それぞれのオフ(2) 契約更改編
プロ野球選手にとって、野球以外の大イベントがある。
その名も、「契約更改」。
今シーズンの成績をもとに、来年の年棒を提示される。
選手にとっては来年の給料が確定するため、非常に大事なイベントなのだ。
複数年の契約を結ぶ事や、年棒が気に入らなければ交渉する事もよくある。
選手たちにだってそれぞれの人生があるため、値踏みされて「はいそうですね」と易々と受け入れるわけにはいかない。
年棒に不満を抱いて退団する選手も稀に出てくる。
落としどころが絶妙に難しい。
では、それぞれの選手たちの契約更改がどのような形で行われたか、こっそりと見ていこう。
<ケース1 入夏水帆の場合>
球団本部の一室の前に案内され、入夏は姿勢正しく立っていた。
プロ野球選手としての正装はユニフォームだが、社会人としての正装はスーツだ。
身なりをちゃんと整えて、入夏はその時を待っていた。
ほどなくして、男が一人出てくる。
舘だ。顔から嬉しさが漏れ出ている当たり、彼は増額を勝ち取ったのだろう。
「どうぞ」
扉の向こうから聞こえた指示に従う様に入夏はドアを開けた。
部屋の中には一人の老人と壮年の男が軽く会釈をしてくる。
老人の方は、去年も契約更改で世話になった査定担当の人だ。
その横にはチームの編成面に大きく携わるGMがいる。
時折顔を合わせるGMはともかく、査定担当の人とはこういう機会しか接点がない。
入夏も同じように会釈を返した。
「お待たせして申し訳ない。色々手間取ってしまってね」
GMからの声がかかり、いよいよ交渉が始まる。
とはいっても入夏は減俸を提示されない限り一発でサインする気でいた。
今まで戦力外にならずにいられたのは編成の人たちが必要だと言い続けてくれたからに他ならない。
たった一年好成績を残した程度で天狗になって「もっと上げろ」というのは誠意に欠けている気がするからだ。
「まぁ、それじゃあ話は査定担当の方から」
「はい。今シーズンの入夏選手の活躍には目を見張るものがありました。5月に再昇格を果たしてからの成績は非常に優秀で、本塁打、OPS(長打率と出塁率を足したもの、0.9を越えれば優秀な選手として扱われる)は共にチームトップ。後半戦のチームの奮闘の裏には、間違いなく入夏選手の躍進があったと考えております。それを加味し、来シーズンに向けた年俸の提示額は……こちらとなっております」
すっ、と査定担当の人が紙を差し出す。
紙には言葉の通り、提示額が記載されていた。
今年の年俸が1200万で、提示されているのは3800万。
という事は……3倍以上ということか!?
これでどれだけ良い食事が食べられるのか。
いや、それよりもトレーニングに力を入れた方が良いか。
今まで経験した事の無い額に、入夏の脳はこれからの使い道で一杯になっていた。
「いかが、でしょうか……?」
恐る恐る、といった感じで査定役の人が尋ねてくる。
沈黙の時間が長すぎて「気に入らない」と思われたかもしれない。
気を取り直して、入夏は一つ咳ばらいをした。
「はい。非常に満足がいっています。是非、この金額で契約させてください」
持ってきたハンコを取り出して、契約書にサインをする。
最後に二人と握手をして、入夏は部屋を後にした。
入夏 年俸3800万で契約(2600万アップ!)
