10話「移動2日目~アンブルグまでの道中4~」
正面に見える謎の怪物。見た目とは裏腹に好戦的かつ狡猾な性格。しっぽの攻撃は少なくともヒノビの認知できる反応速度を超えている。巨体から放たれる下位生物への強烈なプレッシャー。鱗と体毛の両方が存在していることへの不気味さ。ヒノビの全力疾走以上のスピード。
視覚から得られる情報と数分前に体験したことから得た情報を今一度頭の中で整理し、撃退案を考える。が、正直撃退できるのか非常に怪しい。
巨木の樹冠を抜け、彼奴の全貌が見えた。相手も同様に、こちらの姿は目に入っているだろう。
「ふぅ……」
ヒノビは一息つき、肩の力を抜いた。
自分でもここまで緊張する相手と出会ったことに驚いている。
人間対炎狐族であれば負けることはない。それは生物的に格上の――――強者ゆえに感じる余裕。生まれてから今までで、人間との対決は幾度となく行ってきたが、劣勢だと感じたことはない。
だがどうだろう。今のこの気持ちは、勝ち筋の見えない相手に正面から勝負を仕掛けるのだ。それがどれだけ無謀な考えなのか、今までヒノビに対決を申し込んできた人間の感情をようやく理解できた気がする。
乗り越えることのできない壁を前にして、なおも突き進もうとしているのだ。
ヒノビのとってこの一戦は彼女自身を大きく成長させうる勝負だろう。だがそれ相応―――否、それ以上のリスクを背負っている。
「先生にこの一件のことはしっかり報告しなくちゃね」
緊張している自分を鼻で笑い、鋭い眼光を怪物に浴びせると同時に彼女は走り出した。ヒノビと怪物との距離はおよそ150m。地の利は丘の上にいる怪物に傾いている。
彼女が走り出すのと同時に、怪物もその体躯をヒノビの方へと転回。
両者がにらみ合いながら自身の間合いを詰めていく。
先に攻撃に転じたのは怪物の方だった。
「グゴアァァァ!!」
大きく口を開け、咆哮を放つ。
耳を劈くような音圧と重くのしかかる音によるプレッシャー。ヒノビはそれを正面から受けるが、覚悟の決まった彼女には一切効いている様子はない。
彼女と怪物との距離が50mほどに差し掛かる。ここからは怪物のしっぽの射程圏内になるため、より一層ヤツの全ての行動に注意して自分の対応をコンマ一秒でも早くし、正確な対応しなければならない。
案の定、地の利と尻尾のリーチを活かして鞭のようにしならせたしっぽの攻撃がヒノビを襲う。
それを読んでいたヒノビは大きく跳躍することでそれを回避。軌道は読めないもののタイミングがつかめればこの攻撃を避けることはたやすい。問題は次の攻撃だ。
大きく空中に飛べば、逃げ道がなくなる。また、この回避方法を学習されれば、しっぽの攻撃パターンとバリエーションが増え、避けにくくなる。短期決戦必須の、ほぼ一度きりの回避。
ヒノビは空中で短剣を抜き、怪物の目をめがけて振り投げた。
その攻撃を怪物は攻撃して伸びたしっぽを戻しながら弾く。極太な尻尾で短剣を弾くために視界を覆った怪物は、一瞬ヒノビの姿を見失う。
その間にヒノビは着地をし、怪物との距離を詰め、ヤツの死角となる胴体の下へと潜り込み、彼女の魔法の射程圏内へと強引に入り込ませる。
「私も生物相手にこの魔法を使ったことがないけど、怪物相手なら問題ないよね!」
構えた右手から徐々に大きく膨れ上がる炎の渦。次第に丸みを帯び始め、ヒノビの一声と共にそれは放たれた。
「はっ!」
手から放たれた炎塊は怪物の腹を直撃、短く声を出して悶える。
怪物にとっても思いもよらない攻撃に、ヒノビの攻撃への対応が遅れた。それは油断故の遅延か、はたまた相手の手の内を把握するための挑発か――――。
放った直後にヒノビはその場からできるだけ遠くへ走り出す。自分の魔法による被害がない距離まで逃げなければならないからだ。
しっぽに弾かれた短剣の方向へと逃げ、次の攻撃の機会と攻撃方法を模索する。
彼女の魔法の特徴は攻撃された後に二度目の魔法が発動すること。一度目は低レベルな威力しか持たないものの、着弾後にその魔法は化け、巨大な炎の竜巻へと変貌する。その殺傷能力は実際に生物に対して撃ったことのないヒノビには未知数だった。
