18 夜のお誘い
入浴を終え、寝支度を済ませたシェイラは鏡の前でひとり気合を入れていた。
「やるわよ、シェイラ。今夜こそは……まず、一緒に寝てもらうことを目標に!」
本当は夜の営みをできたならと思うけれど、焦ってはならない。少しずつ距離を詰めていくのがきっと近道だ。
マリエルに借りた本でも、愛のない結婚だと思っていた二人が距離を縮めて本当の夫婦になる話がたくさんあった。読み返して復習できたら一番いいのだけど、残念ながら私物はすべて処分してきてしまった。今度ルベリアに頼んで、ドレージアで流行っている恋愛小説を買いに連れて行ってもらおうとシェイラは頭の隅にしっかりとメモしておく。
イーヴに好きになってもらうと宣言したものの、二人の間には色々な問題があることは分かっている。およそ三百年近くの年の差に、種族の違い。竜族が人間を恋愛対象として考えているのかすら分からない。
だけど、なんとなくの感覚として竜族は人間の十倍の寿命という感じがするので、恐らくイーヴは人間に換算すると二十代後半から三十代前半といったところだろうか。そのくらいの年の差なら、ありだと思いたい。
長く生きるイーヴにとって、シェイラの寿命はほんのひととき。そのわずかな時間でいいから、自分だけを見てほしい。
薄暗い廊下をランプ片手に歩きながら、シェイラは夕食の時のことを思い返す。
イーヴの食事を作りたいと意気込んでみたものの、料理なんて今までしたことがなかったから、正直なところシェイラが担当したのは飾りつけや材料を混ぜることくらいだった。本当はもっと色々としてみたかったのだけど、野菜を切る手伝いを申し出たら、指先をちょっと刃が掠っただけで顔面蒼白になったアルバンにナイフを取り上げられてしまったのだ。
指先に残る傷を見ながら、シェイラは小さく笑う。イーヴの唇のあたたかさも、柔らかく傷口をなぞった舌の感触も、今でもはっきりと思い出すことができる。あの唇が、もっと他の場所に触れたなら、どんな気持ちになるだろう。
シェイラの下手くそな盛りつけも、イーヴは嬉しいと笑ってくれた。嫌われていることはないと断言できるけれど、かといって愛されているかというとそれは違う気がする。
イーヴがシェイラに向ける優しい表情は、まるで小さな子供を見るようなものだから。
まずは、子供なんかではないことをイーヴにも分かってもらわなければ。
黒い扉の前で、シェイラは前開きの寝衣のボタンをいつもより多めに外した。ルベリアほどではないけれど、シェイラだって結構胸は大きい方だと思う。しっかりと胸の谷間が見えていることを確認してから、シェイラはドアをノックした。
「こんばんは、イーヴ」
「シェイラ? どうした、こんな時間に」
驚いたようにドアを開けてくれる彼は、やっぱり優しい。扉を閉められないようにすかさず半身を部屋の中に滑り込ませると、シェイラはにっこりと笑ってイーヴを見上げた。
「一緒に寝ようと思って、来ました」
「え? いやいや、シェイラ。前にも言っただろう、一緒に寝る気はないって」
困ったように眉を顰めてだめだと言ったあと、イーヴは少し心配そうな表情で首をかしげた。
「……もしかして、怖い夢でも見たか」
「違うもん」
心配してくれるイーヴは優しいけれど、やっぱり子供扱いされているような気がする。怖い夢を見てひとりで眠れないなんて、そんな幼い子供じゃないのにと思わず唇を尖らせて、シェイラは胸を強調するように腕を組んだ。
「イーヴと一緒に寝たいだけなの」
「そんな格好しても、俺は落ちないからな」
ちらりと胸元に視線をやったイーヴは、ため息をついて頭をかくとソファの上にあったブランケットをばさりとシェイラにかぶせる。少しはイーヴを動揺させられるかと思ったのに、呆れたような表情を向けられてしまった。
「じゃあ、どんな格好をしたらイーヴは落ちるの? どんな子が好み?」
「さあな。今は、素直に部屋に戻って寝てくれる子が好きだけど」
「うぅ……だって」
このままでは部屋に送り返されてしまいそうなので、シェイラは一生懸命足を踏ん張った。きっとイーヴがその気になれば、ひょいっとかつぎ上げられてしまうだろうけど。
絶対にここから動かないという無言の抵抗に気づいたのか、イーヴはため息をついてシェイラの頭をくしゃりと撫でた。
「まったく……。今夜だけだからな。ほら、もう遅いから早くベッドに入れ。俺はソファで寝るから」
「だめ、イーヴも一緒にベッドで!」
ソファに向かおうとするイーヴの腕を慌てて掴み、シェイラはじっと彼を見上げる。鏡の前で練習した上目遣いは、成功しているだろうか。
しばらく見つめているとイーヴは根負けしたように小さく笑い、シェイラの頭を撫でてくれた。
「分かった。だけど何もしないからな。シェイラも大人しく寝ること。約束できるか?」
「約束します! イーヴ、大好き!」
イーヴの優しさにつけ込んでいる気がしないでもないけれど、まずは一緒に寝ることに成功してシェイラは笑みを浮かべた。
ベッドに横になると、イーヴも恐る恐るといった様子で隣に寝転がる。だけど、指一本触れないとでもいうかのように距離をおかれて、シェイラは面白くない。
「イーヴ、遠いです」
