35 私の幸せ
「準備はいいか、シェイラ」
「もちろんです」
「ちゃんと厚着してるか?」
「大丈夫ですってば」
相変わらず過保護なイーヴの言葉に苦笑して、シェイラは羽織った外套のボタンをしっかりと閉めた。そして、目の前の青い竜の背中に軽やかに飛び乗った。
「しっかり掴まってろよ」
「はぁい。それでは、行ってきます!」
見送りに来てくれたレジスとエルフェに手を振ると、イーヴがふわりと飛び上がった。たてがみに指を絡めて、シェイラはそっと頬ずりをする。この感触は、人の姿をしている時のイーヴの髪とよく似ている。
「帰りは、少し遠回りしてあの島で休んで帰ろうか」
「お花畑の島? それとも湖のある島?」
「どっちでもシェイラの好きな方でいい」
「じゃあ、早く帰れたらお花畑の方で、日が暮れる頃になったら、湖の島に行きたいな。湖面に星が映るところを見たいの」
「前に約束したもんな」
小さく笑って、イーヴはまたぐんとスピードを上げる。
二人が目指す先は、ラグノリア。国の保護魔法はまだ有効だろうけれど、妹のマリエルと話をしたくて里帰りをすることに決めたのだ。
雲を突っ切って、遥か下の方に見えてきたのは懐かしい故郷。離れてからまだほんの1年しか経っていないはずなのに、随分と久しぶりな気がする。
国の中央にある広場には、青い杖を持つマリエルの姿が見えた。聖女の誕生日である今日は、祝いの儀式が行われているはずなのだ。
「シェイラ、大丈夫か? 無理はしなくても」
「平気。イーヴがそばにいてくれたら、私はいつだって安心できるもの」
気遣うようなイーヴの声に首を振って、シェイラは笑う。そばにいてくれるイーヴの存在も、首に刻まれた番いの証も、胸元の鱗も、左腕のバングルも。どれもシェイラを守ってくれる。
「行くぞ」
イーヴの声にうなずくと、竜はまっすぐに広場へと降り立った。突然あらわれた竜に人々がざわめき、その背にシェイラが乗っていることに気づいたマリエルが大きく目を見開くのが見えた。
「……お姉、様?」
「久しぶり、マリエル。元気そうでよかった」
イーヴの背から降りたシェイラは、久しぶりに会う妹に抱きついた。驚きに見開かれていたマリエルの瞳にはみるみるうちに涙が溜まり、頬に流れ落ちる。
「お姉様、無事で……」
「うん。竜族の国で、良くしてもらってるわ」
「わたし、喰われてしまったかと、思って……」
泣きじゃくる妹の背を撫でて、シェイラは大丈夫だと囁く。
「あのね。今日私がここに来たのは、ラグノリアを守る結界について話をしたかったからなの」
「結界に……?」
まだ瞳に涙を溜めたまま怪訝な表情を浮かべるマリエルに、シェイラはうなずく。
この先も生贄として育てられる子供が出ないように、このしきたり自体を無くしてしまいたいとシェイラは考えたのだ。
竜族としてもラグノリアからの花嫁を求めているわけではないし、かつての恩を忘れない竜族は、この先もラグノリアを守ると決めている。
それならば、シェイラがラグノリアに捧げられた最後の花嫁となればいい。
ドレージアに来て初めて、シェイラはラグノリアでの扱いが酷いものであったことを知った。そのことを今更どうこう言うつもりはないけれど、同じような目に遭う子供がこの先出ることは望まないから。
「竜族は、これから先もずっとラグノリアを守るわ。そして、そのために生贄を捧げる必要はないと伝えにきたの」
「生贄が必要ない……。本当に?」
「うん。その証に、これを」
シェイラは、すぐそばでじっと待っているイーヴに近づくと、首元の鱗を一枚取った。青く光る鱗は、シェイラの手のひらよりも大きい。
「竜の、鱗?」
「これまでに捧げられた生贄への感謝を込めて、この鱗を竜族から贈るわ。聖女であるあなたなら分かるでしょう、この鱗にどれほど強力な保護魔法が込められているか」
差し出された鱗を、マリエルは震える手で受け取った。恐る恐る検分するように撫でた彼女は、小さくうなずく。
「確かに、強力な保護魔法を感じるわ。これがあれば、国の結界は今よりずっと安定する」
「きっとマリエルの負担も減るでしょう。だからもう、生贄なんて必要ないの。竜族は、とても心優しい種族よ。人を喰ったりしないし、私のことも大切にしてくれる」
穏やかに微笑むシェイラの表情を見て、マリエルもそれが真実であると理解したのだろう。だけど、その表情はあまり晴れない。
「それなら、お姉様は……戻っては来られないの? 生贄が必要ないというなら、お姉様も」
「私は、ラグノリアには戻らない。これから先も、竜族の国で生きていくわ」
