(9)もし別れていなくても。
一気にたずねた私に矢野さんは驚いた顔をしなかった。
それによって、矢野さんももしかしたら、こうやって穏やかに歩みながら心のどこかで何か7年前のことを考えながら歩いていたのかもしれないと思った。
矢野さんは私をしばらく見つめたあと、小さく息をついた。
「……ん……。すぐに綺麗に言葉にまとまりそうにないから……あの、ベンチ、座ろうか」
指でさししめすのは、公園の芝生が続くなか、大きなクスノキの下にあるベンチだった。
木陰になっているからか、人通りの多い公園でめずらしく空いたベンチ。それは私たちに用意された場所のようにも見えた。
頷いて、無言でそのベンチに座った。
私と矢野さんの間に、隙間が少し。
並んで座っていると、どこを見ていいかわからなくなって、ぼんやりと目の前の公園の広がる風景を見遣る。
いくらか離れたところで、バドミントンをしている親子らしき姿や、シャボン玉をしている姉妹が見える。ところどころの花壇で咲き誇る花にカメラを向けている老夫婦。遠くには、芝生の下にレジャーシートをひき寝転んでいる人もいる。
「……俺が連絡先を渡したのは……あの時を逃したら、もう再会はないような気がしたからだよ」
矢野さんの声が、ゆっくりと私の耳に届いた。
――もう再会はないような気がしたから。
矢野さんの答えは、たしかに的確で、たしかにあの時を逃せば二度とあんな偶然があるとは思えないし、たしかに私の質問に答えてはくれていた。
でもそれを聞いたとき、矢野さんの答えが私の聞きたかった部分じゃないって、直感的に思った。
そうじゃなくて――……。
私が聞きたいのは。
「どうして再会を望んでいたの――……? 私のこと、憎んでないの?」
絞り出すような声になっていた。
そう、私が聞きたかったこと。
ずっと心にかかっていたこと。
再会したときにあやまっても、連絡先をもらっても、メールをかわしても、心の奥のモヤモヤがとれていないのは――……。
「矢野さんは、私のこと、――……大嫌いになってるはずでしょうっ!?」
語尾が、鋭いものになってしまった。
それは私の心が呻いているからだ。
私は自分のしてしまったことで、矢野さんが絶対に自分を嫌いになった、憎んでるはずだって思ってた。
再会することがあったら、あやまろう――……なんて思いつつ、心の何処かで、本当に心の隅では、再会して憎まれていること、嫌われているということを、現実に突きつけられることに怖れを抱いていた。
でも、再会した矢野さんは終始穏やかだ。
由奈が心配してくれているように、矢野さんが何かを隠して私を利用しようとしているとか、そんな可能性がゼロとは言い切れないのかもしれないけど。でも私にはそんなこと嗅ぎ取れない。
「……嘘つかれて、バレたとたんに連絡先断ってくるような女なんだよ、私」
自分で言って、自分の言葉が胸に突き刺さって、馬鹿だけど、苦しくて、膝の上で拳をぎゅっと握った。濃い茶のスカートに皺が寄るのを見つめていると、隣で矢野さんがちょっと身動きしたのを感じた。
全身で彼の言葉を待っていると、彼の「俺は……」と話し出すのが聞こえ、自分の身体が一瞬びくっと震えた。
「……俺はね……うん、なんていうか、あの時ショックだったのはたしかだけど……。憎しみとか、彩を大嫌いになるとかなかったよ」
矢野さんの口調はあくまで穏やかだった。
取り繕われてるんじゃないかって思って、私は顔をあげて隣の彼を見た。
彼は前を見ず、私に目を向けていた。
視線が合う。
彼は穏やかに、ちょっと「仕方ないな」って感じで、微笑んでいた。
「あの時、俺はすでに25歳で、18歳……19歳となる君とつきあうことに、すでに罪悪感とか、なんというか申し訳なさみたいなの、感じてたんだ。なんというか、彩の未来、もっといろんな人と出会う可能性を俺が封じてるのかもしれないなって……」
矢野さんの言葉は、初めて聞く想いだった。
当時、矢野さんは「年の差があるし……価値観とか縛ってしまわないかな」と時々口にして気にしていた。でも、それは単なる「年齢の差」だけを気にしてるのかな、と思っていた。
