質量とエネルギーの交差点
同じように繰り返す日々。
刺激など無く、ただ惰性的な生活。
彼がそんな日常に飽き飽きしていたのは事実だ。
だが今は、そんな「平穏」を何よりも欲していた。
彼は今、そこそこ交通量の多い交差点のど真ん中で立ち尽くし、一歩も動けないでいる。
横断歩道の上の信号は点滅を始めており、そろそろ青から赤に変わってしまいそうだ。
額から流れ出た脂汗を拭うこともできず、流れた汗が目に入る。
反射的に瞬きをしてしまうが、その微小な動作ですらも今の彼には命取りだ。
どこで間違えてしまったのだろうか。
一瞬の間に脳裏を駆け巡った彼の記憶の中に純白の液体が現れた。
「牛……乳……」
唇を震わせ、無意識にそう呟いていた。
死の瞬間に人生を走馬灯のように思い出すという。
もしかすると、今、彼の頭の中ではそれと同じ現象が起きているのかもしれない。
何が起こっているのかを言葉にしてしまえば、それはとてもありふれたつまらない出来事に聞こえるだろう。
だが彼は、この状況を打破し交差点から抜け出す一歩を踏み出すために、あえてそれを受け入れた。
彼は今、猛烈に、うんこが漏れそうなのだ。
交差点を渡り始めた頃にはまだ余裕があった。
横断歩道を渡り切った先にあるコンビニのトイレに駆け込んで、ズボンを下ろすまでの時間であれば耐えられるはずだったのだ。
彼は、自分の肛門括約筋を過大評価し過ぎていた。
今朝飲んだ牛乳が原因であることは明白であり、今なお脳内を駆け巡る走馬灯の記憶と照合すると、賞味期限が1週間ほど過ぎている計算になる。
彼は覚悟を決め、腹部を刺激しない程度に軽く空気を吸い込んだ。
耐えきる。
今、この瞬間に自分自身を、主に胃腸あたりを信じてやれなくてどうする、と己を鼓舞する。
唸れ、肛門括約筋!
いや、決して唸るな!黙っていろ!
脳から発せられる警告アラートを気合でねじ伏せつつ、足を前に進める。
軽微な振動、一瞬の油断が全てを無に帰す。
気分はまるで爆弾処理班だ。
腹の中にうんこという質量を抱え、覚悟のエネルギーによって交差点を渡り、コンビニに入った。
交差点を渡る数十秒の時間が、彼には何時間にも感じられた。
相対性理論の真髄に触れた彼が、コンビニのトイレに辿り着くまであと10秒。
「使用中」の赤い札に絶望を覚えるまで、あと7秒。
どうしても『第3回「下野紘・巽悠衣子の小説家になろうラジオ」大賞』に参加したいがために初めて書いてみました。
よろしくお願いいたします。




