プロローグ 晴れのち雨
この小説を読むときは、部屋を明るくして、画面に近づきすぎないようにしようね!
緑先輩とのお約束だよ。
何もかもがわざとらしい、お人形のような女の子だった。
空き教室に入ってくる俺を待ち伏せていたかのように、彼女は座って机に持たれていた。
「君、ヒーローは好き?」
女が使うにしては珍しい一人称だ。机の天板に頭と腕をもたれさせて、彼女はけだるげに問いかけてきた。曲がった腰が華奢な体のラインを映し、白い制服越しに、黒い下着が見えている。ショートな金髪の分け目からはアンニュイな童顔が笑みを浮かべていた。相対的に下半身は青いジャージを着ている。
俺は額の汗をハンカチで拭きながら、返答を返す。
「好きかどうかで言われたら、好きだな」
しかし、彼女はこちらがそっけなく返事をしたのにも関わらず、眉ひとつ寄せずにこう返した。
「僕とアンリミテッドアイ部を作ろうよ」
アンリミテッドアイとは、俺が小学生くらいの時にやっていたヒーロー番組だが、いい年した女子校生が真顔で言うことではない気がする。それとも、こんなかっこいい訳でもない肥満体の俺を口説いているとでもいうのだろうか。
「変な奴だな」
立ち去り際にそう言ってやると、彼女は身を乗り出し、股を開きながら横向きに座ったので、俺は瞬時に顔を逸らした。
「授業中、漫画とポテチを持ってここへやってくる君も、十分変な奴だろ? 先生に言いつけちゃおっかなあ」
逃げ場のない脅しをかけられ、俺は強制的に首を縦に振らざるを得なかった。すると彼女が飛ぶように立ち上がった。同時に、胸部もゆれる。何とか平静を装ちながら、俺は言い返した。
「お前だって、ここにいるということは授業さぼっているってことだろ。先生に言いつけたらお前も怒られるぞ?」
すると彼女は滑らかな金髪をはためかせ、天井を仰ぐ。そして左手で頭を抑えるポーズをしながら、声をあげて笑い出した。
「あっはっは、確かにそうだ。気に入った」
彼女は机の上に足を乗せ、太ももに肘を乗せる。膝を俺の頬にすりすりしながら、もう片方の手を差し伸べた。
「もう一度聞こう。アンリミテッドアイ部を作らないかい? 子豚ちゃん」
くつろぐ時間が潰れてしまうことに対するいらだちは募れど、やることができた安堵感があった。漫画は面白いけど、読み終われば罪悪感が大きくなる。受ける高校のレベルを下げてここへ来たというのに、やってることはそこら辺のクズと同等だ。そんな日々にそろそろ嫌気がさしてきたところだったのではあったし、何より得体が知れないとはいえ、彼女は可愛い部類だ。一緒にいたっていい。
「俺は遅咲芥、君は?」
彼女は手前に両手を広げ、うっすらと不敵な笑みを浮かべて言った。
「僕は早咲天子。好きに呼んでくれてかまわないよ、あっくん」
初対面のくせして馴れ馴れしい呼び方をされた。馬鹿にされているとしても、その美顔と美声で言うのは卑怯だとおもう。しかしその笑顔さえも温度の感じられない、分厚い皮で顔を覆っているみたいである。
「僕の名前を音読みすると、てんし。君は、あくた。「た」をぬけば「あく」。つまり悪だ。天使と悪魔みたいでしょ?」
やがて、今思いつきましたといった具合の調子でそういった。俺を軽んじているその態度に、今度は胸が痛んだが、そんなことお構いなしに、彼女はスケッチブックを出し、俺に見せた。
「なんなんだ一体」
スケッチブックを開き、その1ページ目を見る。
「魔剣怪人ダマスカス……様?」
その一言をトリガーに、彼女は前のめりになって力説してきた。
「アンリミテッドアイに変身する主人公の恋人に、魔剣である自分を言葉巧みに誘導し持たせて洗脳した、悪のカリスマ。魔剣の力に呪われた男は、それまで自分の体で行ってきた悪事を覚えてる。自分の意志でない悪事ほど、自分と相手を傷つけるものはない。もはや芸術なんだ」
撮ってつけたようなBL設定。どうせ腐女子御用達の薄い雑誌みたいな内容に違いない。そんな風に俺が想っていると、陽子が今度は俺の前に、絶対学校に持ってきてはいけないノートパソコンを力強く置いた。