「ほら、うぬぼれかもしれないけど、彩は俺に一直線に駆け寄ってきてくれただろ? そう、あそこに見える小さな男の子がママの方に走っていってるみたいに。他が見えないって感じで……。あれほどに想われて、俺は嬉しかったけど、でも、そこまで憧れられるような自分自身じゃないとも思ってたから、怖くもあったんだよ……少しね」
言われた言葉に、どきっとした。
「それって……、私、重かった?」
「違う違う、重いわけじゃなかったよ……嬉しかったわけで。でも、ほら……俺の勤務スケジュールに合わせてデートの都合を決めたり、俺が好きなものを好きになろうとしたり……あまり普段は履いてないのかなって大人っぽい靴をはいてきてくれたり、当時、彩が一生懸命俺の隣にいようとしてくれたから……こそばゆくて……でも、いつか俺がそれほどの人間じゃないってバレたら……どうなるのかなって、怖かった。……あの時の俺は、ただの入社したての新人だったからさ、よけいに怖く思えたのかもしれないけど」
背伸びしてたのばれてたんだ。
でも、それを見守ってくれてたんだ。
そう思うのと同時に、矢野さんの言葉が、私の今まで思っていた過去の記憶に新しい風を吹きこんだのを感じた。
全然、気付いていなかったけど――……。
……そっか、私からいつも見上げてる自慢の年上彼氏「矢野さん」。だけど、あのときの矢野さんは、新卒研修中で……つまり仕事の実績をまだあげてない、社会人としては毎日が「新人」としてめまぐるしく変わる時期だったわけで――……。
自分の入社したての頃を思い出しても、わかる。入社したての頃って、先輩がすごく見えて、自分に自信がなくなって。本当にこんないくつもの仕事をこなしていけるのか怖くなった。
あの時、私とつきあっていたまさにあのとき、矢野さんは、院卒とはいえそんな「新入社員」の時期だったわけで――……。
いつも私の中で、どこか「完璧な大人」の記憶にあった「矢野さん」だった――……。でも、今、ガラリとその印象がかわった。
私の彼を見つめる視線から何かを感じ取ったのだろうか――……。
矢野さんがふっと笑った。
「意味、通じたみたいだね」
「え……」
「あのとき、俺が、社会的にはヒヨっ子だったってこと」
矢野さんがちょっと身体を傾けて足を組んだ。ラフな姿勢になって、口を開く。
「憧れられるような存在じゃなかったんだよ。だからね、街で偶然、君と君のお母さんに出会って……高校生のうちの子とどういったお知合いですかって、聞かれた時……答えられなかったのもそうだけど、彩が年齢以上に俺に憧れてくれる節があるなって感じてたことも、俺と合わせようと背伸びしてくれることも、妙に納得したんだ。……義務教育を終えてまだ一年半なんだから、院卒でまだ学生臭さの抜けきってない新卒入社の俺のことも『大人の男』としたキラキラした目で見上げるわけだなって……」
矢野さんはそこまで言うと、微笑んだ。
「だから……彩に電話もメールもSNSも通じなくて、連絡できなくなったとき……すごくショックだったけれど……どこかで、仕方がないって思ったんだ、俺は」
「……矢野さん」
「ごめん。あやまるのは俺の方なのかもしれない。俺は心のどこかで、背伸びしている彩がいつか俺の現実に気付いて離れていくのかもしれないと恐れてたから、あぁその時が来たんだなって……思ったんだよ」
矢野さんの言葉は穏やかだったけど、でも、なぜか心のどこかで悲しかった。
それは……それじゃ。
「矢野さんは……私とつきあってても、心のどこかで別れを予感してたってこと?」
つい聞いてしまった。自分の偽りや連絡を絶ったことを棚に上げて何を言うんだろうって感じだけど、矢野さんが私とつきあってたときからそんなことを考えていたと知って、たぶん、今の私の心はどこかが傷ついていた。
…………好きだった。好きでいてくれるって思ってた。その「好き」は永久に続くものだとおもってて、矢野さんもそうだと思っていた。
