ数年まともにお話していない。部屋に来て眼鏡を落とした時も、壊れた眼鏡を拾い集めるのに必死でまともに顔も見ていなかった。
アネモネ姉様は領地経営を学ぶための私塾に通っていてお忙しかったから、侍女の格好をした私を見ても気付かないかもしれない。私を見て怒るかもしれない。よし、逃げよう! だって怖いからね!
給仕をしていた私たちは今までで一番団結した。怒ったアネモネ姉様はそれはもう恐ろしい。多分それが共通認識だと思う。テレーズ姉様はヒステリックだけど、アネモネ姉様は高圧的だ。
急ぎすぎると動きが目立って不自然だから、ギリギリの速さで厨房へ向かう。良かった。執事長がちょうど厨房の前にいる。
「セバスチャン、今日からバーソロミュー侯爵家で仕事があります。しばらく帰れないのでお給金の清算をお願いします。今すぐに」
「承知しました。ちょうどご用意しておりました。どうぞ、こちらをお持ちください」
「着替えたら侍女のお仕着せはランドリールームに持っていきますね。今までありがとうございました」
「光栄の極みです。今後もどんな小さな困り事でも、何なりとお申し付けくださいね」
「セバスチャン、ありがとう!」
「お嬢様、どうかお幸せに」
部屋へ急いで戻っていく私への、セバスチャンからの慈愛の籠った眼差し。振り返って見たあの瞳。あんな風に私も家族から見てもらいたかった。
部屋に戻るや否や急いで着替えて、ランドリールームにお仕着せを放り込み、学園へ向かう。家の馬車の使用は許されていないので、大通りまで出て、平民の同級生と一緒に馬車に乗った。
マズイ。お給金をポケットに入れたままだ。不自然にお金の音が鳴らないようにハンカチで包む。このハンカチは師匠が旅行のお土産に買って来てくれたものだ。盗まれたら大変。色んな意味で。特に師匠は拗ねると面倒だ。
馬車の中には学園の生徒だけでなく、学園近くの商店街で働いている人もいる。そもそも私は他人を信じることができない。一番身近な姉が奪う人だったからかもしれない。ああ、早く自立したい。自分だけの安心できる家に住みたい。
ふと眼鏡を上げようとして気づいた。視力が回復したんだった。なんて快適な魔法なんだろう。早く困っている人たちの助けになりたい。もっともっと魔法の腕を磨いて、もっともっと知識を得て。
学校についてからの一日はいつも通りだった。授業が終わると同時に教室を出て、学園所有の、誰でも使える馬車を目指す。早く師匠に会いたい。師匠に感謝の気持ちを伝えたい。
「ちょっと待ってバネッサ! 挨拶もなく僕の前を素通りするなんて信じられないよ。共同研究者になってあげてもいいと言ったのを忘れたの? とりあえず研究資料を貸して。助言できることがあると思うんだ」
言葉は優しいけど、苛立ちが隠しきれていない男の人に絡まれた。逆らったらマズい気がする。
「もしかして先日眼鏡がない時にお声がけいただいた方ですか? あの、バーソロミュー侯爵家を通していただきませんと」
「な! お前はルーター伯爵家の者だろう? なぜ侯爵家が関係してくるんだ! 嘘つきめ! この僕が侯爵家風情にビビって引くと思っているのか? 生意気な女だ!」
嘘でしょ? 炎を手から出して私の髪を焼こうとしたよ? 師匠の保護魔法がかかってなかったら髪の毛燃えてたかも。
「バネッサ、何があった?」
「師匠! 絡まれて燃やされそうに」
「殿下?」
保護魔法に干渉されたから、師匠が転移してきてあっという間に鎖でその男を縛りあげた。
「ふぅ。変なのに絡まれる癖はどうにか治らないものか?」
「コルネリウス様!」
向こうのほうからテレーズ姉様が急ぎ足で近づいて来る。優美で魅力的な姿。中身さえ伴っていれば最高の女性。姉様からの視線を遮るように師匠は私を背中に隠した。
私は完成にちょっとだけ時間のかかる魔法陣の準備を始めた。二人で逃げる時のいつもの流れだ。もっと速く作れたら良いんだけど、まだ練度が足りないみたい。
色々な所へ取材に行くと、逃げなきゃいけないタイミングってあるよね。うん。だいぶ速くなったんだけど、テレーズ姉様が近くにいるからか、集中が難しい。テレーズ姉様への恐怖感。幼い頃から積み上げられた萎縮。
