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天才打者の忘れ形見  作者: 砂糖醤油
3章 わくわくペナントレース編 後半戦
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投手A

 野球に関して学生時代は向かう所敵なしだった男が、舞台を変えると鳴かず飛ばず。

 プロの世界ではそういうケースばかりだ。

 ここにも一人、埼玉フィッシャーズに所属する投手・選手Aがいる。

 彼はこの日の登板に全てを懸けるつもりだった。

 選手として今一つ伸び悩み、現在は戦力外通告の当落線上。

 まさにこの試合が彼のキャリアを二分する、というような状況である。


 だがそんな彼にも勝算はあった。

 相手は最下位、それも貧打で有名な千葉ドルフィンズ。

 投手の整備や若手選手の起用によって現在は成績を持ち直しつつあるが、それでも打線としては未だ比較的迫力に欠けている。

 もし登板する相手がビクトリーズの重量打線やスパークスのような俊足&巧打で引っ掻き回してくるタイプだったら……考えたくもない。

 相手だってプロ野球選手だ。弱いわけがない事は知っている。

 それでもまだマシというだけだ。

 逆にこのチームに通用しなければ。その先は言うまでもない。


 久しぶりのホームグラウンド。

 マウンドの感触を確かめながら、投手Aは深呼吸する。

 正念場になって思い出すのは家族の事だ。

 女手一つで自分をプロ野球選手にまで育ててくれた母親のこと。

 成績が出なくても励まし続けてくれた妻のこと。

 可愛くて仕方のない、幼い娘のこと。

 せめて娘の記憶の一片に残るくらいは、プロ野球選手でいたい。


 初回の守備、ドルフィンズのリードオフマンが打席に入る。

 その顔には覚えがある。

 入夏水帆。面と向かって話したことこそないが、彼も二軍で燻っていた選手の一人だった。

 彼だって今年開花したのだ。自分だって通用できるところを見せてやる―――!

 初球、まずは変化球で様子を見る。

 入夏のバットは一瞬ぴくりと動いたが、それでもスイングをすることはなかった。

 反応はしたが、どこか余裕があるように見える。

 一軍での経験を経て彼自身にも変化があったようだ。

 ならば自慢のストレートで押し込む。

 そう考えて投じた気合の入ったストレートはいとも簡単に弾き返された。



 最悪だ。

 あれよあれよという間に初回だけで2点を失った。

 入夏に出塁を許してからピンチを招き、5番の万田にセンター前への2点タイムリーヒットを浴びてしまった。

 警戒していた3番の鳥居、4番の阿晒こそ抑えて2アウトにこぎつけたものの、その後の詰めが甘かった。

 今シーズン序盤の打線の状態と明らかに違う。

 その後も2回も1点を失い、3回と危ない橋を渡るようなピッチングが続く。

 球数はかさんでいくばかり。

 ベンチの隅でブルペン陣に連絡を取っている投手コーチを見て、投手Aは血が冷たくなるような思いだった。

 まずい。こんな様子じゃ降板させられる。

 せめて、せめて5回までは投げ切らないと。

 

 4回の表、ドルフィンズ打線は3巡目を迎えようとしていた。

 ランナーを一塁に置いて、バッターボックスには一番の入夏が構えている。

 既に3度目の対戦。これまでの2打席ではいずれも出塁を許している。

 バットの先端で円を描くルーティンには最早「二軍の帝王」という影は微塵もなく、彼がれっきとした一軍の主力であるという事を雄弁に語っていた。

 

 投手Aは悟った。

 彼は《《もう、自分とは違うのだ》》。

 何が? 

 何もかもが。

 何で?

 俺だって、期待されていたはずなのに。

 練習だって真面目にやってきたはずなのに。

 応援してくれる家族だっているのに。


 ―――俺とお前、何が違ったって言うんだ?


「う、う……あああ!!」


 指に縫い目をかけて、渾身の直球を投じる。

 否定したかった。

 せめてこの打席だけは抑えて、自分は敗者などではないと声高に言いたかった。

 せめて、この一球だけは。

 

 入夏のバットが動くさまがスローモーションのようにゆっくりと見えた。

 今日何度目かも分からない、バットの芯がボールに直撃する気持ちの良い音。

 その音は、一人の野球選手の選手生命を折るのにはあまりにも十分すぎた。


(……あぁ)


 溢れ出しそうな感情をこらえるように、投手Aは野球帽を深く被った。

 滲んだ視界の先では、投手コーチがボールを持って歩んできている。

 全てはもう、終わってしまった事なのだ。

 その日を最後に投手Aが一軍のマウンドに登板することはなかった。


 

 フィッシャーズとの三試合を終え、選手たちはまた移動しなければならない。

 時間に余裕があっても、そう考えると自然と入夏の着替えの動作も早くなっていた。

 野球選手は単身赴任のようなものだと先輩がいつか言っていたような気がするが、あながち間違いでもないのかもしれない。


『ねぇ、入夏君。君は気づいた?』


 勇名の声がしていたが、入夏はあまり構おうという気分ではなかった。

 スケジュールの忙しさに頭痛がしていたからだ。


「なんですか。自分の打撃に、おかしなところでもありましたか」


『そうじゃなくて、相手の事だよ。……前から思っていたが君はいつも自分の事で手一杯だよね』


「……人間、そんなものじゃないんですか。もし違っていたら謝ります。俺は人の事に関してとんと疎いので。勝負のために相手を観察することはあっても、感情なんてものは読めませんよ。エスパーってわけでもないんだし」


『そうか。君は本当に一途なんだな。だから気づけない』


 どこか棘のある言い方に、入夏はむっとした。


「何が言いたいんですか」


『普通の人間は勝負を経て勝者と敗者がいる事を始めて認識する。だけど君は自らの結果にばかり目がいっているんだ。だからこれまではそんな事を考える余裕なんてなかっただろう。要するに俺は不安なんだよ。君が相手の事に興味を持って覗いた時、君はとてつもないショックを受けるんじゃないかってね。だって耐性がないんだもん』


「ショック?」


『君が対戦したあの先発投手、恐らくアレがプロとしての最期の登板だったと思うよ。強くなれば人の人生など簡単に折る事が出来てしまう。君がもっと強くなりたいというならもっと相手のそういう所が見えてくると思う。それでも君は前を向いて敵を負かしにいけるか?』


 勇名の言葉にも、入夏は平然として返す。


「別に、今のところはなんとも思っていないです。勝っただの負けただのって、ただの結果ですよ。そんなもので負けた側への配慮とかを考えろって事ですか?」


『いや、違う。一流というのは色々なものを背負っている相手の事を容赦なく踏みつぶす事を厭わない人間の事だ。君が勝ち続けて、相手を蹴落としてでもなおも勝ちにいく覚悟でないと、いつか君は自分の事を嫌いになってしまうかもしれない。これは師匠ではなく、先輩としての確認だ。』

 

「……よく分かりませんが、忠告は受け取っておきます」


 入夏は自らに余裕が無い事は分かっているつもりだ。

 今は自分の事で精一杯で、周りに気を遣う余地などない。

 そもそも、他人の事など分からない。

 分かったように思えても、分かったような気がしているだけだ。

 それがどれだけ他人を傷つけるか、入夏は痛いほど知っている。

 自分は他人の感情の機微に疎い。

 だからこそ、中途半端ではなくとことん馬鹿であろうと、あの時決めたのだ。

 そうでなければ自らの過去を清算することなど出来ないのだから。

 

 バットからは、無いはずの鋭い視線が注がれているような気がした。


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