第9話「さようなら足踏みをしている自分」
この小説を読むときは、部屋を明るくして、画面から離れてね!
緑先輩とのお約束だぞ★
一刻を争うため、エレベーターを使い、最短で最上階を目指す。降りたのち、辺りを見回し、一番左の戸の方へ向かって走っていく。清掃員がびくついた眼で見つめてきたので、途中で早歩きに直した。
「ここが愛理の寮か」
いたって普通の、なんのかざりっけもない俺と同じドア。その同じドアの向こうに、愛理がいる。
「でも……」
ここまで来たところで、最後に愛理と会った日を思い出す。あの日、俺は彼女の中にデジャウを見た。それは高校の頃の自分だ。彼女の中に、まだ天子が好きだったころの自分を見たのだ。だから彼女に、両方のサークル室に来なくなった原因を聞くのが、どうしようもなく怖い。
「天子と話をした後のあいつの表情……」
いや、今はそれよりも彼女に、サークル室へ顔を出してもらうことを伝えるのが一番だ。そのために俺は、このスーツをつけ、アンリミテッドアイへと変身したのだから。
「熱きみんなの声援が、私に力を与える!」
そう言い聞かせ、もうこれ以上何かを考える前にインターホンを押した。返事がないことも予想はしていたが、あっけなくドアは開き、目を輝かせた愛理が出てきた。
「アンリミテッドアイ! どうしてここへ来てくれたの?」
彼女の洗練されていた筋肉質だった肉体は見る影もなく、二の腕と足は以前よりも細くなっていた。上着のないブラジャーと短パンのみのその格好は、胸の骨が見えるその胴体を強調した。顔は引き締まっているというより、老化したようにやせこけていて、ショートヘアーだった髪型は、肩にかかるまで伸びていた。愛理は「待ってて」と言い、ゆらゆらと不安定に壁を伝い、部屋へと戻っていく。何かの拍子に、床に散らばったものに足をつまずかせ、横転して頭をぶつけた。
「いたたた、いけないなこれじゃあ、アンリミテッドアイがおうちに来てくれているのに。礼儀の一つもなっていないなんて」
床を這い、なんとか進もうとする愛理を放っておけず、俺はブーツを脱ぎ、彼女の腕を肩にかけた。
「いいかい、愛理。私と一緒にクローゼットまで歩こう。勿論、私は着替え終えるまで背中を向けて待っているから」
愛理の瞳は、真正面の台所を見ていた。そしてわずかに蛍光灯の光があり、暗がりの瞳孔にともっていた。
彼女の案内でその場へたどり着く。リビングで座って、ゆっくりしていてほしいと視線で圧を掛けられたため、俺は二つある椅子の一つに座った。勿論、何かあれば駆けつけられるように、愛理がいる。同時に、彼女の家のあらゆるものが視界に映る。
「本当に、アンリミが好きなんだなあ」
日本で放映されていた、俺のよく知るアンリミのDVD全巻に加え、原作となったアンリミのアメリカンコミック全巻と、有名なロボットアニメの会社が手掛けた武器大全、さらには絶版となった小説版アンリミも全巻置かれていた。他にもフィギュアやらポスターやらがあちらこちらに置かれていて、アンリミが好きな俺でさえカロリーオーバーに感じた。
「ふふ、私のことがそんなに好きなのか」
中身は遅咲芥だが、まるで自分が好かれているような感覚になる。ああ、アンリミテッドアイになりたい。
「おまたせ、アンリミテッドアイ」
愛理は毛布で体を覆った。ゆらゆらと布が、開いている窓からの風で力なく揺れている。
「冷たいルイボスティー入れる?」
俺はお構いなくといい、席を立って無理やり彼女を椅子に腰かけさせた。俺も元の席に戻り、二人で互いを見つめあう。やつれているとはいえ、やはり愛理の顔は綺麗だ。
「アンリミテッドアイは、どうして今日、ここへ来たの?」
いきなりのドストレートな質問に、俺は思い浮かんだ言葉を反射的に返した。
