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三つの魔法と螺旋の星屑  作者: 長尾 驢
第2章「エリスの魔法」
26/74

25話「モノクローム」

 どんよりとした空気に包まれた森に、一年ぶりに足を踏み入れる。

 ここは謎の怪物との戦闘が起き、ヒノビが失踪した因縁の場所だ。森を覆う蔦は相も変わらず道を阻み、歩くたびに足に絡みついてくる。かつての記憶が目の前の風景と重なり、三人の中に微かな緊張感を呼び起こしていた。

 一年という歳月は短いようでいて、彼らに確かな変化をもたらしていた。

 エリスは女性らしい落ち着きをまとい、ロイスはどこか大人びた聡明さを感じさせるようになった。そしてオークスは、以前よりも柔和で、どことなく可愛らしい雰囲気を醸し出している。

 背負うリュックも、かつては自分たちの体より大きく見えたものが、今ではちょうどよいサイズに感じられる。少年少女であることに変わりはないが、その足取りは以前よりも少しだけ自信に満ちていた。

 森の中で慎重に進む中、最初に口を開いたのは先頭を歩くロイスだった。

「エリス、魔法を使うときって、どんな感じだった?」

 彼は振り返りざまに好奇心を隠さず問いかける。

 エリスはその視線に気づくと、気怠げな表情を浮かべた。

「うーん……力が抜けていく感覚があったような気がしますわ。でも、あの時のことは正直ほとんど覚えていないんですの」

 首をひねりながら記憶を掘り起こそうとするが、頭に浮かぶのは燃え盛る炎の光景ばかりだった。

「すごい魔法だったよ、エリスの炎魔法。なんていうか……悪魔が襲ってきたみたいな感じだった」

 最後尾を歩いていたオークスが、その時の印象を正直に口にする。

「オークス、それは褒め言葉ではないですわよ」

 エリスは少しむっとしながらも、オークスの意図を察して目を細めた。

「でも正直、エリスに先を越されるのは悔しいな。俺だって魔法を使ってみたいよ」

 ロイスは腕を前に突き出し、力を込めてみる。しかし当然ながら、その腕先には何の変化も起きない。

「はぁ……やっぱりできない……」

「私もあれから何度か練習しているんですが、まだ何も掴めていませんわね」

 エリスは肩をすくめ、ため息をつく。その仕草に、ロイスは驚きの表情を浮かべた。

「えっ、エリス、この道中でこっそり練習してたの?」

「そうですわ。歩きながらでもそれくらいはできますもの」

 胸を張り、誇らしげに鼻を鳴らすエリスに、ロイスは少し呆れたように笑った。

「でも、魔法の発動条件ってあるのかもしれないよ。学校の先生も、杖を持ってるときにしか魔法を使ってなかった気がするし」

「え、そうなの? 知らなかった……」

 ロイスの言葉にエリスが興味を示したが、発動条件については学校でも具体的に教えられていない。まだ魔法の仕組みが確立されていないため、教師たちも確かな知識を持っていないのだろう。

「でも私、あの時は杖も指輪も持っていませんでしたわ」

 エリスが思い返すのは、あの爆発の瞬間――――素手で発動した記憶だけだ。

「物は試しだ。今、杖を持ってやってみたらどうだ?」

 ロイスの提案に、エリスは軽く頷いた。

 彼女はリュックから黒い箱を取り出し、その中の漆黒の杖をそっと手にした。光を受けて艶めくその杖は、まるでエリスの手に馴染むようだった。

「さて……やってみますわ」

 エリスは杖を前に突き出し、かすかな記憶を頼りに集中した。

 ――――しかし、何も起きなかった。

「……やっぱり何も起きませんわ」

 杖を下ろしたエリスの肩が小さく落ちる。

「エリス、気にしなくて大丈夫だよ」

 オークスがそっと彼女の頭を撫でて優しく励ました。

「どうにかエリスの魔法の発動条件だけでも突き止められれば、結構な進展になるんだけどなぁ」

 ロイスは小首をかしげ、分厚いレンズの入った眼鏡を押し上げた。

「悔しいですわね。ロイス、なんでも協力するので、可能性がありそうなこと全部試しますわよ」

 エリスのやる気に満ちた声に、ロイスはにたりと不敵な笑みを浮かべて「よし!」と意気込んだ。

 オークスはそんな二人のやり取りをほほえましく見つつ、リュックから水筒を取り出した。汗ばむ額を袖で拭ったとき、不意に寒気が背筋を這い上がる。

 ――――足元から聞こえた微かな「ジュワッ」という音が、異変の始まりだった。

視線を下ろしたオークスの目に映ったのは、地面の草や土の隙間から染み出してくる赤黒い液体だった。それは濃密で粘り気があり、油のように光を反射している。液体は生き物のように蠢き、まるで彼の存在に反応するように足元にまとわりついた。

