表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/40

21 彼が想う人

 どれほどの時間が経ったのだろう。

 シェイラは、ぼんやりと顔を上げた。窓の外は薄暗く、ガラスに雨粒が見える。雨が降り始めたようだ。

 ルベリアにタオルを持って行かなくちゃ、と思うのに、身体が動かない。泣きすぎて頭が痛いし、何だかぼうっとする。

 だけど、涙はまだ止まらない。音もなく頬を流れては、服にいくつもの染みを作っていく。

 結局立ち上がることすらできずに座り込んだままだったシェイラの耳に、ドアの開く音が聞こえた。


「シェイラ……!?」

 ヒールの音を響かせて駆け寄ってきたのはルベリアで、座り込んで涙を流すシェイラを見て驚いたように足を止めた。

「どうしたの、シェイラ。何があったの、どうして泣いてるの」

 おろおろとした表情で、ルベリアは長い指で涙を拭ってくれる。そのぬくもりに、こわばっていた身体がようやく少し動き始めた。シェイラは、緩慢な動きで握りしめた写真を差し出す。


「……これ、見たの」

「なぁに、写真?」

 確認するように眉を顰めて写真を見たルベリアは、小さく息をのんだ。その反応に、彼女もこの女性のことを知っているのだと理解する。イーヴに直接聞くのはさすがに無理だけど、ルベリアになら事情を聞くことはできるだろうか。

「この人は、誰?」

「それは」

「知ってるなら教えて、ルベリア。もしかしたらイーヴの……恋人、なのかな」

 きっと知れば傷つくことが分かっているのに、それでも知りたいと思ってしまうことにシェイラは苦い笑みを浮かべる。

 ルベリアはしばらく逡巡するように唇を噛んでいたけれど、やがて決意したような表情で顔を上げた。

「恋人ではないわ。……この子はね、シェイラの前にラグノリアから迎えた花嫁よ」

「え……」

 シェイラは思わず言葉を失う。自分と同じ状況にあった女性。イーヴの花嫁だった女性。

 ドレージアに来てから、シェイラ以外の人間に出会ったことはない。彼女は今、どうしているのだろう。

 痛ましげな表情を浮かべながら、ルベリアはため息をつく。そして写真を取り上げるとシェイラの手を引いた。

「シェイラも、事情を知っておくべきかもね。あたしの知る範囲のことで良ければ説明するから、部屋に戻りましょう。床に座り込んだままする話じゃないわ」

 そう言われて、シェイラは小さくうなずくと立ち上がった。



 部屋に戻ると、ルベリアはソファに座るようにと促す。この部屋の主はシェイラのはずなのに、ルベリアは慣れた手つきでお茶を淹れてくれた。

「さて、何から話せばいいかしらね」

 カップを傾けつつ、ルベリアが考えるように首をかしげる。どんな話がくるのか分からず、シェイラは身構えてしまってお茶を飲む気にもなれない。

「あの子は――ソフィって名前だったかな。イーヴの花嫁として迎えられた子だったの。長い黒髪が印象的な、おとなしい子だったわ。あたしは、そこまで親しくなかったんだけど」

 記憶を辿るように遠い目をしながら、ルベリアはゆっくりと語り始める。


 約六十年前、ラグノリアから迎えた花嫁がソフィだった。花嫁はドレージアを治める三つの一族のいずれかに順番に迎え入れられる。ソフィの時はちょうど青竜の一族が迎える番で、一族の中でも一番適齢期だったイーヴの花嫁となることが決められた。

 ソフィはシェイラと同じように生贄として育てられ、竜に喰われる覚悟でドレージアにやってきた。もちろんイーヴたち竜族にそんなつもりはなく、花嫁として丁重に迎えたのだけど、ソフィはそれを信じなかった。

 いつ喰われるのかと怯え続けた日々にソフィは心を病み、やがて食事も喉を通らなくなった。

 イーヴはそんな彼女を心配して懸命に看病をしたけれど、恐らくはそれすらもソフィにはストレスだったのだろう。枯れ木のようにやせ細ったソフィは、ドレージアに来て一年も経たないうちに亡くなった。


「イーヴはほら、ちょっと見た目が怖いでしょう。優しい人であることを親しい人は知ってるけどね、ソフィが竜族を怖がったのは自分のせいだって責めてしまって。きっと今でも、自分を責め続けてるんだと思うわ」

 ため息をついて、ルベリアはカップに残ったお茶を飲み干した。

「イーヴは、ソフィさんのことを好きだったんだね。きっとまだ忘れられないんだ。だから、私のことを受け入れてくれないんだね。……ようやく理由が分かった」

「シェイラ、それは違うわ。イーヴは確かにソフィのことを忘れてはいないけれど、それはあの子のことが好きだからではないわ。救うことができなかった後悔の念が残っているだけよ」

 慌てたようにルベリアが言うけれど、シェイラは目を閉じて首を振った。涙がまたこみ上げてくるのを堪えて、何度か瞬きを繰り返す。

「前にね、イーヴに聞いたことがあるの。誰か好きな人はいないのって。イーヴは優しいからそんなのいないって言ってくれたけど、一瞬言葉に詰まったのを覚えてる。ソフィさんのことを、思い出してたんじゃないかな」

