13 空を駆ける
「イーヴ、お待たせしました!」
身支度を整えて中庭に戻ると、竜の姿で身体を丸くして休んでいたイーヴがぱちりと目を開けた。人の姿の時より大きなその金の瞳を見るたびに、シェイラは丸い月を思い出す。
「ん、ちゃんと厚着してきたな」
鼻先で優しく触れられて、シェイラはくすぐったさに小さく身体をよじって笑った。
その気になれば小柄なシェイラの身体など一撃で吹っ飛ばすこともできるはずのイーヴが、力を加減してそっと触れてくれることが嬉しくてたまらない。何だかとても、大切にされているような気がするから。
背中に乗れと言って身体を屈めてくれたイーヴが、シェイラが手に抱えた大きなバスケットを見て軽く目を細めた。
「シェイラ、その荷物は?」
「アルバンさんが、朝食を持たせてくれました。せっかくのお出かけなら、外で食べておいでって」
バスケットを先にイーヴの背に乗せて、シェイラはそう説明する。部屋に戻る時にレジスと出会ったのでイーヴと出かけることを告げたら、ふわふわのファーのついた外套の用意と共にバスケットを携えたアルバンもやってきたのだ。
本当はイーヴのために朝食の準備をしてみたかったことを伝えると、それなら夕食を一緒に作ろうとアルバンに誘われた。背に乗せてくれるお礼に食事を作るというのは、とてもいい考えだと思う。驚かせたいから、イーヴにはまだ秘密だけど。
「パンやサラダ、飲み物もあるそうです。イーヴの好きな肉料理もたくさん詰めてもらったから、あとで一緒に食べましょうね」
「それなら、景色のいいところまで行こうか」
イーヴの提案に大きくうなずいて、シェイラは彼の背に乗った。
「ちゃんと掴まってろよ」
「はぁい!」
シェイラがたてがみをしっかりと握りしめたのを確認して、イーヴがふわりと空へ飛び上がった。巨大な体躯に対して、その動きは驚くほど静かだ。
きっとシェイラが落ちないように気をつけて飛んでくれているのもあるだろうけど、乗り心地はとても良い。少しだけ硬いたてがみを指先で弄ぶように絡めながら、シェイラは周囲を見回した。
あっという間に空高く飛び上がったからか、頬に感じる風は少し冷たい。だけどしっかりと厚着をしているから、その冷たさが逆に気持ちいいほどだ。
ここに初めて来た時も思ったけれど、ドレージアはとても大きな国だ。たくさんの屋敷が集まる居住区の他にも、高くそびえ立つ山や青々とした森があり、そして美しい水の流れる川もある。
川から流れ落ちた水は、きっと雲を抜けてシェイラの故郷に雨を降らすのだろう。
陽の光を浴びてきらきらと輝きながら地上へ落ちていく川の水には、小さな虹がかかっている。ふわふわと浮かぶ雲も柔らかそうで、手を伸ばせば届きそうだ。
「わぁ、虹! すごく綺麗……!」
「なら、もう少し近づこうか」
そう言って、イーヴがすいっと向きを変える。
ふわりと頬を撫でるような感覚は、雲に触れたからだろうか。
まるで虹をひとりじめしているかのような気持ちになって、シェイラは思わず歓声をあげた。
細かい霧のような水飛沫でしっとりと頬を濡らしながら、シェイラは興奮して声をあげっぱなしだった。
「ドレージアは本当に綺麗なところですね」
「シェイラが気に入ってくれたなら、俺も嬉しい」
小さく笑ったようなその声には抑えきれない喜びの色が隠れていて、イーヴが自分の住む国に誇りを持っていることがよく分かる。
これからはドレージアが自分の居場所だと思っていいのかなと考えながら、シェイラはそっとイーヴのたてがみに顔を埋めた。少し硬いその感触は、人の姿となった時の彼の髪とよく似ている気がする。
「俺のお気に入りの場所に連れて行ってやろう。そこも、すごく綺麗な所なんだ。少し距離があるから、しっかり掴まってろよ」