「う、うわっ……!」

 オークスが思わず後ずさると、液体は逆に勢いを増し、蛇のように絡みついてくる。その動きは不気味なほど滑らかで、冷たく湿った感触が靴越しに伝わった。

次の瞬間、液体は突如として膨れ上がり、無数の触手のような形状を成すと、一気にオークスの脚に巻き付いた。

「エリス! ロイス! 逃げて!」

 彼は全身に走る異様な冷たさに震えながら叫んだ。その声は切迫しており、普段の穏やかな彼とはかけ離れていた。

 自分に何が起こっているのか全く分からないながらも、オークスは二人の安全を確保しようと必死に叫んだ。

 それに即座に反応したロイスは、エリスの腕を引っ張ると、全力でその場から逃げ出した。

「オークス! どうしたんだ……って、どうしてそこで止まってるんだ? オークスも逃げろよ!」

 どういうわけか一緒に逃げてこようとしないオークスに声をかける。

 ロイスが振り返ると、オークスはその場に留まったまま何かに耐えるように立ち尽くしている。

「これが見えないの!?」

 自分を中心として、全方位から謎の液体が集まり、自らの体を現在進行形で蝕んでいる。

 しかし、それはロイスには視認できていない。エリスも同様のようで、必死に辺りを見回し異常を見つけようとしているが、周りにそれらしきものは発見できない。

「……何が見えてるんだ?」

 彼の驚愕と焦燥に歪んだ顔がロイスをさらに困惑させる。

 辺りを見回してみても特に異常はない。

 木があり、蔦があり、木漏れ日が彼らを照らし、蒸し暑い空気が肌を刺激している。ただそれだけだ。

 ロイスには見えていないが、自分だけには見えているものがあると悟る。

「うぐっ……ゴホッ!ゴホッ!」

 足先から徐々に浸食が進行し、ついには顔に到達した赤黒い液体。その一部が口内へと侵入すると、体内を冷たい感覚が走り、肺が拒絶反応を起こして咳き込む音が響いた。

 咳き込むたびに粘液が気道を覆い、呼吸がどんどん困難になっていく。彼の顔は蒼白になり、額には冷や汗が滲んでいた。

 オークスは何とか体を振って液体を振り払おうとしたが、それは無情にもさらに彼を締め付け、腕を体に押し付けるように固定した。指先はピクリとも動かず、唯一動かせるのは目だけだった。

「おい! オークス! どうしたらいい!?」

 あまりに唐突な出来事にまだ状況の呑み込めていない三人は、焦りも合わさって正常な思考ができていなかった。

 ロイスの声に応えようとするも、オークスは肺に入った液体のせいでまともに話すことができない。

「ごぼっ……」

 オークスの視界は次第に狭まり、鼓動が耳元で鈍く響いていた。液体に覆われた体は冷え切り、意識が薄れていく感覚を彼ははっきりと感じていた――――。

 エリスの悲鳴が森に響く。「オークス!」と叫ぶその声は、しかしオークスには届いていない。赤黒い液体が彼の身体を完全に覆い尽くし、その動きを封じ込めた。

 ロイスは焦燥の表情を浮かべながら、必死に助ける方法を探そうと辺りを見渡した。しかし、その目には何も異常が映らない。オークスの叫びが耳に焼き付いている。

「エリス、何とかしてオークスを助けないと!」

「分かってますわ! でも、どうすれば……」

 エリスは懸命に頭を働かせた。魔法の力を引き出そうと、杖を握りしめて集中を試みるが、やはり何も起きない。焦燥と無力感が彼女を包む中、オークスの表情はだんだんと青白く、呼吸が止まっている光景を見て、さらに彼女の心を締め付けた。