「バネッサの姉のテレーズですわ。そこでコソコソとしているバネッサにお伝えくださいませ。婚約者との顔合わせの日だから真っ直ぐ帰るようにと。コルネリウス様のご案内は私がさせていただきますわ。学園に御用がおありなのでしょう?」
「婚約者? バネッサに? ちなみにどなたが」
「アレハンドロ商会のベニッシモですわ。やり手の商人です。規模も拠点もバネッサにはピッタリの商会です」
「僕という相手がいながら商会と天秤にかけたのかい? 愛しいバネッサ」
急に師匠が私の手を取って口付けを落としたから、せっかく整いそうだった魔法陣が消えてしまった。私は悔しくて師匠をキッと睨んだ。
「そんな顔も可愛いよ。これからも僕にだけ色んな顔を見せてほしいな」
テレーズ姉様を見ると、淑女らしからぬ顔。あんな顔もするんだとびっくり。口を開けたまま驚いた顔のままで停止している。
姉様は全ての男性はバネッサよりもテレーズを愛す、と言ってたから、見たもの聞いたものが受け入れられないのかも。私はお芝居だって分かってるから余裕。いや、かっこよ。師匠の整った顔立ちを直視できず視線を逸らした。全然余裕じゃなかった。
はあ。私、ちゃんと分かってた。生き物は目を逸らした方が負ける。師匠に抱きしめられて、頬に口付けをされてしまった。顔に熱が集まる。熱い。
「ふっ。可愛いな、バネッサ」
ついでに頭も撫でられている。居た堪れなくなった私は急いで転移の魔法陣を起動した。多分過去最速。
「今回の転移、急に上達した感がある。追い詰められた方が実力を発揮しやすいのかな」
転移した侯爵家の一室で師匠が満足そうに言った。
「もう! 揶揄うのはやめてください! 恥ずかしいし気まずいし」
「まあまあ、転移の魔法陣も良かったし、いいじゃないの。動揺して最初の魔法陣が消えた時はあまりにも可愛くてどうしてやろうかと思ったよ」
「勘弁してくださいよ、師匠。私への師匠の溺愛演技を見たテレーズ姉様の驚き顔見ました?衝撃的でしたよ」
「演技じゃないから説得力があったんじゃない? 本音だよ。いつも思ってる事を言っただけだよ」
顔が熱い。そんなに優しい目で見ないでほしい。そんなにカッコいい顔で笑わないでほしい。
「あ!」
恐ろしいことを思い出した。急激に冷静になる。
「さっきのあの男の人のこと『殿下』って呼びませんでした? 縛り上げてましたよね?」
「ああ、あいつ王子だよ。何人かいるうちの王子。名前なんだったっけな。面倒だから殿下って呼んでるけど」
「ご親戚ですもんね?」
「従兄弟」
「一応聞きますけど、師匠は侯爵家令息ですよね?」
「一応そうだね」
「じゃあ、王子様の方が身分は上ですよね?」
「まあ、そうなるね」
「私、あの人からの共同研究のお誘い、お断りしたらマズイんじゃありません?」
「んー。そうか?」
「今からでも王子様に承諾する連絡をした方が……」
「え。だってもう完成してるよ? あとは申請するだけ。そこに割って入るなんてもうドロボウだよ。いいとこ取りにも程があるでしょ」
「この研究は師匠のものですから、誰か違う人を共同研究者に。私は新しくあの王子って人と研究を……」
「いやいや、なんでそんな話になっちゃうのよ。せっかく同棲に持ち込んだのに。同居開始記念日なのに」
「だって王子になんか逆らって師匠に何かあったら私!」
「ああ、心配してくれてるの? 分かった。ちょっと待ってて」
そう言って師匠がいなくなって二週間。学園には行かず、師匠を待っていた方がいいと引き止められて侯爵家で大切にされながら過ごしている。
寂しさはあるものの、快適で快適で! 一般的な貴族家令嬢の皆さんはこんなに至れり尽くせりなのね。知らなかった。前回は論文に割く時間が長かったからここまで凄くなかった。肌も髪もツヤツヤ。
それに、師匠の蔵書の多さは時間を忘れさせるのには十分過ぎるほど。新しい研究テーマをいくつか見つけて、論文を書き始めた。すごい! ここの蔵書すごい!
