第5話「もうやめなさい、今はそれ以上、口を開かないで」
この小説を読むときは、部屋を明るくして、画面から離れてね!
緑先輩とのお約束だぞ★
汗ばんだ体と、あちらこちらに散らばったチーズが、布団に引っ付いている。テレビはつけっぱなしで、電気代がどれほど請求されるか考えたくもない。いや、今は何も考えたくない。
「冷蔵庫に何かあったかなあ」
腹がつっかえて状態が起こせないので、転がって仰向けになり、手のひらと膝の屈伸を使ってベットから起き上がる。不穏な音がベットから聞こえた。
「俺が太っているって言いてえのか!?」
苛ついたので布団をけってやるも、箪笥に小指をぶつけたような先っぽに集中する痛みが襲ってきた。思わず片足をあげて飛びあがってしまったので、今度は床が音を立てる。まるで部屋全体が俺にデブって言っているようだ。
「くそ、何なんだよ! デブで何が悪いってんだ!」
むしゃくしゃしたので、冷蔵庫を開け、グラノーラ一袋を鍋サイズの器に入れ、残ってた牛乳をすべてその中に注ぎ込んだ。そして、それをそのままお腹へと流し込んでいく。すると今度はお腹の中で食ったそいつらが暴れまわるもんだから、トイレに入る。ちゃっかり、退屈しないようにスマホを持って。
「こ、こんな時は動画でも見て気分を……」
と思ったその時に、着信アリと言う表示が形態の上画面にあり、確認すると、その送り主は愛理だった。
「あ、愛理!」
メッセージには「今日午後4時からサークルこれそ?」とだけ書かれているのみ。ちなみにこれが送られた時間は3時間前で……
「もう4時になる!」
いろいろとやってすぐさまトイレから出た後、そこらへんにあった青いジャージをつけ、靴を履いて外に出る。間に合うだろうか。いいや間に合う。放送室はエレベーターを使うだけで着く。エレベーターに乗り、乱れた呼吸を深呼吸を目いっぱいして整える。
昨日のあれは一日だけだ。きっと今日は、いつも通りのアンリミ研究サークル。愛理が俺に話しかけてきてくれて、俺がそれに対して返して。ゆうさんがそこに入ってきて、緑先輩が優しく微笑んで見守っていて、そんな場所でサークル活動をするのだ。
「なんとか間に合った」
しかしドアを開け、眼前に広がった光景は、またしても悪夢のようなもの。ここにいるはずのない、いていいはずがない人間がそこにいる。しかもそいつは、彼は、愛理と楽しそうに話をしている。そして愛理は、俺と話しているときよりも表情が豊かだ。
「あー、おはよう遅咲君。今日からこのサークルに入ることになりました。早咲天子でーす。よろしくお願いしまーす」
こっちと目も体の向きも合わせず、愛理の方を向きながら、けだるげにそういった。俺は雑に扱う彼が気に食わない。愛理と仲良くしていることも気に食わない。
「愛理君、その上着カッコイイね」
「ほんとか? そういって貰えて嬉しいよ。バイトしてお金貯めて、やっとの思いで買った一級品だ」
「そうなんだ! とっても似合ってるよ」
そんな会話をしている二人を見ているまま、俺はそこで立ち尽くしているばかり。きっとここで何かをしなきゃいけないと分かっていても、口が動かない。彼は、天子という男は、こんな流暢に愛理と喋れているのに。
「今度、メンズ用の衣装、君に似合うのを持ってくるよ。その大切な洋服で出るわけにもいかないでしょ?」
「そうだな、助かるよ天子」
何に出る気か。それすらも二人の空間と俺の空間で隔たりができているようで、こんなに近くにいるのにどう声を掛ければいいかもわからない。そんな俺を通り抜けて、彼女が二人に話題を振った。
「ごめんね、楽しそうに話しているところ邪魔しちゃって。愛理君が何かに出るって話を今、ちらって耳にしちゃってさ。こっちの行事と被っちゃうといけないから、私たちにも詳しく聞かせてくれる?」
その質問に、愛理が頬をかきながら、俺と緑先輩の方を交互に見て話す。
「実は私、演劇部にも入ろうかなって思って」
まるで崖から突き落とさるような感覚へと陥る。彼女の目はこれまで見たこともないほど透き通ったもので、その奥は蛍光灯の光を映し、光っている。
「その初舞台として、王子様の役をやってほしいって言われてね。それに出てみようとおもうんだよ」
緑先輩はそれを聞いて、にっこりとした。顔をほんのちょっとだけ赤くして言った。
「挑戦するのね、応援してるわ!」
愛理も元気よく頷き、俺もその流れに乗るように「良かったね」と言った。彼女は嬉しそうに俺にも笑顔を向けた。同時に、彼女の内側を見た気がして、気になって、とっさに尋ねていた。
「アンリミ研究サークルはどうなるんだ?」
彼女は一瞬表情を崩してこういいかける。
「だから、両方ともやるよ。忙しいとは思うけど、私は自分の可能性を広げていきたいんだ。そのためならいくらだって頑張るさ」
その抽象的な物言いと、まるで俺から離れて行くようなその物言いが、彼女を分からない存在に、遠い存在にしてしまう。どこを目指している。なんて優柔不断なんだ。いらだちと戸惑いの感情の波が押し寄せ、それらすべてが交じり合い、押し出されるように皮肉を吐いた。
「そうか? せいぜい頑張れ、体が壊れるまでよ!」
吐いた言葉は、愛理に向かって届く。彼女は首を傾げ、眉をひそめて言い返す。
「そこまでは活動しないかなあ、講義に支障が出るだろ?」
そのなんとも思っていない顔が、胸をえぐり取るような気持ちにさせたが、自分の心をかばうために、さらに強い言葉で相手に話す。
「真面目なんだな、かっこいいよ愛理は、まぶしいよ愛理は」
ゆうさんがすぐさま俺と愛理の間に入り、俺をなだめてきた。
「落ち着いて話しなさい。愛理が困惑しているじゃない」
愛理はさらに困惑した顔をして、俺に言った。
「なあ芥、なんかあったのか? 悩みがあるなら聞くぜ?」
ああ、はいはいそういうことか。やっとわかった。これはきっと愛理の気遣い。だが結果的に今、それが俺を不快にしている。まったく、ダメな奴だな愛理は。俺の気持ちを察せずに俺を傷つけて。
だったら俺も、お前を傷つけていいよな?