「何か、何かあるはずですわ……」

 エリスの手が震える。無情にも彼女にはオークスを助けられる手立てがなかった。

 それはロイスも同様だが、彼は、どうにか異常からオークスを助け出すために彼の体を引っ張っている。だが、びくともしない。謎の力によってその場に固定され、指の一本すら動かすことができない状態だ。

「くそっ! どうなってるんだよ!」

 ロイスは拳を固め、オークスの胸を何度も強く叩いた。その小さな拳に宿る力は微々たるものでしかない。けれども、彼の中にまだ残る命の火を必死に灯そうとするような必死さがあった。

 みるみるうちに、オークスの顔から血の気が引いていく。まるで彫像のように白く冷たいその顔――――唇は青紫色に染まり、瞼は重く閉ざされたままだった。

「目を開けろ、オークス! 頼むから!」

 ロイスは叫びながら叩き続けた。息が詰まりそうな焦りが彼の全身を包み、耳鳴りすら感じる。

 ――――そのとき、不意に。

 ぷつん、と何かが切れる音がした。ロイスはその音を聞いた瞬間、全身の力が抜けそうになった。まるで希望の糸すら途切れたような感覚――――。

 だが、次の瞬間、オークスの体を覆っていた謎の液体が、突然固まりはじめ、ヒビが入ったかと思うとバラバラと崩れるようにして地面へと崩れていく。

 オークスの体がふっと力を失い、重力に引かれるままに地面へと倒れ込む。

「おい、オークス! 大丈夫か!? 聞こえてるのか!」

 ロイスは震える手で彼の肩を揺さぶった。だが、返ってくる反応はない。

 ――――と思われた、そのとき。

「ゴホッ……ゴホッ! ゲホゲホッ!」

 オークスの喉奥から激しい音が漏れ出した。彼は体を丸めながら、まるで肺の底から何かを押し出すように吐き続けた。黒ずんだ粘液が口から吐き出され、地面に濁った模様を作る。

「よかった……生きてる!」

 ロイスの声が、わずかに震えていた。

 オークスは全身を震わせながら、ようやく空気を吸い込む。苦しげな音が森に響き、彼の胸が荒々しく上下する。

「はぁ……はぁ……」

 次第に呼吸が落ち着いていくと、オークスはゆっくりと瞼を開けた。

 その瞳に映るのは――――色のない、白く濁った世界だった。オークスの虹彩は完全に色を失い、まるで霧に覆われたような白色が広がっている。

「あれ……僕、は、生きてる……のか?」

 掠れた声が、まるで彼自身にも信じられないかのように漏れる。

「オークス……よかったですわ……本当に……」

 エリスは膝をつき、震える手で彼の顔をそっと触れた。彼女の瞳には涙が溜まり、安堵と疲労が入り混じった表情を浮かべている。

 しかし、オークスの白く変わり果てた瞳に、エリスもロイスも気付き始めていた。

「オークス……その目……」

 ロイスの声は震え、どこか怯えた響きが混じっていた。彼の視線はオークスの瞳に釘付けになっている。その色を失った瞳に、彼は言葉を飲み込みそうになりながら小さく尋ねた。

 オークスはロイスの反応に眉をひそめ、問い返そうと口を開きかけた――――そのとき。

 彼の髪が、まるで溶けるように黒い色を失い始めた。滑らかな黒髪にあった艶はどこかに消え去り、灰色がじわりと広がっていく。まるで彼の体から生命そのものが染み出ていくような、不吉な変化だった。

「あっ……オークスの髪の毛が……」

 エリスの声は悲鳴に近い。彼女の視線は、オークスの頭部を指差しながら揺れていた。

「僕の髪が……どうしたの?」

 オークスは眉間にしわを寄せ、エリスの視線の先を辿ろうとする。だが、彼には自分の髪の毛がどうなっているのか確認する手段がない。それどころか、何かがおかしいと感じる感覚が全身に広がっていた。

「あれ、目が……」

 オークスの表情が急に強ばる。手を伸ばして周囲をまさぐるように視線を動かした。

 彼が気付いたのは、自分の視界がまるで霧のかかったように変わり果てていることだった。どれだけ目を凝らしても、世界は白、灰色、黒――――その三色しか映し出されない。色彩の存在が、まるで世界から消え去ったようだった。