「これが最大限の譲歩だ。これ以上は近づかないから、シェイラも離れていてくれ」
「少しはその気になってくれるかなって思ったのに」
「それは期待されても困るな」
さらりとそんなことを言って、イーヴはもう寝るからと背を向けようとしてしまう。
やっぱりハッピーエンドが約束された物語とは違って、そう簡単にうまくいくものではないみたいだ。露出させてみた胸元を見てもイーヴは何の反応も示さなかったし、張り切った自分が少し馬鹿みたいだ。
情けない気持ちになりながらため息混じりにボタンを留め直して、それでもシェイラは最後の足搔きとばかりにイーヴの服の裾を引っ張る。
「ねえ、イーヴ。こっちを向いて」
「注文の多いお嬢さんだな」
そう言いつつも、イーヴはゆっくりとこちらに向き直ってくれる。なんだかんだいって、彼はシェイラに甘い。だから、少しだけ期待してしまうのだ。子供扱いせずに、ひとりの女性として彼がシェイラを見てくれる日を。
イーヴの金の瞳に映る自分がなるべく大人っぽく見えるようにと心の中で願いながら、シェイラは小さく首をかしげてイーヴを見つめた。
「あのね、夫婦は寝る前におやすみのキスをするんですよ」
「……そうきたか」
眉間に皺を寄せたイーヴは、困惑の表情だ。夕方に半ば強引にイーヴの頬に口づけをしたけれど、やっぱり嫌だったのだろうか。自分の気持ちばかり先走って一気に距離を詰めすぎたかもしれないと反省して前言撤回しようとした時、ふわりと頭が撫でられた。
顔を上げると、苦笑まじりに見下ろすイーヴと目が合った。
「本当に、俺の花嫁は積極的だな」
「……っ」
自分からイーヴの花嫁であると散々アピールしてきたけれど、彼の口からあらためて言われると胸がしめつけられるほどに嬉しい。思わず言葉を失ったシェイラにイーヴがそっと顔を近づけ、額に柔らかなものが一瞬触れて離れていく。
「これでいいか?」
「う、うん……」
自分から言い出したことなのに、まさか本当にキスをもらえるなんて思っていなかったから、シェイラは動揺を隠すことができない。嬉しいのだけど、どんな顔をしたらいいのか分からなくてうろうろと視線をさまよわせるシェイラを見て、イーヴが小さく笑った。
「おやすみ、シェイラ」
耳元で囁かれた低い声は、これまで聞いたものよりずっと甘く響く。身体の芯にまでしみ込んでいくようなその声に、全身から力が抜けていくような気がした。
「おやすみ、なさい」
結局シェイラは、逃げるようにブランケットの中に潜り込むことしかできなかった。
真っ赤になった頬を持て余すように押さえているうちに、シェイラはいつの間にか眠っていた。夢の中でもイーヴは優しく頭を撫でてくれ、そのぬくもりが嬉しくて思わずその手を捕まえてしまう。大きくてあたたかなその手に触れるだけで、どれほど安心できるか彼は知らないだろう。いつか頭を撫でるだけでなく、もっと色々な場所にその手が触れる日が来たらいいなと思いながら、シェイラは更に深い夢の中へと潜っていった。
◇
翌朝目覚めたシェイラは、隣で眠るイーヴに視線を向けた。
寝る前に宣言した通り、彼は少しシェイラと離れた場所で眠っている。手を伸ばせば届くはずなのに、触れることのできないその距離が、今の二人の関係をあらわしているようだ。
だけどほんのりとイーヴの体温を感じられるような気がして、シェイラはこみ上げる幸せに小さく笑う。誰かと一緒に眠るのなんて初めてだけど、隣に自分のもの以外のぬくもりがあるというのは、とてもいい。
気配を感じ取ったのか、イーヴが低く呻いて目を開けた。丸い月のような金の瞳に、寝起きのシェイラが映っている。
「おはようございます、イーヴ」
「あぁ、おはよう、シェイラ。よく眠れたか?」
「はい、とっても! 隣に誰かのぬくもりがあるのって、幸せですね。すごくよく眠れました」
与えられた自室のベッドも寝心地はいいものの、広すぎて時々心細くなるのだ。ラグノリアでの生活はいつもひとりだったのに、ここに来てからは誰かと過ごすことに慣れすぎてしまった。
「……そんなことを言われたら、もう一人で眠らせたくなくなる」
少しだけ困ったように、だけど笑ってイーヴはシェイラの頭を撫でてくれた。
「それって」
「うん。シェイラが望むなら、ここで寝ても構わない。ひとりで寝たい時もあるだろうから、寝室をこちらに移すことはしないけど」
ただし、と言ってイーヴは真剣な表情を浮かべる。
「昨夜と同じ、何もしないことが条件だ。ただ一緒に眠るだけ。それと、シェイラは寝衣をちゃんと着ること」
「分かりました!」
間髪入れずうなずくと、優しい笑みが降ってきた。夜の営みへの道は遠そうだけど、毎日一緒に寝られるだけでも大きな前進だ。ついでとばかりに、シェイラは小さく首をかしげてイーヴを見上げた。
「あのね、おやすみのキスは……してくれますか?」
「そ、れは……うん、まぁ、それくらいなら」
驚いたのを誤魔化すように咳払いをして、イーヴは視線を逸らしたままうなずく。一晩で彼との距離が随分と縮まったような気がして、シェイラは嬉しさを嚙みしめるようにブランケットをぎゅうっと抱きしめた。
本当はイーヴに抱きつきたかったことは、秘密だ。