だが、もし怪物がトカゲに近い変温動物ならば、急激な温度変化と体温変化は弱点となりうるだろう。
緊張と期待に汗を光らせながら、ヒノビは全力で走っている。彼女がおよそ十歩進んだ後に、短剣を回収。その直後、後方から爆発音と共に爆風がヒノビの背中を押した。
しっぽの一閃による爆風に比べればそれほど吹き飛ばされはしない。
片膝をついて軽く息を整え、肉の焼けたにおいと怪物の腹部から立ち上る黒煙を睨み、怪物にどれだけのダメージが入ったのかを確認する。
今回の護衛では隣町までの護送ということだったため、かなりの軽装備で人についている。それは周辺にこれだけの怪物が存在していない、比較的安全な道中だと判断したためだ。また、軽装備であれば動きやすく疲れにくい。
そのため、今回のような規格外の相手をすることを想定していない。
彼女の攻撃手段は短剣と魔法の二択。RPGのボスに初期装備で挑んでいるようなもの。それゆえに、ヒノビにとってこの魔法はそう軽々しく放つことのできない、いわば必殺技のような存在となっている。
これが相手に見切られることがあれば、怪物の鱗すら貫通できるのか疑わしい短剣でのみの戦闘となってしまう。
「あいつに大きな傷を負わせられる手段を持っているとなれば、魔法を警戒して近づいてこないはず」
目的はあくまでも撃退。討伐は端から考えていない。考えたところでどうやっても今の装備では勝てない。
手札を開示することに抵抗はあるものの、それで逃げてくれればこちらの勝利なのだ。もしくは、ヒノビたちが逃げても追ってくることができない状態にすれば上出来だろう。
どちらにせよ、ヒノビは全力を出して怪物の相手をしなければ、やられてしまうことには違いない。
ヒノビの魔法が怪物への決定打となりえるものだと話が早いが――――。
「はあ……」
動向を眺めていたヒノビは大きくため息をついた。その視線の先には特に目立った傷の見えない、どこかにたりと笑った表情を浮かべている怪物と目が合った。
現実はそう上手くいかなかった。傷一つついていない体をのそのそとゆっくりこちらへ近づけている。
「全力だったんだけどなぁ」
くじけそうになる心を奮い立たせ、相対する怪物に再度特攻を仕掛ける。
「次は眼を狙って、視力を奪えば時間稼ぎはできるはず」
厄介な尻尾の攻撃範囲をいち早く突破し、ヤツの体付近に近づかなければ蹂躙されかねない。
再び始まった怪物との間合い詰め。先ほど同様にいかないのが、しっぽでの攻撃がどの方向から繰り出されるのか。
次ヒノビが飛んで避けるとそれに対応した追撃が繰り出される可能性が高い。
もう少し戦いやすい相手だったらとないものねだりをしてもしょうがない。今は攻撃のタイミングを読んで、適当に避けるのみ。
再び繰り出されたしっぽ攻撃は、非常に正直な軌道を描いてヒノビを襲った。
それは、ヒノビの頭上からの振り下ろしの攻撃。今までの薙ぐ攻撃とは違い、一度頭上へ振り上げた後に下ろすため、攻撃が届くまでの時間が増加。
ヒノビには好都合な攻撃だった。コンマ一秒ほどの時間が増加したことで、その攻撃を見切ることは容易だったからだ。
瞬間的に太ももに力を入れ、前傾姿勢のまま前に跳んだ。そのまま怪物のあごの下まで体を潜り込ませると、短剣を胸の前に立て、再び太ももに力を入れて次は頭上へ思いっきり跳んだ。
構えた短剣を突き出し、漆黒のうろこへ突き立てる。
ガキンッと金属同士がぶつかり合う音が響くと同時に、怪物の顔は大きくのけぞる形で弾き飛ばされ、脳を揺らすには十分すぎる衝撃を与えた。
怪物のしっぽが力なく垂れ、顔も同様にだらりと力が抜けている。
「ラッキーなことも起こるのね!」
好機ととらえたヒノビはすかさず怪物の眼を狙い、短剣を振り下ろした。
「グギャァアア!」
悲痛な叫びと共に眼球からは紫色の液体が垂れる。
「もう片方も!」
回り込んだヒノビはすかさずもう片方の眼にも短剣を振り下ろす。
二度にわたる弱点への攻撃に、怪物も力の入っていないだらしないしっぽを無造作に動かして、反撃をする。
狙いの定まっていない攻撃はヒノビにあたるはずもない。力の入っていないしっぽの攻撃はその持ち前のスピードを発揮できず、容易に見切れるからだ。