「反応薄いね。アンリミ知らないの? それなら今、一緒にアンリミを見よう」
立ち上がろうとする俺の両肩は、背後から彼女の両手によって抑えられている。けれど地味に後頭部に柔らかい物が当たってくるので、そのための時間だと思いながら、目の前のちゃさいヒーロー番組を見ておくことにした。
5話まで見て、体に力が入って思わず立ち上がってしまったので、肩を掴んでいた彼女に頭突きをくらわしてしまった。振り返ると、陽子が鼻を抑えながらしりもちをついている。ってか、彼女が後ろにいたこと自体忘れてた。
「ごめんな、痛かったか?」
そういった俺の手を両手で握り、彼女は目を輝かせ、顔を近づけてきた。
「どうだった? 面白かった?」
その質問に対し、ノータイムで俺は頭を下げ、膝を付いて土下座をさせてもらう。
「薄い雑誌ってバカにしてたのは謝る」
その後は恐ろしいことにいつの間にか、俺たちは何時間もアンリミテッドアイという朝番組の魅力について語っていた。
我に帰ればカラスの声と、電柱のてっぺんについてあるスピーカーからアナウンスが流れてきていた。小麦色の空を背景に金髪をなでる彼女は、ゆっくりと俺の方に顔を向け、
物憂げに微笑む。
「いつか、出来たらいいなって思っていることがある」
天子は俺の机のスケッチブックを取り上げ2ページ目を開き、俺に見せた。それは、ダマスカス専用のオリジナルストーリーだった。
「これ、天子が考えた台本?」
俺がそう尋ねると、天子は金髪に指を巻き付けながら、ぎこちない笑顔で目をそらした。
「いつかアンリミテッドアイのリメイク作を、僕は作りたいんだ」
そういいつつ、その話をきいた一瞬は、どこか熱く込み上げてくるものがあった。
「やろうぜ、本格的によ」
心の赴くまま、深く考えずに俺は言葉を発してしまった。言った後で若干の後悔はしたが、彼女は目を輝かせて「本当に?」と聞いてきたのを見ると、後に引けなくなった。俺は作り笑いを浮かべて、自分の胸をドンと叩き、言い放った。
「この俺にお任せあれ」
俺は生意気な天使に手を差し出し、そういった。存外、こんなに心躍ったのは初めてなので、こいつならば友達にしてやってもいい。仲良くなる機会を逃したくはない。
すると陽子は、驚いたように目を見開いた後、柔和な笑みを浮かべて首を縦に振った。
「もちろん! 歓迎するよ、あっくん」
そんな他愛のないやり取りが俺たちの青春の始まりであった。まず、俺と天子は画用紙を用意し、そこにアンリミテッドアイの顔と敵キャラダマスカスの顔を描く。絵の具も使って塗り残しなく、はみ出さないように塗った。そして輪ゴムを使ってお面を作る。やっていることは幼稚だが、形から入るのは大事だ。他にも、また画用紙を使っていろんなものを使ったり、試しに陽子が書いた台本を読み合わせても見た。そうして一緒に過ごすうち、ひたむきな彼女の姿が、いつしか俺が学校で過ごす、心の支えになってくれていた。
野外の廊下の多い校舎の手すりには、雪が沿うようにして降り積もり、もたれかかれないほどであった。世間が誰もいない暗い校舎で、月の光の照らされながら、俺たちは話をした。
「君はどの大学に行くの?」
それに対して、俺が「特に決めてない」というと、彼女は月を見上げた。本当に、絵になるくらいに綺麗な横顔で、唇をなめるしぐさと、着こんだブレザーから見せる色白いうなじは俺の理性をなくしそうだから、気持ち分距離を取る。すると、足音を立ててしまい、天子に気づかれた。彼女はいつもより弱弱しく、囁くような声で吐息と、甘い言葉を発した。
「もっと、近くに来てもいいんだよ……」
自分のマフラーをとって、陽子の手で握ればへし折れてしまいそうな無防備な首に、背後から巻いてやった。そして肘が当たるくらいの距離まで密着する。すると、彼女は俺の手を握る動作とともに、手のひらに小さな何かを置いた。
「僕からのクリスマスプレゼント」
彼女から手を離し、開いてみてみると、アンリミテッドアイのデフォルメストラップであった。
「あ、ありがとう。俺からはこれっ」