「君の仲間達から伝言を受け取ったからだ。君のことを助けてほしいと、泣いて懇願していたぞ」
すると愛理は「そうなんだ」と言って、人差し指を机の上にくっつけて、くるくると回す。
「助けてほしいなんて言ってなかったのに?」
そういった後、慌てて俺に向かって頭を下げた。
「あ、ごめんね。アンリミテッドアイに言ったわけじゃないよ。こうして来てくれて嬉しかったしさ。でも、本当に今は放っておいてほしいの」
あのサークルのみんなに対してのその返事に、憤りを感じた。そのふさぎ込む後ろ向きな愛理の表情は、助けを拒む実、悲劇に酔ってしまっている。周囲の心配が余計だと跳ねのけるその態度に、つい一言言ってやりたくなってしまった。
「どうして彼らに相談しなかったんだ? 相談すれば、解決につながるかもしれないのに。そしたら君はまた、君自身を取り戻せるかも……」
すると突如、愛理はおいてあった絶版の小説を取り、俺の顔面に向かってぶん投げ、顔をしかめて覆う。泣き崩れながら、内に秘めていた真意をさらけ出した。
「アンリミ研究サークルでは、カッコつけたかったんだよ!私にだって、そんな感情はあるよ」
鼻をすする音、かすれた彼女の声が、彼女の中の俺が見ないようにしていた真実を、とうとう吐き出してしまった。
「LGBTQって知ってる? 頭のいいアンリミテッドアイなら知っているよね? 性の認識が普通の人とは違う人たちのことを言うんだ」
脳裏に、優さんや天子がよぎる。男から女に、女から男になった二人だ。同時に彼女は、本棚から1冊の本を取り出した。それは切られた跡や引き裂かれた跡があるが、かろうじてその表紙にはこう書かれていた。
“LGBTQ当事者を救う方法”
「私がなぜ、スーツをつけて人助けをしていたと思う?」
彼女は首を掻き、頭をくしゃくしゃにかきむしる。やがて動きがぴたりと止まったのち、低い声でこういった。
「私自身が変身したかったからだ。人に認められない、薄気味悪い自分から、みんなから認められる完全無欠のヒーローにね」
あの日、自分の発した言葉が徐々に重くなり、俺を押しつぶそうとしてくる。
「演劇で役を演じる。最初はそれが楽しいことだと思っていた。でも稽古を重ねるにつれて、アンリミテッドアイのスーツで包み隠していた自分が、露になっていくんだ。」
愛理の力になりたくてここへ来たはずなのに、励ましの言葉は花火のように浮かんでは消えていく。
「役の気持ちを想像すると言っても、その土台は自分の中にある物で、役を深めるほど、自分の中にあるものを掘り起こすことになる。そうして掘り起こした自分の心を、体を張って舞台の上でさらすんだ。それが私にとっては、見せたくない部分を見せているような感覚になって、苦しかった」
そう言い終えたのち、彼女は机にうつぶせになって押し黙った。俺も、とても自分から声を掛ける気にはなれないまま、刻々と時間だけが過ぎる。やがて愛理は顔を上げ、笑顔を作ってこういった。
「それを天子に言ったら、ただ練習がきつくて逃げたいだけの言い訳でしょ、って一蹴されちゃってさ」
その言葉はそっくり、当人に返してやりたくなる。その悲し気な、どこか諦めたような笑みで、ため息交じりにこういった。
「だから私は顧問に話して、しばらく活動を控えることにしたんだ。幸い、大会まで時間はあるから、役も他のやりたがってた人に譲ることができたよ。こんな中途半端な気持ちでやって、みんなの足を引っ張りたくないからね」
俺はそれに対して、たった一言だけ返す。
「そうなのか」
彼女が掛けてほしい言葉が思い浮かばないまま、俺は席を立とうとした。何も言えないんだ、仕方がないんだと、そう自分に言い聞かせながら立ち去ろうとする自分がいる。けれども同時に、このまま帰るべきではないという警鐘を鳴らす自分もいる。