「これなら、子供たちを連れて逃げることができる――――はず」
一抹の不安は残っているものの、すかさず子供たちの方へ駆け出し、怪物を後にする。
怪物がどこまでヒノビの想像を超える怪物なのかはわからない。尋常じゃない速度で回復するかもしれないし、視力がなくても追いついてくる可能性もある。だが少なくとも、三人を抱えて逃げるだけの時間は稼げているはずだ。それだけの体力も残っている。
撃退という結果は得られなかったが、それでも運は味方してくれていたようだ。
巨大な幹をたどり、子供たちのもとへたどり着く。
「ただいま!」
「おかえり―――なさい!?」
「きゃあ! なんですの!?」
「おわっ!」
「とにかく今は逃げるから、三人ともをまた抱えることになるけど、ごめんね」
到着と同時に軽い挨拶をすると同時に、三人とリュック後と抱え込んで再び走り始める。正しくは二人を抱えこみ、一人はショルダーハーネスに腕を通してリュックと板挟みにして背負う要領で固定した。
木と蔦が生い茂り、足元にも蔦が張っている森の中を縫うようにして走る。少しでも注意を欠くことがあれば、誰かが蔦の餌食になる。だが戦闘時の集中力が継続しているヒノビにとってはその心配はなさそうだ。
ヒノビは、子供たちを背負いながら必死に走る。心臓が太鼓を叩くように高鳴り、肺は火で焼かれるように熱かった。汗が、視界をぼやけさせる。
うっとおしくなるほどの湿った空気の中、一定の呼吸でジグザグに疾走する彼女はまさに電光のよう。ぐんぐんと怪物との距離は離れていくが、ヒノビの心にはいまだにぬぐい切れない不安があった。
森の中は、葉っぱがサササと音を立てる音だけが響き、その静寂が異様に感じられた。まるで、死んだような静けさだ。虫の声も一切なくなり、動物たちもどこかへ行ってしまったようでヒノビの荒い呼吸と軽快な足音のみが辺りに響いている。それゆえに、危険を察知する方法が限られてしまった。
普段ならば環境が危険を知らせてくれる。鳴いていた虫が突然鳴き止むことや動物が一目散に走りだす、鳥が一斉に羽ばたいて飛んでいく、風や空気の流れが変わるなど様々な要因を五感を使って収集し、判断する。
しかし現状は動物に頼ることはできず、空気と音による自己判断を強いられている。
「はぁ、はぁ、はぁ」
怪物はどうしているのだろうか?私を追ってきているのだろうか?その場で暴れまわっているのだろうか?作戦を練って巧妙に行動しているのだろうか?
姿の見えない存在こそ恐ろしいものはない。自身の認知の外にいるのだからどれだけ警戒したとしても襲われれば、対応はわずかに遅れてしまう。そのわずかな時間が命取りになる相手ならなおさらその存在は自分の認知できる範囲に入れつつ逃げたいものだ。
「っ!?」
わずかだが自分の体のバランスが崩れたのを感じたヒノビは、表情をこわばらせた。
今まで一定だった足の蹴り出しと着地のタイミングがわずかにずれた。
右足を地面に足をつき、左足で体重を前に移動し、右足に力を込めて地面を蹴る。一連の動作を繰り返しているヒノビには些細な変化だったかもしれないが、研ぎ澄まされた感覚の中でのその差異は、彼女の不安を顕現させるものが動き出しているという証拠だった。
「怪物が動き出した! それも、こっちに向かって走ってきてる! オークス君、後ろの様子は見られそう?」
ヒノビの背中とリュックに挟まれているオークスは、身をよじりながら背後に顔を向ける。
「す、砂埃が近づいてきてます!」
「距離はどれくらい?」
「え、えーっと、きょ、教室から大通りに出るときの道くらいです!」
「てことは300m位ね」
一番身近で、ヒノビも知っているであろう例えで怪物との距離を伝える。
具体的な数字を想像し、怪物との距離がかなり近いことに気づく。ヤツの視界を奪ってから三人を連れて逃げるまでに多くの時間を割いた覚えはないが、それだけ回復が早かったのかほかにヒノビたちを追跡する方法があるのかは定かではない。
地響きが次第に近くなるのを感じ、焦りの表情が濃くなっていくヒノビ。三人を抱えて走っていることから、いつものスピードが出ないためどうやっても振り切ることができそうにないこの状況に不安は募る一方。