「バネッサお待たせー!」
背後から抱きつかれて私は悲鳴をあげた。集中している時に急に来られると驚くよね?何か良い案を思いついたところだったのに、全部忘れた。
「二週間もどこにいたんですか?話したいことがいっぱいあるんですよ?」
「話すと長くなるから結末だけ。国が変わる。今の国は滅びて、違う国になる。僕は公爵令息、あいつは伯爵令息になったから、バネッサの共同研究のパートナーは僕で問題なし!」
「ええと。え? 国が滅びた。内紛ですか? ん? あいつって誰ですか?」
「あっちに座ろう。順に話すね。まず、お茶を淹れてもらおう」
私たちは並んでソファに座った。侍女が何人か来てあっという間にお茶の準備を整えてくれた。
侯爵家のスイーツは絶品ばかり。多分私は太ったと思う。前は痩せすぎだったんだろうな。最近体を動かしても疲れにくくなった。睡眠もバッチリで頭もスッキリ。睡眠不足だったってこういうことだったのかって思った。
「建国の時なんだけど、三人の王が集まってこの国を作った話は知ってるよね?」
「もちろん。絵本で読みました。おとぎ話じゃなかったんですね」
「そうなんだよ。史実。その最初の三人は考えた。王を一人にした場合、その先の子孫がずっと優秀かどうかは分からない。そもそも三国で一つの国を作ることに同意はしたけれど、指揮系統が三種あるのも効率が悪い。そこで王位争奪戦、『バタイフォレクオン』を行うことにした。頭脳戦だから物騒なものではないんだけどね。学者を集めてとにかくたくさん問題を作らせて、知識、戦略、未来読みの正確さなどなど、多角的に試される。算数もあるけど馬鹿にしちゃいけない。一点差で結果が変わることもある。一番が王、二番目が公爵、三番目が侯爵と決めた。その後、参加人数が増えて、異議申し立て制度が追加された。何か問題があるまでは世襲制だから、王の家系の者に不満がある時は権利のある者たちがこの争奪戦を希望するんだ。今は伯爵家以上に参加権がある。希望制だから、爵位を動かしたくない場合は不参加でも構わない」
「王家が不参加を選んだ場合はどうなるのですか?」
「王家は異議を申し立てられた側だから選択権はないよ。強制参加。まあ、今回は僕が異議を申し立てたんだけど、それをすると二週間くらい家に帰れなくなるんだって知らなかったんだ。諸々の不正を防ぐためなんだって。心配かけてごめん。対象者に知らせを出して、それと並行して専門家を招集して問題を作ってもらう。参加希望者が到着するとバタイフォレクオンが始まる。過酷で苦しいから滅多なことでは行われないんだ。今の王家長かったでしょ?」
「そうですね。王家が変わるなんて全く思ってもいませんでした」
「伯爵家以上は皆親から子へ教えられているはずのことだから、ルーター伯爵の怠慢だな。元々今の王子たちはどれもアレだったから、ジュピテルと異議申し立ての機会を伺っていたんだ。ジュピテルは元公爵家令息で今王太子ね。長く地位が続くと必ず勘違いする者が現れる。この国の名は何度も変わっているけど、根幹にあるのは最初の国なんだよ」
「ずっと、同じ国……」
「そうなんだ。もちろん時代に合わせて変わってきてはいるけどね。で、久しぶりに国名が変わることに決まった。参加者の成績順に、王、公爵って順に決まっていくから侯爵位までの総数はずっと変わらないんだよ」
「そういえば、歴史の授業で聞いたような……」
「月初から新しい国になるからそろそろ号外が出るんじゃないかな。この国の識字率は高いからその点便利だよね。ああ、そうだ。バタイフォレクオンのことは伯爵家以上の者は知っているから、秘密でもなんでもないよ。ただ学校の授業ではやらないだけ。ずっと同じ国な訳だから、上が変わっても市井の生活は基本そのままだしね。変に癒着とかしてても身分が入れ替わればその人の価値も変わる。そうやってこの国を保ってきたんだよ。ま、そんなわけで、共同研究の件は問題なくなったね。あいつより僕が上。じゃあ次は僕との婚約について話し合おうか」
師匠は私の前で跪いた。胸に手を当てて魔力で花束を作り出した。師匠の瞳の色と私の瞳の色の花。
「バネッサのことが好きです。僕と結婚してください!」
花束をグイッと突き出す。師匠の顔が真っ赤だ。恥ずかしいのか目を瞑っている。結果を知るのが怖いのかな。
私は前されたことの仕返しをすることにした。師匠の頬に口付けを捧げる。私からの最初の。
「はい。よろしくお願いします」
師匠は目を見開いたまま固まった。だから私は師匠に抱きついた。これも以前の仕返しだ。仕返しだから恥ずかしくない。
この二週間の師匠がいない生活。快適だったけど、ふとした瞬間に師匠を探してる自分に気づいちゃった。いつの間にかいないと半身がもげた様な、心に穴が空いた様な妙な喪失感があった。まあ、論文書いてる間は大丈夫だったんだけどね。
師匠は私を抱きしめて立ち上がり、抱えたままグルグルと回った。
「やったー! 嬉しい!」
師匠は立ち止まった。
「ありがと。大好き。バネッサだけが好き」
そう言って私の首に顔を寄せた。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
師匠が甘えたような声を出すからドキッとした。まるで師匠じゃないみたい。
「『師匠』じゃなくて名前で呼んで。リウって呼ばれたい」
そこ?確かに名前が長くて選択肢が色々あるけど。何かこだわりがあるのかな? まあ、なんでもいいけど。
「リウ」
師匠は初めて見るような満たされた顔で笑った。
「バネッサだけの僕の呼び名だから、二人きりの時にだけそう呼んでほしい。他の人に知られたくない」
「分かりました」
「敬語もなしがいい」
「分かったわ。他にも何かある?」
「僕がいなかった間のバネッサのことを知りたい」
バーソロミューの家での生活が快適すぎること、蔵書が凄すぎること、研究テーマをいくつか思いついたこと。
研究テーマの話になった途端に甘い雰囲気は消えてなくなった。私は今関連図書を集めに王立図書館に来ている。あれ? 婚約に関する話し合い、忘れてない? まあ、急がなくっていっか。
完