声が裏返り、天子がくすっと笑った。彼女は袋に入ったそれを笑顔で受け取り、包装紙を取って中身を見る。
「嬉しいよ、ありがとう!」
ぼんやりと、空から落ちてくる月明りを乱反射する結晶。それを眺めながら、俺は切に願った。このまま魔法が溶けてしまわないようにと。
だが無情にも雪は溶け、春は訪れ、俺と彼女はずれ始めた。それはいつもの空き教室に、いつもと違う格好をした天子が入ってきたのが始まりだ。
「なんだ? イメチェン?」
ショートヘアーこそ今までと一緒だが、男子生徒専用の制服をつけていたのだ。俺はその行為の意図が全く分からなくて、ただ俺なりに頭をこねくり回してこういった。
「主人公の彼氏役だな? よく似合ってるぜ」
そう言ってやると、彼女は薄く微笑み、すぐまた浮かない顔をして言った。
「一旦、アンリミ計画は中止にしたいな」
彼女自身も自身がダマスカスの衣装を作っていた。それをすべて、一旦やめろとそうせがんできた疑問と、中止にするという図々しさに、徐々に頭に血が上っていきつつも、何とか平静を装おう。彼女は自分の腕をなでながら肩を震わせ、言葉を発した。
「勉強に力を入れていきたいんだ。もう今年度から、僕たちは受験生だし」
答えになっていない答えに、俺はさらに疑問といら立ちが募る。冗談じゃない。この活動をやめたら俺は、この高校で何も成し遂げてないことになってしまうじゃないか。授業をさぼっていたこんな俺も、この高校生活が意味のある物だったと思いたいのだ。そう思っている俺の気持ちを、彼女は一切聞かず、目を泳がせ、両手のひらを差し出し弱弱しく言った。
「君は僕を、女を見るような目で見ている。意識してなくとも、君のそのそぶりを見るだけで僕は悔しくなる」
一つ目と二つ目の理由が全く違う。彼女はきっと嘘をついている。本当だとしても、担いでいた片棒を突如、疲れたからおろそうと言っているようなものだ。その理由を俺にすり替えているだけだ。そう思うと我慢ならず、俺は彼女にこう言い放った。
「本当の理由を話してなきゃやだ。なんで中止にするんだよ」
彼女をつなぎとめておきたい気持ちがでて、強い口調で俺は問いただしていた。第一、彼女と俺は彼氏彼女の関係ですらない。頭が割れそうな矛盾に、気が狂いそうになる。追い打ちをかけるように、彼女は俺に向かって吐き捨てるように言った。
「これ以上一緒にはやっていけないと思ったからだよ!」
もう俺のことをあっくんとも言わない。その様子に胸を焦がし、瞼が熱くなる。蔑称のはずだったそのあだ名を欲していた俺。暗い外に映されたこの教室に、その表情はくっきりと映されていた。
「それじゃあ俺のどこが君にそう思わせたんだよ。ほら、体型か。そのことなら俺、いじられても平気だぜ。ダイエットするよ。臭いなら毎日消臭スプレーでもなんでも巻いてくるし、寝癖だらけなら直してくるから」
だから俺は、消えてしまいそうな彼女に声を掛ける。ポツポツと、頭上から降り注ぐスコール。今まで見たことない、彼女が見せる臆病な視線。
「僕が君を、好きになってしまったからだよ」
とってつけたようなそのセリフと、背を向け俺から遠ざかっていく彼女に、俺はただ踏みとどまってくれることを願い、呼びかけ続けた。
「待ってくれ、だったらいっそのこと、俺と一緒にいろよ!」
しかしその声は、灰色の廊下に虚しく消えていく。彼女もまた、俺から遠ざかっていく。その姿が見えなくなったのにもかかわらず、なぜか俺はありったけの声を喉の奥から押し出し、叫んでいた。
「頼むよ、俺を1人にしないでくれよおおお!」
俺の孤独を癒す場所はもう、どこにもない。今初めて気づいた。あの部活だけが、俺にとっての心の依り代だったのだ。陽子だけが、俺の学校生活の、人生の希望だったのだ。
彼女は背を向け、早歩きをした。だんだんと彼女が小さく、遠く、届かなくなっていくことを感じながら、俺は雨に覆いつくされて消えていくその姿を、ただ見ていることしかできなかった。
続
この物語に出てくるヒーロー「アンリミテッドアイ」はフィクションです。作中でもフィクションです。