<ケース2 綱井・キハダ・真紅郎の場合>
「くっくっく……今年は盗塁王ですか。いいですねぇ、このままリードオフマンとして成長していただきたいところです。そうですねぇ、額としては少し色を付けまして……単年の4000万円ほどでいかがでしょうか。1200万円ほどのアップ査定、という事になりますが」
綱井の目の前にはいかにも胡散臭そうな男が怪しげな笑みを浮かべていた。
何を隠そう、この人物こそが仙台スパークスの誇るGMである。
笑い方とか話し方は何か裏があるのか疑いたくなるほどだが、何度も顔を突き合わせていればそのうち慣れる。
慣れとは恐ろしい。
「あざっす!」
そしてその男に対して全く臆しないのが綱井の長所だ。
気質がどちらかというとラテン系の人間に寄っている、というのは周囲から見た評判だ。
「では来年も好成績を残していただきたい、というのは勿論ですが。クク、来年はそうはいかないかもしれませんねぇ」
「何かあるんですか?」
「相手に研究されるという事もありますし、何より……現在メジャーリーガーと大型契約の交渉をしている最中でしてねぇ。綱井選手と同じ右打ちの外野手のものですから、彼とも競争をしていただくことになると思います。構想としては綱井選手と《《彼》》で両翼の外野を担っていただく予定ではあるのですが……経験豊富なベテランの選手ですし、打撃の面でも守備の面でも色々と学べる事があると思いますよ」
「へぇ、そうなんですね! でも俺、打撃に関しては教えてもらいたい人がいるんで、そっち頼ろうと思います」
「くくっ、そうですかそうですか。それは殊勝な心がけです。では来季の契約はこれで完了ということで。あ、先ほどの助っ人の話。別に話してもいいですが、あまり広がらない程度でお願いしますよ」
「分かりました! じゃ、失礼しまーす!」
元気に締められた扉を細目で覗き、GMは再び口角を上げた。
チームは未来へと変わりつつある。
確実に現在はステップアップしている途上だ。
全く、これからが楽しみすぎて笑みが止まらない。
その後、綱井は助っ人獲得の話をあっさりと契約更改会見で滑らせてネットニュースはおろかスポーツ紙の一面を飾った事は、また別の話である。
綱井・キハダ・真紅郎、年俸4000万円で契約(1200万円アップ)!
<ケース3 奥戸場宙の場合>
「今回はですね、チームとしては厳しい結果となりましたが、その分好成績を残した選手に対してはこちらとしても最大限の誠意を示したいと思いまして……」
……安い。
奥戸場が契約書を一目見て感じた心境はそれだった。
別に待遇に不満があるとかそういうわけではない。
成績に見合ってないじゃないか、と思っているわけでも無い。
安い、というのはあくまでも相対的な話だ。
なら相対的というのは何と比べての事か。
父親の年俸だ。
今の自分と同じ年で既に海外のサッカーに挑戦していた父は、自分の今の倍以上の金額で契約をしていた。
一番身近な大人と言うのは、ほとんどの人間にとってやはり両親がそれにあたるだろう。
有名なサッカー選手の息子として生まれた奥戸場は、大人になればそれくらい貰えると思っていた。
それに比べるとどうにも……と言わざるを得ない。
今まで恵まれた環境に過ごしてきた分、そのギャップは大きかった。
「ちょっと、年俸を増やしてほしいんですけど……」
恐る恐る奥戸場が言葉を返す。
今さら少し増えたとて、焼け石に水。
父には遠く及ばない。
ぶっちゃけたところやけっぱちの交渉である。
後一回で納得してサインをするというのは普通で面白みがない。
「なるほど。これでは足りないと」
「いや、そういうわけでもないですけど……」
「ではこうしましょう。あなたの来季の活躍によって、こちらはインセンティブをお付けします」
インセンティブというのは、一定以上の条件によって年俸の上にさらに追加される報酬の事である。
本塁打30本以上、180イニング以上の投球回など条件は双方が決める。
「具体的にはどういう基準か、確認してもですか?」
「そうですね、20登板以上でプラス800万。10勝以上でプラス1000万、野手としては20本塁打達成でプラス1000万というのはいかがでしょうか。中々悪くない条件だと思いますが」
奥戸場は頭の中で金額を計算する。
難しい話だろうが、全てを達成する事が出来ればかなり年俸はアップする。
それでも父には遠く及ばないが、それはもう仕方ない。
「分かりました。ではその内容でお願いします」
奥戸場宙、年俸6000万(1000万円アップ)+出来高で契約!
<ケース4 越智子龍の場合>
福岡マッハトレインズの中で、最もリーダーシップを発揮している人間は越智だと言われている。
「契約に関してはこれで異論ありません。それで、ブルペンの投手たちの待遇についてですが……」
越智は普段から契約に関して異を唱えることはほとんどない。
その代わりとして、毎年球団には選手たちの待遇面で気になったところを進言している。
正捕手という立場で現場をよく見ているため、彼の存在は球団としても助かっている面が大きい。
しかし、波乱が起きないという意味ではやはり地味だ。
「…………」
「どうかしたかね? 何か不満でもあったか?」
「いや、何か唐突に誰かからなじられたような気がして」
越智子龍、年俸1億7000万(現状維持)でサイン!