一番の問題は、子供たちだ。
追いつかれたとして、抗戦することになったとしても、子供たちを守りながらになる。それはヒノビ一人では手に余る。
かといって、今からどこか安全そうな場所に子供たちを移動させることも叶わないだろう。
先生から子供たちの護衛を承った以上、この命に代えてでも彼らを守ることを誓ったが、この状況はまずい。非常にまずい。
「ヒノビさん!!」
そんな煩わしさと憂慮に苛まれ、奥歯をぎりりと擦らせて延々と続く同じ風景をにらんでいたところ、突然耳元でオークスが声を荒げた。
「土煙が消えました!!」
「え?」
予想だにしない報告に一瞬頭が真っ白になる。
どういうことだ? なぜ急に追跡をやめたんだ? 目の前まで迫っていたはずの怪物が突然止まるとは思えない。
思考を巡らせ、ふと気づく。
暗い。
「上からか!!」
ヒノビがその結果に行きつくとほぼ同時に、巨体が木々をへし折りながら落下してくる。
怪物はあと少しの距離を徐々に縮めていくのではなく、跳躍することで一気に距離を縮めて一行に襲いかかる。
落下に気づいたヒノビはとっさに近くの木を足場に、しなりを活かしてその飛距離を伸ばしながら回避を試みる。しかし、その判断は正解だったが、怪物に気づくのが一足遅かったこともあり、かの巨体が地面に着地した衝撃を一行に直撃した。
その衝撃によって周囲の地面が割れ、石礫が木々に被弾する。
「うぐっ」
吹き飛ばされたあとは、子供たち優先で守るため、ヒノビは姿勢を低くし石礫の被弾を最小限に抑える。
ある程度落ち着くと即座に立ち上がり、子供たちが無事かどうかを確認する。
幸い、誰一人として傷を負った人いなかった。
どの生物をも凌駕する脚力と人間と同じような判断力、敵を執拗に追い詰める狡猾さにはヒノビも重く息を吐いた。
「厄介な相手に目を付けられちゃったね」
顔を上げて怪物を見やる。正面には漆黒の鱗と体毛で覆われた巨躯と牙をむき出しにしている口、ヒノビの攻撃によって潰された目が向いている。
「視覚は奪ったはずなのにどうして見えてるんだろうね」
瞼は閉じているが、その顔は確かにヒノビたちを狙っている。
絶体絶命再び。命を握られているという大きなプレッシャー。怪物の行動一つでこの身はバラバラになってしまう。
どの攻撃が繰り出されるとしてもすべてが最悪の結末を迎える。
子供たち三人が横に並び、ヒノビに守られる形で距離をとるために一歩、また一歩と後ずさる。
獲物が逃げようとしているのを感じ取ったのか、怪物はしっぽを怪しく揺らし始めた。
鞭の原理と同じで、先端に向かって細くなっているため、力が太い方から軽い方へ伝わり、先端の最終的な速度は音速を超える。それを怪物が行うことで音速をも超える速度を繰り出せる。
これはヤツが鞭のようにしっぽを使った場合に限る。今までの攻撃の傾向としては、しっぽ全体で薙ぐ攻撃と突きの攻撃。幸いにも力任せな攻撃のみを行っているため、怪物の行動に注視していればその軌道の予想は少なからずできる。完全に読み切ることはまだできないが、予想不可能な攻撃より幾分かマシだろう。
5回ほどしっぽを左右にゆらゆらと揺らし、先端が巨躯の陰に隠れた瞬間、巨木を倒した攻撃、薙ぎの一閃が繰り出される。
ヒノビはその攻撃に対して短剣を振り上げることで、力の方向を上へとずらしていなすことに成功。
攻撃のパターンが少ないために、その対策を考えることはできている。また、ヤツの攻撃に合わせるためのタイミングは野生の勘とでもいうのだろうか、一瞬の殺意を察知して体が勝手に動く。
いなされたしっぽは斜めに木を救い上げ、半分から上をへし折り、空の彼方へと吹き飛ばした。
「今のうち!少しでも走って逃げて!」
掛け声とともに子供たちは、ヒノビの言葉に一瞬顔をゆがませたが、すぐ必死に走り出した。怪物は獲物を見つけたハンターのように、ヒノビだけをじっと見つめていた。
狙いは、子供たちからヒノビへと変わったようだ。
地面を叩きつけるような重低音が響き渡り、大地が震えた。怪物は、ヒノビに向かって突進を開始した。