27 不慮の転移 (2)
私はヒュー博士に、指輪のスキルで転移してライナスを助け出したときの話をした。魔王の代わりに封印されてしまったライナスがいたのは、この城の最奥の部屋だった。だから外からこの城の中に指輪で転移してくることは、可能なはずなのだ。
博士はそれを聞くと、私とまったく同じ推測を口にした。
「もしかしたら、この場所は特殊で、外からは転移できるが、中から外へは転移できないのかもしれないな」
「私も同じことを思いました」
念のため、図書室の中で場所を変えて試してみたものの、結果は変わらない。
「外へ出る方法はわかるかね?」
「方法はわかりますけど、道がわかりません……」
魔王城は、上層、中層、下層と三層に分かれていて、外との出入り口があるのは下層だけだ。すべての層は、内部が迷路になっていて、しかも下の層ほど広い。つまり下層は、魔王城の中で最も広い層となっている。正直、私はまったく道を覚えていない。
その上、下層には仕掛けつきの扉が二か所ほどある。
どんな仕掛けかと言うと、扉のそばに開閉用のレバーがついていて、レバーを下げた後、一定時間で自動的に扉が閉まるようになっている。
それだけだと、どうということもない話に聞こえるだろう。でもそのレバーは、それぞれ別の場所の扉を開けるのだ。しかも互いに遠く離れている上、道が大変に入り組んでいる。
レバーを下げてから開いた扉へ向かっても、たどり着く頃には時間切れで扉は閉まっているという、忌々しいことこの上ない仕掛けだ。
ライナスと一緒に通ったときには、まず私が片方の扉の前で待機し、ライナスがもうひとつの扉へ向かってレバーを引くのを待つ。扉が開いたら、ライナスのためにレバーを引いてから通過していた。もちろん、通過した後もまた待機。そこから合流する地点までの間も迷路になっているから、ライナスが迎えに来るのを待つのが一番確実であり、かつ早いのだ。
もしかしたらライナスなら、人間離れしたスキルを駆使すれば、ひとりでも通り抜けられるのかもしれない。でも、普通の人間には無理だ。最低でも二人いて、道をきちんと把握している必要がある。
ヒュー博士がいれば、二人という条件は満たせる。でも、肝心の道がわからない。
しかも、今は途中で魔獣に出くわさない保証がなかった。むしろ中庭の状況から判断するに、まず間違いなく出くわすと考えてよいだろう。ライナスと一緒に魔王城を出たときには、一体もいなかったのに。
そうしたことを総合的に判断して、下層を抜けて出口を目指すのは、あまりよい選択とは思えなかった。
ヒュー博士にそのように説明すると、博士は肩をすくめて「そうか。それじゃ、仕方がないね」と、あっさりと受け入れた。
「まあ、外からは転移が可能なんだろう? だったらそのうち隊長が気づいて、迎えに来てくれるだろうさ」
「そうですね」
ヒュー博士の言葉に、やっと私の肩から力が抜けた。安心すると、今度はお腹が空いてきた。何しろ、まともに昼食を取らずに一日中働き詰めだったのだ。
「とりあえず、食事にしませんか」
「ああ、いいね。すっかり腹ぺこだよ」
図書室の中央にある円卓の上に、ずっと握りしめていたバスケットを置いた。蓋を開けて、まずは木製のカップを取り出す。お腹もすいたけど、それよりものどが乾いた。もうカラカラだ。
でも、果実水の入った革袋は、もう中身がほとんどなくなってペタンコになっていた。昼の間、食事はまともにとれなかったけれども、水分だけはちゃんととっていたから。
果実水は、カップ一杯分しか残っていなかった。
カップに入れた果実水を、ヒュー博士の前に置く。博士はそれを見とがめて、眉をひそめた。
「もしかして、もう水がないのかな?」
「果実水はなくなっちゃいましたけど、大丈夫です」
私は自分用のカップを少し傾けてから、カップに向かって水魔法を使った。ちょろちょろとカップに水が溜まっていく。一回の魔法で半分ほど溜まるので、二回使った。
ヒュー博士は私がカップに水を入れる様子を、目を丸くして凝視している。
「そんなことができるのか。すごいな」
「本当は攻撃魔法のはずなんですけど、こういうときには便利ですね」
「攻撃魔法……」
博士は私の言葉をオウム返しに繰り返してから、こらえきれなかったようにフッと吹き出し、声を上げて笑い出す。うん、まあ、笑っちゃう気持ちはよくわかる。自分でも笑っちゃうし。攻撃魔法と言いながら、威力が皆無なんだもの。
それにしても、まさか私の水魔法が役に立つ日が来るとは思わなかった。火打ち石代わりに便利な火魔法ならまだしも、この水魔法。
さて、人間の生理現象として、食事をすれば、当然ながら排泄をする。
ここが中庭だったなら、ちょっと茂みの陰で用を足すこともできるのだけど、大変に遺憾なことに図書室だ。茂みなんて存在しない。どうしたものかと悩みそうなところだが、悩む必要はなかった。なんとこの図書室には、トイレが併設されているのだ。
部屋には入り口から見て前方左右の二か所に扉があり、片方が倉庫、もう片方がトイレらしき小部屋になっている。はっきりトイレと断言できないのは、私の知っているトイレとは似ているようで違うから。
小部屋の片隅に置かれているのは、見た目はトイレそのものだけど、白い大理石で作られた彫刻のようなものだった。言ってみれば、単なる置き物だ。見た目がトイレであっても、バケツに用を足すのと変わらない。中庭の茂みの陰で用を足すほうが、よほど衛生的だ。だから前回の探索時に見つけてはいたけれども、実際に使うことはなかった。
でも今回は、状況が違う。
中庭が危険だからこの図書室に立てこもっているわけで、もう贅沢を言っている場合ではなかった。何度も使う前に、助けが来るだろうという計算もある。実質バケツだろうが、ないよりマシだ。木製の蓋もついているから、多少は臭いも抑えられるだろうし。
そう腹をくくって使ってみたところ、これがトイレとしてはすばらしく衛生的だった。ただの置き物にしか見えないのに、使用後に蓋をすると、中身がきれいに消えてしまうのだ。いったいどんな仕掛けになっているのか、さっぱりわからないけれども、快適なのは間違いない。
振り子のない時計と言い、この衛生的なトイレと言い、この城の中は不思議に満ちている。研究者が見たら目の色を変えそうだ。いずれにしても、このトイレを使う機会はそう何度もないだろうけど。
だって、それほど遅くなる前にライナスが来てくれるだろう。そんなふうに、私たちは高をくくっていた。ところがどれだけ夜が更けても、ライナスは現れない。
その日、ライナスが私のところに転移してくることは、ついぞなかったのだった。