<ケース5 深瀬和仁の場合>
「今年もエースとして素晴らしい成績を残してくれて、ありがとうございました。その評価として年俸アップはもちろんの事、是非ウチと複数年契約をしていただきたく……」
大阪ビクトリーズの球団事務所で、交渉役の男が両手をこするようにして深瀬の言葉を待っていた。
ほとんどの選手は1年ごとに契約を更新するのが普通だが、好成績を残すと見込まれた選手が複数年の契約を結ぶことがある。
評価を見込んで、というのは理由の一つだが、それ以上にもっと大きな理由がある。
ずばり、優秀な選手の流出を避けるためだ。
例えば選手がある程度活躍して他球団に移籍する権利を得たとしよう。
彼の獲得を競ってマネーゲームになるよりは、先に身銭を切る覚悟で複数年契約を結べばその年数分移籍する事はなくなる。
選手の立場から見ても成績が悪くなった年でも年俸は保証されるという面ではメリットが大きい。
今回は若干24歳の選手には多いと思うほどの強気の査定をした。
それだけチームとしても深瀬の将来に期待しているのだ。
「ありがとうございます」
深瀬の言葉に、交渉役の男は口角を上げそうになる。
しかし、次の言葉でその表情は戸惑いを見せる事となる。
「けど、遠慮しておきます」
いや、いけた流れだろ今のは!!
……という感情を押し殺し、表情だけは平静を装って男は眼鏡をくいっと上げた。
「そうですか。一応、ご理由を訊かせていただいてもよろしいですか?」
「ここがまだ最高到達点ではないからです」
言葉の意味が分からず、男は無意識に聞き返してしまう。
「今年は状態が良かったです。でも、まだまだ上を目指せると考えています。これが自分のゴールだとは、まだ考えたくありません。そのためのモチベーションとして、年俸も一つの要素として考えてます。自分には来年の保証がない方が実力を発揮できる。そう判断しました」
「えー……はい。なるほどぉ。お気持ちはなんとなくですが、分かりました。それで、これは本当に蛇足のような質問ではあるのですが……今後の展望については考えておられでしょうか?」
展望、というのは言い方を濁しただけ。
要するに「移籍する気はあるのか」という意味だ。
いえ、本当に答えたくなければそれで結構ですので、と入念に前置きを置く。
「どうでしょうか。来年の事はともかく、数年後の事はまだ考えていないので」
深瀬和仁、単年2億で契約(4000万円アップ)!
<ケース6 金師有世の場合>
2対1で机を挟み、男たちが対面している。
金額を持ちかけるのは球団側のはずなのに、その威圧感は金師から放たれていた。
冬だというのに、交渉役の出雲の額からは冷や汗が伝っていた。
金師との契約交渉もかれこれ三度目。
一度目は「安いですね」と涙ながら(?)に一蹴され、二度目は「微妙ですね」と退けられた。
想定内だ。想定内ではあるが、辛くないとは言ってない。
こういう所を考えると、やはりこの男を契約交渉のトリにしておいたことは間違いではなかったと思える。
ただ、こちらも球団と選手の板挟みのような状況なので、出来れば今回の交渉で終わりにしたい。
「今回、この額で納得していただけないでしょうか」
「なるほど。時に出雲さん。プロをプロフェッショナルたらしめるものは何だと思いますか?」
「え、いやぁそれは」
「金、ですよ。活躍した選手が相応の報酬を貰う事で、次世代の選手たちのモチベーションに繋がる。これは選手一人に対する問題ではないですよね。野球を始めるきっかけは『夢』のはずです。我々は夢を与える存在でなければならない。そうですよね?」
金師が契約で得た金はどこに行くのかと言うと、意外にも社会のための寄付や野球界のために使っているというニュースを多く耳にする。
それ自体は素晴らしいことなのだが。
……これ、駄目なやつかなぁ。
帰りたいなぁ。
「そうですね。仰る通りです」
「しかし今シーズンBクラスだったのも事実。というわけで、《《私》》としてはこの額で。これ以上求めることはありません」
「えーっと、では。何故この話を?」
「意見のすり合わせです。球団としての方針を改めて確認しておきたかったので。後はまぁ……遊び心? 出雲さんの反応が気になったので」
なるほどなるほど、弄ばれたわけか。
お前この野郎マジで。
「では、来年もよろしくお願いします」
ばたり、とドアが金師の手によって閉められる。
出雲は力なくソファーにうなだれる。
来年こそは。
来年こそは、こっちのペースに引きずり込んでやるからな。
金師有世、年俸3億円(4000万円アップ)で契約!
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