「女がそんな語尾使うのって不自然だよな」
そういうと、彼女の作った笑みも少しは崩れた。そのまま打ち負かしてやりたい、俺が怒ればお前を思い通りにできる。そんな醜悪な支配欲が膨張する。
「気持ち悪いんだよ」
そういった後、眼前にいるもう一人の人間、ゆうさんの話を思い出した。
「ご、ごめん愛理。さすがに言いすぎた」
彼女の顔を見ながら謝罪したが、彼女は笑顔を作ったままため息をついた。
「そうか? 私は気持ち悪いのか……そう思う人もいるよな~」
呆然と、それを見て立ち尽くす。いやいや、何も思ってないのか。今、お前の傷つくことを言ったんだぞ。もしかして何とも思っていないのか。なら、もっと俺を意識させてやる。
「その服装も……」
突如、俺の頬に強烈な平手打ちが飛んできた。俺は抵抗できず、そのまま床に尻もちをついた。叩いたのは、叩いて邪魔をしたのはゆうさんだった。
「もうやめなさい、今はもうそれ以上、口を開かないで」
顔は俺の方を見ず、ただ、声は震えていた。
「優一、手を出すのは良くない」
その手を、他でもない愛理が抑えた。殴られた頬が痛い。この場から消えてしまいたい。
「芥」
愛理の声が聞こえた。考えていた雑念がすべて吹き飛び、愛理の方を見ていた。彼女は悲しげな顔で、そのまま話を始めた。
「私はね、男か女、どちらかに自分を当てはめたら、自分を見失ってしまう気がするんだ」
その紡ぐ言葉は、いつもの元気な彼女の物でないような、そんな調子の声。
「そんな私が昨日、出会うことのできた、この気持ちの解消手段。それが演劇なんだ」
声の調子も低く、どこか威圧を感じ、けれどもいつも通りに振舞おうとしている。
「演技だっていうなら男にだって、女にだってなれるんだ。皆がそれを許してくれる。あの場所で演技をしているときは、舞台の上の出来事でしかないから、どちらにもなれる。自分に形が与えられたようで、私の心の安らぎになったんだ」
言い切られ、どうにもならない言葉が返ってきた。だってそれは俺にとってのアンリミ研究サークルと同じなのだから。
「ごめんなさい」
俺は膝を付き、頭を地面に引っ付けて謝った。流してはならないと、目の奥からあふれ出ようとするそれを目をつむってこらえながら、唇を噛み、声を殺す。そうすることで、前を見ないようにする。彼女のため息と、次々に遠ざかる足音。去り際に聞こえてきた言葉。
「そういえば用事を思い出した! 今日は帰るって緑先輩に伝えておいてくれ」
どこか置いてけぼりにするようなその言葉に、卑しい自分が機敏に反応する。
「そうね、今日はもう練習はやめておきましょう」
こつこつと、また遠ざかる足音がした。最後に残った一人は何も言わず、その場を離れた。真っ暗で、床につけたおでこが冷たくなっていく。周りの音が消えていき、俺はまた、一人になる。
「こんにちは……って芥君しかいない!」
一人、遅れてやってきた緑先輩に、俺は顔をあげて返事をすることもできない。
「まったく、みんな遅すぎるよ。遅れた私が言うのもって感じだけどね」
金属のぶつかる音と、袋の擦れ合う音がなる。おでこに一瞬伝わり、消えた。そして、ひんやりとしたものが俺の頬に当たり、思わず変な声を出してしまった。
「ひや!」
「ポカリスエット飲む? 芥君」
その顔をあげてしまったものだから、鼻水とかいろいろ出ているみっともない姿を緑先輩に見せてしまった。彼女は慌てて、懐からハンカチを出した。
「こ、これ使うといいよ。まだ私使ってないからさ」
俺は言葉に甘えて、それを使って顔を拭く。
「洗ってから返します」と言って、ポケットにそれを入れる。顔を拭いた後で、彼女の表情が良く見えるようになった。
「大丈夫? 芥君、悲しいことでもあったの?」
彼女は顔を青くしていた。俺は首を横に振ってこたえた。
「なんでもないです」
心はこんなに崩れやすい。そう思うと、余計に自分がみじめになる。ため息もでず、胸につっかえたそれを出したいがために、俺は周囲を気にせず言葉を吐いた。
「消えたい」
言った後で、後悔の波が押し寄せ、吐き出してすっきりしたはずの胸の隙間に流れ込んで、冷え切った胸の温度がそれを、水も空気も入る隙間もないくらいに硬く閉じた。窮屈なその後悔の塊は、吐き出したくても吐き出せなくなる。緑先輩は、そんな俺の肩をたたいていった。
「ちょっとだけ、お話ししよ」
続
この作品に出てくる「アンリミテッドアイ」はフィクションです。作中でもフィクションです。