(6)偶然と必然
矢野さんも私と同様に、呼びかけてきた女性の方を向いたらしく、二人から眼差しを向けられた女性は、交互に私と矢野さんを見た。
「あ……ごめん、邪魔しちゃったね。みんなに、先に行っとくように伝えとこうか? ただ、食事処の予約時間もけっこう迫ってるから……」
女性が申し訳なさそうに私に軽く会釈したあと、矢野さんに話しかけた。矢野さんが一瞬、私の方を見る。矢野さんはこの女性をはじめとして、何人かと観戦にきたんだと察し、私はなんだかいたたまれなくなって、
「引き留めてごめんなさい」
とあやまり、頭を下げた。
それと同じくして、矢野さんが「堂下さん、皆に先に行ってくださいって伝えてくれますか……。追いかけるんで」と手短に伝えるのが聞こえた。
「わかった、道に迷ったら連絡ちょうだい」
手際よい返事と共に女性がもう一度私に会釈し、私がつられるように頭を下げると、その人はこの場を去っていった。質の良いスニーカー、Tシャツはユニフォームだけど、下は女性らしさを失わないスキニーパンツを着こなした後ろ姿。綺麗な歩き方で遠ざかっていくのを、ぼんやりと見送った。
「……彩、何か言いかけてた?」
ふいに声をかけられて隣を見ると、矢野さんが半歩私に近づいていて、私の隣に立っていた。
見上げた時、既視感があった。
彼の顔を見上げたその自分の頭をあげる角度が、無性に懐かしいのだ。きっと、背の高さは互いに変わってないからだろう。その見上げる感じは、過去の記憶、夢で何度も繰り返す通りだった。
言いそびれたことを思い返す。
――……会いたかったということ。
でも、今ここであらためて言うのはおかしいように思えた。「ずっと、会いたかった、忘れられなかった」ということは伝えないでおこうと思った。今日会えた偶然を喜びを伝えられればそれでいい。それが、矢野さんにも負担にならない形じゃないかなって思えた。
「私、今日……偶然でも会えて良かったと思う。びっくりしたけど」
「彩……」
「うまくまとまらないけど……。たくさんの、ごめんなさい、と。それから、ありがとうって、伝えたかったんだ」
彼の顔を見上げてそう言うと、矢野さんは小さく息をのんだ。
見つめていると、矢野さんは一度何かをいいかけるみたいにして唇を開いたけど、また閉じた。
彼もまた、きっといろんな思いを抱えている。それとも、会いたくなかったと言いたいところを、私の気持ちを考えて、こらえてくれてるのかもしれない。
最初は驚いた眼鏡のない矢野さんの姿にも、ちょっぴり慣れた。
見た目はずいぶんと変わったけれど、こうしてそばに立って言葉を交わしていると、纏う雰囲気の本質なところは変わらないんだなって感じた。
矢野さんの、周りをせかさない、荒立たせない、なにか静まりを抱えたところ。
たぶん、昔の私も大好きだったところ。
今も変わりなく彼が纏っている空気をまぶしく思った。
変わったところ、変わらないところ。
もしかしたら、これからの夢は、眼鏡のない矢野さんが出てきてしまうかもしれないと考えて、ちょっぴり涙が出そうになった。
ちょうどそのとき、矢野さんの向こうにゲートに向かう人だかりの中で、きょろきょろしながら私を探しているらしき由奈の姿が見えた。心配しているのか、耳にスマホを当てている。私に連絡をくれているのかもしれなかった。
「……矢野さん、人、待たせてるんでしょ、行かないとね」
「うん……」
「私も、一緒に来た人、探してくれてるみたい。……もう、行くね」
そういうと、矢野さんがちょっとだけ眉を寄せた。
「……彼氏?」
聞かれて、首を横に振る。
「ううん、友達」
私が由奈の方に顔を向けると、矢野さんも私と同じ方向に追うようにして顔をむける。
通路の向こうで由奈が私に気付いたのか、示すように手をあげて、でもすぐに私の隣に男性が立っていることに気付いて戸惑ったように歩みを止めた。
「矢野さん……じゃあ、また……」
「……。彩、また会える? 連絡先……交換、してもいい?」
思わぬことを問われて、驚いた。
矢野さんが、私に向かってそうたずねるということが、意外だった。彼の中で、私はよくない過去のはずだろうに。
一瞬迷ってるうちに、彼は自分のバッグからさっと名刺を取り出して私に見せる。
「この一番下のメールアドレスは、プライベートのだから。もし、彩が、少しでも会ってもいいと思ってくれるなら、連絡して」
7年前には無かった強引さで矢野さんはそう言って、ペットボトルを持ち両手が塞がっている私が背負うボディバックの外ポケットに「ここに入れるから」とおさめてしまった。
「矢野さん……」
「じゃ……待ってるから」
矢野さんは戸惑う私をよそに、そう言って、踵を返してしまう。
呼び止める間もなく、あふれる人の流れに矢野さんは身をすべりこませるみたいにして、行ってしまった。
立ち尽くしていると、由奈が駆け寄ってきた。
「彩……あれ、誰だったの……っていうか、まさか、まさか、あれが夢に出てくる男なの?」
由奈もまた驚いたように焦ったように問いかけてくるけれど、私はうまく答えられない。頭の中がぐちゃぐちゃにかき回されたみたいだった。
私の中で、矢野さんは、万が一再会したとしても、彼が私に会いたいと望んでくれるとは少しも思わなかった。嫌悪されるか、侮蔑されるか、無視されるか――それは覚悟していたけど。想像の中、彼が、「また会える?」と聞いてくる姿なんて、一度も思い浮かべなかった。
夢の中――過去の矢野さんは、立ち尽くす私、しかも両手が塞がっている私になおも名刺をバッグに入れて去ってゆくような少し強気で行動するような人ではなかった。
私の出方を返事を待っているようなところがいつもある人だった。
頭の中がぐるぐるしている。
でも、どうしようどうしようと途方が暮れている中でも、矢野さんのラストの言葉だけは鮮明に巡る。
――じゃ、待ってるから。
同僚たちが「待ってるから、行くね」とも、私の連絡を「待ってるから」とも受け取れる言葉。
――待ってる……誰が、誰を?
わからなくて、どこかで途方もなく怖くて、なのに、心の片隅ではボディバッグに入れられた名刺があることが、どこかどこか喜んでいる自分がいて――……。
わけがわからなくなって、私は話しかけてくれる由奈に寄りかかるみたいにして、彼女の肩に顔をのせてしまったのだった。