矢野さんは目を伏せた。しばらく黙ってて、それから私と目を合わせずに言った。
「……別れたいと思ってたわけではないよ。彩を幸せにしたいな……って思ってた。でも、自分の力だけでは幸せにしてあげられない、守り切れないって……怖がってもいた。だから、彩が俺の元を離れても……心のどこかで当然の結果になってしまったんだと自分を納得させた」
矢野さんの言葉を聞いていて、胸が苦しくなってゆく。
もしこれが、昔の自分だったら「何勝手なこと言ってるの」って思ってたかもしれない。無我夢中で好きになってほしかったし、私の「好き」を信じて欲しいと思ったことだろう。私が離れていくかもしれないだとか考えながら恐れながらつきあってるなんて、きっと嫌だと思ってたことだろう。
でも――……。
今の私なら、矢野さんの言葉がわかる部分もあるのだった。
私の中に残る昔の十代の心の部分は矢野さんの言葉を「もっと怖がらないで奪うようにして愛して欲しい」と思う。でも、それに対して、今の私は、矢野さんが自分に自信を持ちきれない中、あがくようにしながらも心幼い私を大切にしようとしてくれたことがわかるのだ。
彼は私の先ほどの「重かった?」という質問を否定してくれた。でも、実質、それは「重荷」でもあったのかもしれない。彼が自覚あったのかなかったのかわからないけれど。
つきあったのが4か月だったから彼を追い詰めなかっただけで……。
年齢の偽りがあってもなくても……もしかしたら、私と矢野さんはうまくいかなくなってしまったのかもしれないと、ふと、今気づいた。
彼が好きで好きで視野がせばまっていた私は、きっと遠距離恋愛なんかすれば、もっと矢野さんだけに費やす週末になっていたかもしれない。SNSや電話で彼を束縛していたかもしれない。
高校生の付き合い方を、遠距離でまた働きたての彼に「同じようにして」と迫ってしまっていたかもしれない……。
「……私たち、あのまま、もし付き合い続けても、別れたかもしれないの?」
「さあ……それはわからない。……でも、今話したみたいに俺は思ってきたから……憎んでないよ」
矢野さんがそう言って、伏せていた目をまた私に向けて微笑んだ。
「スタジアムでさ、彩が大人になっていて……当たり前だけどびっくりして。でも、なんというか、あの偶然の一度で終わらせたくないなって思って、とっさに連絡先わたしたんだ。彩があやまってくれただろう。あの姿見たら、彩が苦しんできたことが伝わってきて。罪の意識感じて、何年も過ごしてきたのかなって想像も一瞬して――……あの一度の再会だけで終わらせちゃだめだって、思った」
「……」
「だから、メールくれたとき、嬉しかった。彩も悩んだのかもしれないけど、もう一度俺と会おうとしてくれたんだなって思って」
「……うん」
「彩はね、罪悪感も必要ないし、あやまらなくていいんだよ」
「……」
風がふいていく。昔、彼の前髪をゆらしていた秋風。けれど、今はスポーティに短くなっている彼の髪から風は感じない。適度に日焼けた肌。眼鏡をかけていたときにはあまり気付かなかった、はっきりした眉、通る鼻筋。
見つめる黒い瞳。彼のそこに映る、私。
「あやまらなくていいんだ」
返事しない私に、彼はもういちどそうはっきりと言うと、私から目をそらし、自分の腕時計に視線をやった。
「そろそろ、レストランに向かおうか。予約時間にちょうどいいよ」
「……うん」
立ち上がった彼に続けて私も立ち上がる。
ちょうど風が吹き、さやさやと木々の葉をゆらした。
ちいさな子どもの歓声、笑い声、遠くの噴水の水の音。
「きれいな青空だ」
矢野さんがそう言ったので、つられるようにして私も空を見上げた。
遠く遠くまえ晴れわたり、高く青さがつきぬけてゆく空。
「うん……赤や黄にそまった木の葉がよく似合う空だね」
私が答えると、矢野さんは目を細めて笑った。その優しい笑みは、私の胸をきゅぅと痛ませた。
それが過去の彼の笑みと重なったから胸が痛かったのか、今の彼の表情に胸が締め付けられたのかよくつかめないままに、私は彼について歩み始めた。