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(7)過去と今、夢と現実



 日曜日、仕事が休みなのをいいことに、小さな四角いカードと私は一日中にらめっこ。

 一日考えても、結局、答えはだせないままに、日が落ちて今はもう夜の八時を過ぎてしまった。


 昨日、偶然に再会した矢野さん。思わぬ形で手にすることになった、名刺。彼の連絡先。

 カード中央、「矢野真治」と書かれたその下には、昔、彼が新人研修を受けていた会社名と同じものが印刷されている。企業の住所、電話番号、サイトアドレス。彼の仕事用らしきメールアドレス。

 そしてその下の空白部分に、彼がプライベートのアドレスを交わすときに使う用なのだろう、手書きでメールアドレスが書き込まれていた。小さいのに、丁寧に書かれた読みやすい文字で記されたメールアドレスは、誰でも知っているフリーメールのドメインとなっている。それは、私の知らない文字の羅列に見えた。

 すくなくとも昔、私がスマホから消した彼の連絡先は、キャリアメールだったから、ここに書かれているものとは違ったはずだ。


 これに送ったら、彼のパソコンやスマホに、私のメールが届くんだろうか。

 届くんだろうな。

 そして、届いたら、どうなるんだろう。

 彼は返事をくれるんだろうか。

 返事をくれたとして、その先どうなるんだろう――……。


 由奈は、私が矢野さんから名刺をもらったと知ると、とても心配そうな顔になった。

 昨日、矢野さんとの突然の再会で動揺する私を、由奈はいったん彼女の家に連れ帰り、冷えたビールと惣菜でもてなしてくれ、ぞんぶん話を聞いてくれたが、名刺を見せると眉を寄せた。


『過去の男の連絡先……か』


 キュウリの塩もみをつまみながら由奈が呟いた。


『久々の再会に、連絡先わたしたくなる気持ちもわからなくもないんだよね……。彩が、矢野さんって人に未練があったようにさぁ……忘れられなくて、何度も夢にみるくらいだったようにさ、矢野さんって人も、何かしら彩のことがずっと気にかかってたのかもしれないし』

『私のこと、覚えてくれてたのかな』

『忘れてたら、名前だって思い出さないはずだよ。たださ、ちょっと彩には嫌な気分させる言い方かもしれないけど……』

『いいよ、言って』

 

 促すと、由奈がビールを一口飲んでから、言った。


『今の矢野さんって人は、彩の知ってる矢野さんとは、やっぱり違うっていうか……簡単に信用しちゃだめだと思うんだ』

『信用しちゃだめ?』

『……うん、もし彩がそのもらったアドレスに連絡をとるんだとしたら、彩も警戒心とか傷つけられる覚悟とか持った上でのぞまないといけないんじゃないかって思う。矢野さんって人にとったらさ、騙された上に、その彼女に突然連絡を絶たれたわけでしょ? 怒ってないわけないと思うんだ。すくなくとも、私なら怒るし、裏切られたって思うし……好きで大切にしてたからこそ、恨むというか憎んじゃう。でもさ、やっぱり好きだったわけだから気にかかるし……、思わぬ再会して、そして相手に心の底から謝られたら、ほだされると言うか、その場では許そうかなという気持ちにもなったりしちゃうかもしれない。喉元すぎれば熱さ忘れる、っていうか』


 そこまで言って、由奈はまたビールを含んだ。

 そしてしばらく黙った後、


『でもさ。辛かった記憶とか、悲しかった出来事って、消え去るわけじゃないし。特に裏切られたって不信は、なんていうか残ったりもするんだと思うんだ』


 静かだけど、きっぱりとした由奈の言葉だった。


『再会のその場では許しちゃっても、また、会って、きちんと話したいと思えるようになっても。逆にちゃんと時間をとって会っちゃうと、許したと思ったはずなのに、心の底に残ってる不信とか苦しみ……出てきちゃうこともあるのかなって。それを、相手に……矢野さんが由奈にぶつけないとは限らないよね。再会をただ喜んだり、どうしてたの? って近況報告をするのでは済まない、過去とガチンコに向き合うように突きつけられることとかあるかもしれない』


 ローテーブルにひじをつき、隣に座る私の顔をのぞきこむようにして由奈が視線を合わせてきた。


『それならさ、もう連絡は取らずにさ、7年も経つんだし、これを機に逆にすっぱり忘れる努力するのもありだとはおもうんだよね。それが相手のためになることもあるし。久々の再会に、矢野さんって人はとっさに連絡先を渡してきたのかもしれないけど……掘り返して蒸し返して、お互い傷つけあうだけかもしれないよ?』

『うん……』


 私の心をほぐすためにお酒を用意してくれた由奈だけど、本当はそんなに由奈はアルコールが強くなくって、今、すでに頬が赤くなり目が潤んでる。その目が心配そうにじっと私を見つめる。


