3 竜と花嫁
「花、嫁……?」
呆然として目を見開くだけのシェイラに代わって声をあげたのは、マリエルだった。
男はシェイラの手を握って、笑みを浮かべる。鋭い目つきが微かに和らぐものの、凄みがあって笑顔のはずなのに怖い。顔立ちは整った部類に入るだろうけれど、冷たく恐ろしい印象の男だ。だけど握られた手は思いがけず温かくて、シェイラは戸惑って視線を揺らすことしかできない。
「花嫁、確かに貰い受けた。竜族は、これからもラグノリアの地を守ろう」
そう言って男はシェイラの手を引く。よろけるように前に出た身体は、勢いあまって男の腕の中に飛び込んでしまう。こんな風に誰かのぬくもりに包まれることなんて初めてで、頬が熱くなる。まるで男の体温がシェイラに移ったかのようだ。
竜族は人の姿をとることも知っていたけれど、生贄としてはきっと竜に喰われるのだと思っていた。男の見た目はシェイラと変わらないようだが、彼が喋るたびに口元から牙のような鋭い歯がちらりと見えて、あの歯に噛まれたら痛そうだなと思う。
「待って、あの……、生贄ではなくて花嫁なのですか?」
マリエルが男に一歩近づいて問う。やはり恐ろしいのだろう、杖を握りしめた手は小刻みに震えている。
「生贄……? いや、彼女は花嫁だ」
そう言って、男は腕の中のシェイラを更に強く抱き寄せた。頬に男のシャツ越しに肌の温もりが触れて、どうすればいいか分からなくなる。
生贄としてここで喰われない代わりに、この男のもとに嫁ぐということなのだろうか。だけど人を喰うという竜族のもとへ行くのなら、喰われるのが多少先になるだけだろう。
昨晩テーブルの上に並んでいたご馳走を思い出し、同じように調理される自分を想像する。シェイラは細くて身体にあまり肉がついていないから、食べてもあまり美味しくなさそうだ。こんなことならもう少し太っておけば良かったかなと思わず小さくため息をつく。
そんなシェイラに気づく様子もなく、男は右手を高く掲げた。指先に青い光が灯り、手を振るとそれは空高く舞い上がって聖女の構築した結界へと吸い込まれていく。
男の放った光によって、結界が更に強化されたのが分かった。
これが竜族の保護魔法かと、シェイラは目を見開いた。
聖女であるマリエルも結界を確認したらしく、ハッとした表情になったあと膝をついて深く頭を下げた。まわりで見守っていた神官らも、同じように頭を下げていく。
きっとこれでラグノリアは安泰だ。あとはシェイラが喰われるだけ。肉が不味いと言って怒られないといいなと思っていると、ふわりと暖かいものに身体を包まれた。
「空は冷える。着ていろ」
「え? あ……」
どうやら、男が羽織っていたマントをシェイラに着せかけてくれたらしい。薄手なのにふんわりと温かいのは、彼の体温の名残だろうか。どうせ喰べてしまうのに、何故こんなに優しくしてくれるのだろう。いつ喰われるのか分からない状況が落ち着かなくて、シェイラはうつむいてマントの前をかき合わせた。
「ラグノリアの民に、幸多からんことを」
男の声と共に、シェイラは強く抱き寄せられた。驚きに小さく悲鳴をあげたものの、次の瞬間には青い竜の背中に乗っていた。
「掴まっていろ」
竜が、ちらりとシェイラを振り返ってそう言う。その声は先程まで目の前にいた男のものと同じで、この竜が彼であることを教えてくれる。
恐る恐るたてがみを掴んだシェイラを確認して、竜はすぅっと浮かんだ。まるで別れを告げろとでも言うように広場を一周したあと、空高く飛び上がって地上がみるみるうちに遠くなる。
「お姉様……!」
微かにマリエルの声が聞こえたような気がして、シェイラは思わず身を乗り出した。
「落ちるぞ」
短く注意されて、シェイラは慌てて身体を引っ込める。遥か下の方に見える青い光は、マリエルの持った杖だろうか。もう会うことのない妹の幸せを祈って、シェイラはそっと胸に手を当てた。
竜はすごい速さでどんどん空高く飛んでいく。振り落とされないように両手でたてがみを掴んでいるものの、乗り心地は案外悪くない。顔に当たる風は冷たく凍えそうなほどだけど、マントに包まれた身体はほっこりと暖かい。
「雲を抜けるから、少し目を閉じていろ」
ちらりと振り返った金の眼が、シェイラを確認するように見つめる。人の姿をしていた時も今も、獲物を狙うかのような冷たい光をしているのに、何故か怖くない。言われた通り目を閉じると、目蓋の裏に二つの月のような金色が残った。
ぶわりといっそう強い風が顔に当たるのを感じて、シェイラは更に強く目を閉じる。だけどそれも一瞬のことで、風が止んだと思ったら、明らかに空気が変わったことに気づく。頬を撫でる空気は柔らかく、先程までの冷たさが嘘のようだ。
「もう、いいぞ」
その声に恐る恐る目を開けたシェイラは、目の前に広がる光景に思わず息をのんだ。
見渡す限りの青空の中、宙に浮かぶ巨大な都市。木々に囲まれた都市の中心部にはいくつもの立派な建物が見えて、そこから時折竜が空に向かって飛び立っていくのが見える。生まれ育ったラグノリア王国よりも遥かに大きなその空中都市に、シェイラは見惚れる。
「すごい……、綺麗」
ため息のような声を漏らすと、竜が微かに笑ったような気がした。
「我が竜族の国、ドレージアへようこそ」
その声は優しくて、まるで歓迎されているかのように思ってしまいそうだ。ふいにこみ上げた涙を吹きつける風のせいにして、シェイラは何度か瞬きを繰り返す。
泣きそうになったことに気づいたのか、竜はシェイラを振り返ると微かに眼を細めた。
「そういえば、名前を聞いてなかったな。俺は、イーヴだ」
「イーヴさん」
思わず復唱するように名前を呼ぶと、竜は鼻息ではふっと小さく笑った。
「イーヴでいい。それで、俺は何と呼べばいい」
「あ、私は……シェイラ、です」
「シェイラか。いい名前だ」
竜が――イーヴが優しい声でそう言う。
名前を褒めてもらったのなんて生まれて初めてで、胸が苦しいほどに嬉しくなる。ほとんど誰にも呼ばれることのなかった名前が、急に大切なものになったような気がした。
今までシェイラの世界は自室の中がほとんど全てで、こんなにも遠くまで広がる景色を見たことがない。
喰われる前にいいものを見せてもらえたなと、シェイラは美しい光景を目に焼きつけるように見つめた。