でも、だけど、俺は誓ったんだ。先輩たちに、自分に、彼女をアンリミテッドアイに連れ戻すことを。
「芥という青年が、君に救われたと言っていたけれどな」
自分の名前を出し、こと伝えをしているという体で俺は返事をした。その返事に対し、愛理は自分のルイボスティーをそそくさと飲み干し、聞き返す。
「芥……他になんて?」
カーテンが風に揺られ、舞い上がる。その瞬間、彼女の目が変わった。まるで何かを期待しているかのような、そんな目。そして、彼女が期待しているそれを、俺は多分知っている。
『アドリブ、上手だったからさ』
いつか目の前の彼女がしてくれた、俺への称賛を思い出す。それを今度は、俺が返す番なのだ。
「遅咲芥は言っていた。一番ケ瀬愛理という人間が、俺にとってのヒーローなんだと」
発した言葉に、感情が持っていかれて、アンリミテッドアイの口調が崩れた。そして愛理は、頭を人差し指で掻き、顔を赤くし、髪を巻き付けて視線を逸らしている。打算的に彼女をほめようとしたけど、出てきたのは俺自身の、遅咲芥の本音だ。
「遅咲芥は言っていた。俺をもう一度舞台に立たせてくれてありがとうと」
愛理はもう一度、こちらへと顔を向けた。俺は言葉を続ける。とめどなくあふれ出てくる彼女への思いを乗せて。
「こうも言っていた。ひどいことを言った後、愛理から話しかけてくれてありがとうと。そして、」
ふと、言葉に詰まった。それは決していうことに困ったわけじゃなく、これを言うことで、言葉とは違うこらえていたものが出てきそうで、鼻にかかって。
「俺をあの場所に連れてきてくれてありがとう……とも言っていた」
俺は立ち上がり、「だから」と不意に叫んでしまった。そうしてそのまま、俺が本当に伝えたいこと、彼女にきっと伝えなければならないこと、それを包み隠さずに愛理に差し出した。
「愛理は、自分がこれまでしてきたことに罪悪感なんて持たなくていい。君は周りからかっこよくみられるために頑張ってきたし、そうでありたいという願いが生んだ言動に、助けられた人もいるのだから」
ぽつぽつと、彼女の瞳から水滴のように下に落ちていく。彼女はそんな自分に気づいたのか、すぐさま顔を肘で拭い、こう返事を返した。
「私、ここ数日で涙もろくなってしまっているみたいだ」
そういった直後、もう涙は止まっていた。好きな子を泣かせたという事実に、何も言えなくなりそうであったが、彼女の漫勉の笑みを見て、張り詰めていたものが緩む。そして、そんな俺のことを愛理は見逃さなかった。
「なあ芥、そろそろヘルメット外しなよ。息苦しいだろ?」
「ああ、そうだな。外すか」
まぬけにも返事をした後で、鎌をかけられたことに気づいた。
「やっぱり芥だった」
俺は観念し、マスクを外して愛理と目を合わせた。
「気づいてたの?」
「当り前だろ? その声質で、しかもアンリミテッドアイのサークルに入るなんて、君しか思い浮かばない。背も僕と同じくらいあるしな」
ごもっともの推察に思わず、ため息が漏れ、自分のあほさをまた痛感する。
「あ、あの、さっきは泣かせるようなことを言ってごめ……」
愛理は笑顔を作り、バッサリとかぶせ気味に言った。
「泣いてなんかない、気にすんな!」
そして、愛理はそういった後で俺の隣にやってきて、にんまりと笑みを浮かべ、くっついてきた。
「にしてもありがとな明、ずいぶんと楽になったよ」
愛理は顔をあげるなり、「よし」と言いつつ、毛布を天井へぶん投げクローゼットの方へ「しゅたたた」とオノマトペを言いながら走っていった。しばらくたって、そこから出てきたのは、いつもの赤い上着に黒い下着、そして青いジーパンの組み合わせの愛理であった。
「私復活、おととっ」
ふらついて、倒れそうになるところを間一髪で俺が受け止める。すると、愛理のお腹から音が聞こえてきて、愛理は顔を赤くした。