『……彩はこの7年、矢野さんほどに好きになった人いないかもしれないけど、矢野さんっていう人には、すでに家族がいてお子さんがいてもおかしくない年頃でしょう? 連絡先くれたけど、相手が独身だとは限らないし……独身のふりして、今度は彩を騙そうとしてこないとは限らないじゃない……って、これは言いすぎか、ごめん。これは、私が妻子持ちに独身って騙された過去の私情が入っちゃった……』


 由奈は自嘲的に言うと、目を伏せた。


『ともかく……彩には幸せになって欲しいなぁ。私が騙されて不倫に巻き込まれて相手の奥さんに学内で悪評まで立てられて……泣いてわめいてボロボロの私のこと、見放さず、馬鹿にせずにいてくれたでしょ。感謝してるんだ。おんなじようになってほしくない。矢野さんはずるい人じゃないかもしれないけど……でも、昔のことを引け目に感じて相手の言いなりになるとかはあってほしくない』


 そうやって由奈は涙の滲んだ目をこすった。


『今、私が落ちついた生活できてるのも、サッカー狂だけど嘘のない人とつきあえてるのも、生きていられてるのも、彩が気にかけてそばにいてくれて、泣いたら慰めてくれたおかげ。そうやって、自暴自棄の私と一緒にいてくれたのは、彩も、矢野さんって男の人のことで、自分を責めて苦しんで抱えた経験があるからだと思うんだ。悔いても悔やみきれないことを、白紙にしたくしても白紙にできないことをしってるから、強く私を支えてくれたんだと思う。矢野さんとの別れで、彩はきっと変わった。同じように、矢野さんって人も、きっと何かしら、変わってると思う。外見だけじゃなくて』

『……そうかもしれない』

『変わってない部分が懐かしくなるのもわかるけど……7年は長いよ。赤ちゃんが、ランドセル背負う小学生になるんだもん』

『うん』

『矢野さんって人と連絡とるかとらないかは、彩の自由、だけど。だけど、もし連絡取りあうなら……矢野さんって男の人のこと、優しい人っていう過去の記憶じゃなくて、今の矢野さんって人をちゃんと見て、判断して。そして、彩のことも、過去のことをジャッジされるんじゃなくて、今の彩のことを見てもらえるようにして……そうじゃなきゃ、私は……やだよぉ……』


 いっつもさばさばとしているのに、お酒を飲むと泣き上戸に変化する由奈は、ぽろぽろと泣き出してそのまま何度もごしごしと目をこすったのだった。


 

 ****



 一枚の名刺をずっと見つめる。見つめたって答えはでてこない。

 でも、心の中では、すでに自分がどうしたいか答えがあるように思う。


 由奈の言葉が、私の胸に残る。


 ――……今の矢野さんって人をちゃんと見て、判断して。

 ――……彩のことも、過去のことをジャッジされるんじゃなくて、今の彩のことを見てもらえるようにして……。


 矢野さんに連絡したら、何かが動きだす。動き出してしまうだろう。

 それが怖いのなら、やめておいた方がいいんだろう。


 でも――……。

 なんどもこの名刺を捨てようとしても、捨てることができず、今日一日もんもんとしてしまったわけで。

 私の心は、結局のところ、決まってるんだと思う。

 

 ずっとずっと繰り返し、夢にみてきた。

 秋になるたびに、繰り返し繰り返し、過去の記憶をたぐりよせて、ごちゃごちゃになりながらも、彼を夢見続けてきた。

 でもそれは、私の中でぐるぐる回ってただけのことで――……。


 なんにも、過去と「向き合った」わけじゃなくて。

 矢野さんと真正面から向き合ったことにならなくて、彼の心も考えも知らないままに、ただ自分の感傷に浸っているだけだった。連絡先もなんにもなくて、どうしようもなかったのもある。


 これはチャンス。

 由奈は私に友達として心を寄せてくれてるから、私が過去のことを責められるんじゃないか、過去を引け目に感じることで不釣り合いな関係に持ち込まれたり、騙されたりするんじゃないかと心配してくれる。

 でも、私は、責められて当然なことをした。彼を騙したし、それを冷静に対応する彼の誠実さすらぐちゃぐちゃにしたのだ。

 だからこそ、今、責められても、騙されても、痛い目にあったとしても、彼の本音を聞きたいと思う。――……過去の彼がどう思ってたか、恨み言でも怒りの言葉でも、今こそちゃんと逃げずに向かい合いたいと思う。


 彼が、「会える?」と聞いてくれたんだから。

 矢野さんの真意がなんにせよ、この機会を逃してはいけないんだろうと、一日考えて――結論をだした。


 私は彼の名刺を見ながら、スマホのメールアプリを起動させたのだった。



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