「でも、それじゃあまるでお姉様の代わりにこの保護魔法を手に入れたみたいだわ……そんなのって」
泣き出しそうに顔を歪めるマリエルは、やはり優しい子だ。その優しさを嬉しく思いながら、それでもシェイラは首を振る。
「大丈夫。私は今、すごく幸せだから。元気でね、マリエル。これから先もずっと、あなたたちを見守ってるわ」
最後にぎゅうっと抱きしめて、シェイラはマリエルから離れた。自分と同じ顔をした妹は、今のシェイラと同じくらいに元気そうだ。きっと幸せにやっているのだろう。微かに目立ち始めた彼女のお腹にそっと触れて、シェイラは祈るように目を閉じた。
イーヴみたいに保護魔法を使うことはできないけれど、生まれてくる彼女の子供にありったけの幸せが降り注ぐことを願う。
「ラグノリアに、幸多からんことを」
一年前にこの場でイーヴが言ったのと同じ言葉をつぶやいて、シェイラはくるりと踵を返すとイーヴの背に乗った。
「ありがとう、イーヴ。もう大丈夫」
たてがみに顔を埋めて囁くと、返事をするように小さく鼻を鳴らしたイーヴがふわりと飛び上がった。
聖女の誕生日に竜があらわれ、保護魔法のかかった鱗を与えられる。きっとマリエルは歴史に名を残す聖女になるだろうし、生贄を捧げる習慣も終わらせてくれるだろう。
「お姉様……どうぞ、お元気で」
まっすぐに見上げたマリエルの言葉に手を振ると、それを確認したようにイーヴが更に高度を上げて、妹の姿はあっという間に見えなくなった。
「少し寂しくなったか」
雲を抜けて、ゆっくりと飛びながらイーヴがつぶやく。
マリエルとは生きる時間が変わってしまったから、もう彼女に会うことはないだろう。今はまだ人の時の流れの方が慣れているけれど、そのうちシェイラも竜族と同じ時間感覚で生きるようになる。そうなれば、人間の寿命なんて一瞬だ。
心配しているようなイーヴの声に、シェイラは笑ってたてがみに顔を埋めた。
「ん、少しだけね。でも私にとって大切なのはイーヴだから」
ラグノリアでの心残りはマリエルのことだけだった。両親のことすら思い出さなかった自分が薄情だなとも思うけれど、数えるほどしか顔も見たことのない両親は、シェイラにとってレジスやエルフェよりも他人に近い。
「私の居場所はドレージアだし、イーヴのそばだから」
「そうだな」
「あ、でもね、イーヴの鱗がマリエルの手元にあるのは少し妬けるかな。あの子の幸せを願う気持ちに嘘はないけど、イーヴの身体の一部を渡すと思うとね」
笑いながら、シェイラは少しだけ唇を尖らせてみせる。念入りに保護魔法をかけた鱗を渡すことは、目に見える形で示しておいた方がラグノリアに分かりやすいと、イーヴと相談して決めたことだ。
それでも愛する人の一部を渡すことには、少しだけ不満がある。しかも相手は自分と同じ顔をした妹だから。
拗ねたようなシェイラの声に、イーヴが機嫌良さそうに笑う。
「可愛い嫉妬だな。ラグノリアには鱗の一枚くらいくれてやれ。それ以外の俺の全ては、シェイラのものだろう」
「うん。全部全部、私のものよ」
「そしてシェイラの全ても、俺のものだ。――愛してる、俺の花嫁」
「ふふ、私も愛してる。誰よりも大切な私の旦那様」
たてがみに頬擦りをすると、イーヴがくすぐったそうに笑った。
「よし、花畑を見に行って、そこで夜まで過ごそう。それから湖を見て帰るっていうのはどうだ?」
「素敵! ちゃんと厚着してきてよかった!」
「アルバンが、食事を持たせてくれただろう。今日はシェイラの誕生日だからな、ピクニックでお祝いしよう」
「わ、嬉しい! こんなに幸せな誕生日って、生まれて初めてです」
「誰も来ない秘密の場所だから、二人でゆっくり過ごそうな」
色気をはらんだその声に、シェイラは一瞬で顔を赤くする。
「そ、外でするのはちょっと……」
「誰もそんなこと言ってないけど、シェイラが望むなら仕方ないなぁ。誕生日だしな」
「私も言ってないもん!」
真っ赤な顔で頬をふくらませると、イーヴが声を上げて笑った。それにつられてシェイラもついふきだしてしまう。
くすくすと笑いながら、シェイラは身体全体でイーヴに抱きついた。
「大好き、イーヴ。たくさんの幸せを私に教えてくれて、ありがとう」
「俺の方こそだ。シェイラの優しさに、俺がどれほど救われたか。もう絶対に離さない、俺の唯一」
抱きついているから、イーヴの声が身体全体に響いて染み込んでいく。低く優しいその声に目を細めて、シェイラはぎゅうっとたてがみを握りしめた。
シェイラを背に乗せた青い竜は、二人きりの秘密の場所に向けて、晴れ渡った空を滑るように飛んでいった。