そう言って、イーヴがぐんとスピードを上げた。強い風に髪がなぶられて、シェイラは慌てて外套のフードをかぶる。
ドレージアは巨大な空中都市だけど、そのまわりにもたくさんの小さな島が浮かんでいる。イーヴはその島々の間を縫うように進み、随分と離れた場所にある小さな島のひとつに降り立った。
そこは大きな木が一本だけ生えている島で、地面には色とりどりの小さな花が咲いている。
「わぁ、お花がたくさん……!」
「この木陰で昼寝をするのが好きなんだ。誰も来ないからゆっくりできる、秘密の場所だ」
「ふふ、確かにとっても気持ちよさそうです。私もお昼寝したくなっちゃいそう」
「まぁ、とりあえずは飯が先だな」
「確かに、そろそろお腹が空いてきましたね」
うなずいて笑いながらイーヴを振り返ると、彼は人の姿に変わったところだった。小さな島といってもそれなりの広さはあるから竜の姿でも狭くはないだろうけど、食事をするなら人の姿の方がいいのだろう。
敷物を地面に敷いて、シェイラはバスケットの中身を出して広げていく。こうやって外で何かを食べるなんて初めてのことで、わくわくしてしまう。
「ねぇ、イーヴ。これってピクニックですよね?」
「ん? あぁ、そうだな」
「やっぱり! 本で読んで、一度してみたいなって思ってたんです。夢が叶いました!」
はしゃぐシェイラの頭を、イーヴがぽんぽんと撫でてくれる。見下ろす金の瞳も優しく細められていて、まるで幼子をあやすようだと思うものの、それがまた少し照れくさくも嬉しい。
「シェイラのやりたいことがあれば、何でも教えてくれ。俺にできることなら、叶えてやるから」
「それなら一緒のベッドで眠りたいです! 夫婦の営みを、私たちもすべきじゃないかと」
張り切ってそう答えたら、イーヴは額に手をやって眉を寄せてしまった。
「……それ以外のことで頼む」
「やっぱり、だめですか」
「前にも言っただろう。俺がシェイラにそういうことを求める気はないし、好いた相手とすべきものだと」
「分かってます、けど。でもやっぱり、夫婦らしいことをしたいと思うんです」
むうっと唇を尖らせつつ、シェイラはつぶやく。イーヴは何もしなくていいと言うけれど、それではシェイラの存在意義が分からなくなってしまう。
生贄としての役目の代わりに、イーヴの妻として何かをしたいと思うのはだめだろうか。
うつむいたシェイラの表情に気づいたのか、イーヴが小さく息を吐いて頭を撫でてくれる。
「こうやって二人で出かけるだけじゃ、不満か?」
「不満じゃないです。すごく嬉しいって思ってるもの」
「それなら良かった。これだって夫婦らしいこと、だろ?」
「でも私、イーヴの妻として何の役にも立ってないです。だからせめて、イーヴの性欲を解消するお手伝いができたらなって」
「うん、とりあえずそこから離れような」
「だって、お互いの利害が一致すると思いませんか? 私は役目を果たせて満足だし、イーヴは性的に満足……っんん!?」
一生懸命に訴えようとしたシェイラの言葉を止めるように、イーヴが口に赤い果実を放り込んだ。その瞬間口の中に広がる甘い味に、シェイラは思わずもぐもぐと咀嚼してしまう。
「……んっ、もう、話してる最中だったのに」
こくりと果実を飲み込んでから、シェイラはイーヴをにらむように見上げた。唇にも果汁がついていて、ぺろりと舐めると甘い味がする。
「……逆効果だったか」
困ったように眉を寄せて視線を逸らしたイーヴを見て、シェイラは小さく首をかしげた。
「逆効果?」
「何でもない。ほら、もうひとつ」
唇に当てるようにまた果実を差し出されて、シェイラは戸惑いつつも口を開ける。まるで小さな子供のように食べさせてもらうのは少し恥ずかしいけれど、何だかくすぐったくもある。
ついでにぽんぽんと頭も撫でられて、その優しいぬくもりに幸せを感じて、シェイラは微笑んだ。