家の中の至る所をあさり、ポテチやコーラを出す。彼女はそれらすべてを机に置き、俺の方を見ていった。
「なんか無性に食べたくなってきたよ」
席に座って封を開封しようとしたとき、突如、久々にあのアラームが流れてきた。
『問題発見、問題発見、至急現場へ出動せよ。依頼者、』
俺は共通に突っかかる魚の骨のような感覚を覚えながら、そのアラームの中に、聞き覚えのあるその名前が入っていた。
『早咲天子』
スマホのゆうさんが作ったアプリからマップを開く。学校の屋上にシグナルが出ている。
「芥」
愛理はテレビを消して俺に近づいてき、彼女自身の思いを話す。
「彼を助けに行こう」
愛理が何と言おうと、現に、俺も天子との溝はもう回復できない。結局謝りたいのは自分だし、謝ったところで仲良くなんかならない。気まずい雰囲気が流れて終わりなだけだ。
「あいつはよ、本当に訳の分からない奴なんだぞ?」
何かに追われるように、俺は愛理にそういった。
「得体の知れない女、いや男で、俺のことなんか見捨てる奴だしな」
悪態をつけばつくほど、彼女と練習をした記憶が、一緒に月を眺めた暖かな記憶が脳裏をよぎる。そのたびに、胸の奥に切れ味の悪いナイフが深く突き刺さっていくような感覚になる。
「俺は人間ができちゃいない。あいつを助ける理由なんて思い浮かばないね!」
嗚咽と叫び声を放った時、頬に鉛玉のような激痛が走った。転げ落ちはしなかったが、それは重い、愛理からの一撃。彼女は俺の胸倉をつかみ、俺を鋭い形相で睨んで言い放った。
「大丈夫だよ!」
その眼差しが、俺の顔をまっすぐに映し、とらえていた。そんな目で見るなよ、俺の心はとっくのとうに曲がっているんだ。天子と別れた日からずっと、後悔が押し寄せて、今ですらそこから逃げるのに精一杯だ。でもこれが、今の今までこの後悔がつながっているというなら……
「謝りすらしないまま卒業した。彼女がいることを知ってて、この大学に入った」
言葉を発せば発すほど、自分の嫌な部分、人に見せたくない部分が、自分が好きな相手へとさらけ出される。
「俺はきっと、早咲天子を諦めきれてないんだ」
もう、笑うしかなくなる。だとしたらなんて滑稽で、あほな一年と半年だろうか。そして投げやりに愛理に言い放つ。
「俺、きも」
そう言い終えると、愛理は俺のおでこに強くデコピンをした。
「痛っ! なにするんだ」
愛理はにやりと笑い、眉をひそめてこう言った。
「その一途さに助けられた人間が、ここに1人いることを忘れるな」
愛理は膨れたお腹をさすりながら席を立ち、俺の肩をたたいて言い放った。
「持ちつ持たれつ。今度は2人で前へ進んでみるというのはどうだい?」
そしてふらつきながらも、何とか玄関へたどり着く。言いたくなくて、選びたくなかった決断。これは俺一人では絶対にしなかった。けれども目の前の、俺の世界を塗り替えてくれた奴こそがそうしたいと望むのなら、俺も勇気を出さないわけにはいかない。それに、1人だとまたずるずると引きずってしまうかもしれない。だからこそ、今しかないのだ。
さようなら足踏みをしている自分。そうすることで今、一歩を踏み出す。愛理が好きな自分へ、愛理を好きでいられる自分へ。そして、いまだに天子が好きな自分を許し、笑ってその後悔と共に歩いて行ける自分へ。
「愛理」
胸の内をふつふつと燃え滾らせ、より強く勢いを増す。ここにたどり着いた俺に喝采を、そして支えてくれた愛理に感謝を。
「行こう!」
マスクを被り、ブーツを入って、アンリミテッドアイになる。ドアを開けた先。きっと答えは、そこにあるものなんだ。
続
この作品に出てくる「アンリミテッドアイ」はフィクションです。作中でもフィクションです。