 オークスはしばらくの間、戸惑いの中で呆然と周囲を見渡した。自分の目に起きた異変を理解しようとしているかのようだった。

「どうしたんだ。何があったんだよ!」

 ロイスが彼の肩を掴み、揺さぶるように問い詰める。声には焦りと苛立ちが混じっていた。

「わからない……。地面から赤黒い液体が這い出してきたと思ったんだ。それが急に僕の体を這い上がってきて――――」

 オークスは記憶を辿るように語るが、その声は徐々に弱々しくなっていく。思い出すほどに、液体が自分の体に与えた感覚が蘇るのだろう。

 それは冷たく、けれども粘り気のある液体だった。体を這い回るその感触は、皮膚だけでなく筋肉や血管、骨の中にまで染み込んでいくようだった。そして、体中の温もりが液体に奪い去られていく感覚――――それがどれほど恐ろしいものだったか。

「そいつは……どこに行ったんだ?」

 ロイスが辺りを見渡すが、地面にはただ赤黒い跡が残るだけだった。液体の本体は既にどこかへ消え去っていた。

 オークスの視界に映る赤黒い跡は、彼にとってただの灰色の模様にしか見えない。それが彼をさらに不安にさせた。

 オークスは目の前の灰色の世界に視線をさまよわせた。色のない光景に、どこか現実味を失った気がした。しかし、肩を掴むロイスの力強さや、エリスの微かな嗚咽は紛れもなく現実のものだった。

「どこに行ったのかはわからないよ……だけど、確かに僕の中に入り込んできたんだ。何か……意志を持って」

 オークスの声は震え、言葉の端々が掠れていく。彼自身も今の状況に対する説明が追いつかないのだろう。

 エリスが震える声で口を開く。

「オークス、痛くないんですの? どこか苦しいとか――――ない?」

 その問いかけに、オークスは小さく首を横に振った。

「痛くはない。苦しいわけでもない。ただ、なんだか力が入らなくて、目の前がすごく……遠い感じがするだけだよ。」

 そう言いながら、彼はそっと自分の腕を見下ろした。しかし、視線を向けた先に映るのは色を失った灰色の腕だけだった。それが自分の体の一部だという感覚すら曖昧で、まるで他人の体を眺めているようだった。

 「この跡は二人には見えてるの?」

 オークスは自分が座る地面に目を落としながら尋ねた。その足元には、液体が固まって崩れた際にできたと思われる奇妙な模様が残っていた。それは暗号のように複雑な形状をしており、不気味さを漂わせている。

 ロイスは地面を凝視したが、すぐに首を振った。

「いや、見えない……ただの地面だ。」

 彼はエリスの代わりにもなるべく正確に伝えようと努めた。

 オークスは目の前の模様を再び見つめ、ふと考えついたように近くに落ちていた細い木の枝を拾い上げた。彼は慎重に模様をなぞり始めた。

「これなら――――見えるかもしれない。」

 そう言いながら、彼は自分の見える模様を枝で丁寧に地面に描き写していく。線を描くごとに、見覚えのない文字のような形が浮かび上がり、エリスとロイスもそれを確認できるようになった。

 ロイスはその模様をじっと見つめると、驚きに目を見開いた。

「これ、魔法語の一種だ……」

「魔法語?」

 エリスが怪訝そうに首を傾げた。

 ロイスは口元を引き締め、知識を整理するように話し始めた。

「魔法語っていうのはさ、杖とか言葉みたいに、魔法を発動させる手段の一つなんだ。けど、これは文字で描いて魔法を促すっていう手法に使われる言語なんだよ。ただ、特殊で、個人によって形が違うんだ。炎なら炎の魔法語、水なら水の魔法語みたいに区別はあるけど、人の数だけ魔法語は存在すると思ったらいいと思う」

 彼の言葉に、エリスは少し目を見張った。

「でも学校じゃ、そんなの習わなかったわね……」

「そりゃあマイナーなやり方だからな。学校の図書館で偶然見つけた本に書かれてたのを覚えてただけだよ。俺以外じゃあ、誰も読んでなかったんじゃないか?」

 そう言いながらロイスは模様を指差した。

「ただな、魔法語ってのは、基本的に書いた本人にしか読めないんだ。文法や単語、文体、文字の構成なんか全部が違うからな。俺にはこれが魔法語だってことしかわからない――――」

