19 この想いの種類を教えて
あの日から、シェイラは毎晩イーヴの部屋で眠っている。ベッドの上での距離は一向に縮まらないけれど、おやすみのキスだけは毎晩もらっている。額に彼の唇が触れるたび、シェイラはとても満たされた心地になる。
「おやすみ、シェイラ」
だけど優しく触れた唇は、微かな熱を残してあっという間に離れて行ってしまった。もっとしてほしいし、何なら唇にしてくれても構わないのだけど、イーヴにその気はなさそうだ。
こうしてイーヴにおやすみのキスをしてもらうことは嬉しいけれど、彼の対応はどこか義務的なもの。喜んでいるのは自分だけだということを突きつけられて、少しだけ胸が苦しくなる。イーヴにとってシェイラは、いつまでたっても形だけの花嫁のままだ。
「あのね、イーヴ」
できる限り身体を離して横になろうとするイーヴを見つめて唇を噛んだあと、シェイラは身体を起こしてイーヴを見上げた。
「どうした?」
「私もイーヴにおやすみのキスをしてもいいですか?」
「……それは、前に断っただろう。俺は、シェイラに何かをしてもらうつもりはない」
頑なな様子で首を振るイーヴを見て、シェイラは唇を尖らせた。おやすみのキスはイーヴからだけ。いつだって彼は、シェイラとの関係を変えないようにと分かりやすく線引きをする。どう頑張っても飛び越えさせてくれないその一線が、もどかしくてたまらない。
「イーヴは、私に触れられるのが嫌?」
「そんなことは、ないけど」
「じゃあ、どうしてだめなの? もっと触れたいって思ってるのは、私だけなの?」
「どうしてって……それは」
ため息をついてイーヴが髪をかきむしるように頭を抱えた。その横顔がうんざりしているように見えて、シェイラの胸がチクリと痛む。こうして一緒に寝てもらっているのもシェイラの我儘なのに、それ以上を求めてしまうことが嫌になる。自分がこんなにも、欲深かったなんて。
しゅんと落ち込んでもう寝ようと小さく謝罪の言葉を口にしかけた時、イーヴが低い声で名前を呼んだ。
「シェイラ、こっちにおいで」
「え……」
戸惑っていると手を引かれ、シェイラの身体はイーヴの腕の中に包まれた。思いがけないぬくもりに驚いたものの、シェイラはそのまま彼の胸に頬をすり寄せた。イーヴの手はゆっくりとシェイラの頭を撫でていて、この行動の理由は分からないけれど、幸せな気持ちがこみ上げてくる。
「こうするのが好きか」
「うん。あたたかくて、すごく幸せな気持ちになれます」
「そうだな」
小さくうなずいたイーヴは、再び慈しむように髪を撫でながら口を開いた。
「シェイラはきっと、人のぬくもりに飢えてる」
「人のぬくもり?」
「そう。ラグノリアでは、誰とも会うことなく部屋の中でひとりきりで過ごしていたんだろう」
イーヴの言葉に、かつての生活が頭の中によみがえる。狭い部屋でずっと、誰にも会うことなく過ごした日々。どうせ生贄になって別れる日が来るのだからと、顔も見てくれなかった両親。自分の存在をまるで忘れられているかのように感じて、孤独感を覚えたこともある。
ラグノリアにいる時はそれが当たり前だと思っていたけれど、こうして誰かと過ごすことに慣れた今は、思い出すだけで胸が苦しくなる。誰とも会わず、会話もしない日々が、どうして平気だったのだろう。
「……っ」
「悪い、辛いことを思い出させた」
急にこみ上げた涙を堪えるように小さく丸めた身体を、イーヴが優しく抱きしめてくれる。あやすように背中を撫でられて、それだけでこわばっていた身体が少しずつ緩んでいく。
「シェイラが求めているのは、そういうことだ。親からもらうはずだった愛情を、俺に求めている。そこにあるのは恋愛感情ではないんだ、シェイラ」
「恋愛感情じゃない……」
シェイラはぼんやりとその言葉を繰り返す。イーヴのことは好きなのに、それは恋愛感情ではないのだろうか。恋愛小説はたくさん読んできたけれど、恋をしたことのないシェイラには分からない。
「よく分からないけど、イーヴのことを好きな気持ちは本当なの。それじゃだめですか?」
「シェイラが、俺のことを好きだといってくれるのは嬉しく思ってる。だけどシェイラの言う『好き』は、親や家族に対する愛情と同じだ」
断言されて、シェイラはうつむいた。確かに、かつて親から与えられなかった愛情をイーヴに求めているのだと言われたら否定できない。もっと触れたい、触れてほしいと思うこの気持ちも、マリエルみたいに愛されたかったという気持ちのあらわれなのだろうか。
反論することもできなくて、ただ唇を噛むことしかできないシェイラの頭を、イーヴがそっと撫でた。優しいそのぬくもりは、やっぱりシェイラの心を安心させてくれる。
「無理に夫婦ならこうすべきだと、決めつけなくていいんじゃないか」
「……それって、夜の営みをしないっていうこと?」
「そうだな、今の俺たちの関係には、必要ないと思ってる。それがなくても俺はシェイラのことを大切に思ってるし、これから先も変わらない」
「でも」
「大体、シェイラは経験したこともないだろう。性行為というのは、特に最初は女性の側に酷く苦痛を与える行為でもあるんだ。夫婦というところにこだわって、わざわざそんな痛みを経験する必要はないと思う」
「でも、愛があれば乗り越えられるって、本には書いてあったもん」
不満を込めてつぶやくと、イーヴのため息が降ってきた。
「俺は、シェイラに痛い思いはさせたくない。俺の花嫁には、いつだって幸せに笑っていてほしいからな」
頬を膨らませながらも、シェイラは黙ってうなずいた。
こんな時に花嫁だなんて言われてしまったら、もう反論なんてできなくなる。行為をしなくても、イーヴがシェイラのことを花嫁として大切にしてくれているのは、よく分かっているから。
「ほら、笑って」
そう言って優しく頭を撫でられたら、シェイラは嬉しくてすぐに笑顔になってしまう。
心の中で弾けたあたたかいものが全身に巡っていき、じんわりと体温が上がっていくようだ。
嬉しくて幸せでたまらないこの感覚が、恋愛感情なのか親を恋しく思う気持ちからくるものなのか、やっぱりシェイラには分からない。
だけどこのあたたかな手のぬくもりを、シェイラがひとりじめしていることだけは確かだ。
「じゃあ、眠る時に手を繋ぐのは?」
「それなら構わない」
ほらと言って差し出された大きな手を握りしめて、シェイラは笑った。
「うん。あたたかくて幸せ。よく眠れそう」
「それは良かった。おやすみ、シェイラ」
握っていない方の手が、柔らかく頭を撫でてくれる。幸せなぬくもりに包まれて、シェイラは眠りに落ちた。