 自分で言葉にしておきながら、胸が苦しくてたまらない。笑ってみせようと思ったけれど、きっと顔は醜く歪んでいる。

「そんな顔しないで、シェイラ。違うのよ」

 ルベリアが抱きしめてくれて、ソフィのことは違うのだと何度も囁いてくれる。だけど、心配してくれているその優しい声はシェイラの耳を通り過ぎて消えていく。

 だって、それ以外に理由なんて思いつかない。優しいけれど、頑なにシェイラを近づけようとしなかったイーヴ。彼の心の中には今もソフィがいたのだから、当然だ。


 花嫁だから、夫婦だからとイーヴに何度も迫ったのが馬鹿みたいだ。彼にとってシェイラは、最初から対象外だったのに。

 優しいイーヴは、シェイラを傷つけないためにソフィのことは黙っていたのだろう。

 この写真をシェイラが見つけなければ、何も知らずにいられただろうかと、シェイラは唇を噛む。

 だけど知ってしまった以上、イーヴが好きだと無邪気に想いを告げることはもうできない。一緒に眠ることだってできない。


「シェイラ……」

 心配そうな声でルベリアが抱きしめてくれる。その柔らかなぬくもりを感じつつも、シェイラはイーヴのぬくもりを思い出していた。少しだけ体温の高い、筋肉に覆われた大きな身体。ほんの数回しかそうされたことはないけれど、すっぽりと包まれるように抱き寄せられるのが好きだったと今更思う。

 もう一度抱きしめてもらいたい。あの大きくてあたたかな手で、頭を撫でてほしい。少し困ったような顔で、だけど笑ってシェイラを見つめるあの金の瞳に映りたい。一緒に空を飛びたい。あの美しい湖のある島に行って、星が映るのを二人で見ようと約束したのに。

 全てが、もう叶わぬ願い。もう、イーヴに触れることだってできない。

 叫びだしたくなるほど悲しい。だけど、シェイラは笑顔を浮かべてルベリアを見上げた。

「ごめんね、ルベリア。もう大丈夫」

「本当に? ごめんね、ソフィのこと、話さない方が良かった」

「ううん、聞けて良かった。教えてもらわなかったら、もやもやしたままだったもの」

 ルベリアを安心させるように、シェイラは必死に笑顔を保つ。今だけでいい、涙が止まるようにと祈りながら。泣いたらルベリアを心配させてしまう。だから、決して泣いてはならない。

 何も気にしていないという表情を浮かべて、シェイラはルベリアの腕を叩いた。


「あのね、ルベリア。このことは、誰にも言わないでほしいの」

「え?」

「多分、私が聞かされてないってことは、皆が気を使って黙っているのだと思うから。だから、私はこれから先もソフィさんのことは何も知らないことにする」

「でも、シェイラ……」

 心配そうな表情を崩さないルベリアに、シェイラは明るく笑ってみせる。

「ちょっとびっくりして泣いちゃったけど、もう平気。私ね、ドレージアに来てから本当に幸せなの。皆のことが大好きだから、心配かけたくない」

「それはそうかもしれないけど」

「イーヴなんて優しいから、私がソフィさんのことを知ったって気づいたら、すごく気にしてしまいそうでしょう。だから私は今まで通り、何も知らないふりをしようと思うの」

 じっと見つめると、ルベリアはため息をついてうなずいた。

「分かったわ。だけどシェイラ、ソフィとイーヴは本当に何もなかったのよ。それだけは信じて」

「うん、分かってる。だから、私が泣いていたことも秘密にしてね。びっくりして泣いちゃったけど、今はほら、何ともないから」

 必死で浮かべた笑顔に、ルベリアも納得したようだ。分かったとうなずくのを見て、シェイラはこっそりと身体の力を抜いた。


◇◆◇


 ルベリアが帰ったあと、シェイラはふらふらとベッドに倒れ込んだ。もう、ここから動ける気がしない。

 一人になったことで気が緩んだのか、堰を切ったように涙があふれ出した。

 このあと、イーヴとどんな顔をして会えばいいのか分からない。ルベリアには強がってみせたけど、イーヴの前で笑えるわけがない。間違いなく泣いてしまう。そうしたら、優しい彼はきっとシェイラを心配するだろう。

 目を閉じると目蓋の裏に浮かぶのは、イーヴとソフィの姿。振り払おうと強く目を閉じても、その姿は鮮明になるばかり。

 イーヴの隣に誰かがいるところを思い浮かべるだけで、こんなにも胸が痛いのに。彼の心がソフィに向けられていることを考えると、息ができなくなるほどに苦しい。

 こぼれ落ちる涙は全然止まらなくて、このままでは体中の水分がなくなってしまうかもしれない。目元は熱を持っているのに、身体は冷え切っていて手足が冷たい。

 シーツの上で丸くなりながら、ぼんやりとした頭の中でシェイラはイーヴの言葉を思い出していた。

 シェイラは家族のぬくもりを求めていると彼は言ったけれど、こんな気持ちは両親にもマリエルにも抱いたことない。イーヴには自分だけを見ていて欲しかったのだと、シェイラはようやく気づいた。こんなにも醜い独占欲が自分の中にあったことを初めて知る。

 イーヴは、あの優しい瞳でソフィのことも見つめたのだろうか。シェイラだけに許されると思っていたあの大きな手で、ソフィの頭も撫でたのだろうか。

 二人の間には何もなかったとルベリアは言ったけれど、本当のことは分からない。たとえ表面上は何もなかったとしても、イーヴの心は違ったのだ。

 何度となく迫っても、イーヴは決してシェイラに応えてくれなかった。当然だ、彼の心の中にはソフィがいたのだから。

 シェイラは、強く唇を噛んでシーツを握りしめた。そうしていないと、泣き声が漏れてしまう。

 嗚咽に身体を震わせながら、シェイラは声を殺して泣き続けた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