 その時、オークスがぼそりと呟いた。

「でも、ここ……読める気がする。『生物』『血液』『窒息』……」

 その言葉を聞いて、ロイスが目を見開いた。

「オークス!! これが読めるのか!?」

 オークスは戸惑いながら模様を指差した。

「え、いや、完全に読めてるわけじゃないんだ。ただ、単語が……浮かんでくる感じなんだ。ぼんやりと……ほら、ここも――――」

 彼は枝で模様の一部を指し示した。

 エリスがその場所を覗き込んだが、首を傾げるだけだった。

「見えませんわ……『へ』と『ひ』と『な』が合わさったようにしか見えないですわね」

「これ、オークスの目から色がなくなったことにも関係してるんじゃ……あぁ、でも、まだ情報が足りなさすぎる」

 ロイスは眉間にしわを寄せながら頭を乱雑にかきむしり、その場に立ち上がった。そして、深く息を吐き出しながら言葉を続ける。

「とにかく先生に診てもらおう。あの人なら、何か知っているかもしれない」

 その言葉にエリスが頷き、オークスにも視線を向ける。彼女の目には、オークスの様子を心配する色が強く宿っていた。

「もう一度聞きますけど、本当に体は大丈夫なんですの?」

 エリスは慎重に言葉を選びながら尋ねる。

 オークスは少しだけぎこちなく体を動かし、自分の状態を確認するように手足を軽く振ってみせた。

「うん、どこも異常はないよ。大丈夫」

 彼は力強く答え、安心させるように微笑む。それでもエリスの心配そうな視線は完全には消えなかった。

 ロイスが再び口を開く。

「よし、なら決まりだ。ダイネの街に戻るぞ。先生がこの異常を解き明かしてくれるのを信じるしかない」

 彼は空を見上げ、すでに傾きかけた太陽を一瞥した。時間はまだあるが、できるだけ街に近づいておかなければ野宿する回数が増えてしまう。

 エリスが最後にもう一度オークスを見つめ、彼の表情から強がりの色がないことを確認してから、ようやく歩き出した。

「じゃあ、行きますわよ。何が起こるかわかりませんし、気をつけてくださいましね」

 三人は再び進路を整え、ダイネの街へと足を向けた――――静かな森の中で、なおざわめく小さな違和感を胸に抱えながら。

 その途中、オークスはふと立ち止まり、周囲を見回した。視界は、すべてがモノクロームに染まった世界だった。木々の葉はすべて灰色で、空は重くのしかかるような暗い白。日差しさえ、色を失いただの「明るさ」として認識されるだけだった。

「やっぱり……変だね。今まで色があった世界だったから」

 オークスが呟いた声は、少しだけ震えていた。

「色が見えないって、そんなに違和感があるのか?」

 ロイスが振り返りながら問いかけると、オークスは首を振った。

「ううん、それだけじゃないんだ……。なんていうか……ただのモノクロじゃない」

 彼は歩きながら視線を地面に落とし、改めて周囲を観察する。地面の岩の表面や木々の幹に、微妙な線や模様が浮かび上がっているのがわかった。それらは肉眼では捉えられないほどの細い線や複雑な模様を描き、まるで「何か」を伝えようとしているように見える。

「例えば、あの木」

 オークスは近くの大きな木を指さした。その幹には、くすんだ灰色の葉と同じく、ただのモノクロームの模様が広がっているように見えた。だがオークスには、幹全体に細かい渦や線が流れるように描かれているのがわかった。

「模様が……動いてる?」

 エリスが困惑したようにオークスの視線を追いかけるが、彼女にはただの木としか見えない。

「二人には見えないんだね。動いてるっていうか……脈打ってるみたいな感じがする」

 オークスがさらに観察を続けると、模様は次第に「音」としても感じられるようになった。それは耳で聞く音ではなく、体に響くような不思議な振動だった。木々や地面、空間そのものが、何かのリズムで脈打っているように感じられた。

「これ……なんなんだろう……?」

 オークスは混乱と興味が入り混じった表情を浮かべた。

 ロイスが軽く頭をかきながら答える。

「何かの魔法の影響なんじゃないか? 魔法語が読めるようになったのも、それが関係してる気がする。」

「確かに……。でも、こんなの初めてだし、まだどう捉えればいいかわからない」

 彼らは再び歩き出したが、オークスにとってモノクロームの世界は、これまでとまったく異なる意味を持ち始めていた。世界が色を失ったことで、新たな情報が浮かび上がり、彼にしか見えない「何か」を語りかけているようだった。

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