(3)夢うつつ
「――……っ」
息が詰まって、目が覚めた。
涙が目尻から耳へと伝っていく。
声がでない。
口を何度もパクパクして、あえいで、もがくようにしているうちに、だんだんと少しずつ息が通っていく。
「……ぅっ」
現実へと戻ってきたのだ。薄暗い部屋の天井。狭い、八畳のワンルームマンションの壁。
夢が覚めても、現実の一人暮らしの部屋に戻ってくる。当たり前だけど――……矢野さんはいない。
スマホに触れても、SNSやメールを開いても――……彼の存在を表すアドレスは、無い。
消したのは私。
逃げたのは私。
彼を騙したのは私。
――……ごめんなさい。なにも良いところがない、別れ。一方的な。
客観的にみれば、きっと切なさすら感じない、ただ愚かな女の子が一人でキレて怒ってアドレスを消した、黒歴史みたいな別れ。
たぶん、きっと矢野さんという人物とはとても不釣り合いな「浅はかな別れ方」を私は押し付けてしまった。
悔やんでもくやみきれない。
彼は、嘘をついていた私をなじったり責めたりしていなかったのに。
今思えば、話し合う余地を残してくれていたとさえ思うのに――……。もし、あの時別れても。つきあい続けることができなくても。
私が年齢を重ねて、まだ好きだったらつきあおう……くらいな、綺麗な別れ方だって、もしかしたらあったんじゃないかと思うのに――全部、私が壊した。
何もはまっていない右の薬指を撫でながら、私は部屋のチェストの引き出しの一点を見つめる。
夢の中で光っていた薬指の指輪、かつてほんのつかの間ここにはまっていた指輪は、今もまだ、私の枕元アクセサリーボックスにおさめられている。
起き上がって、開けば、輝いている――だって、別れても離れても、一生つけることがない指輪でも、クロスで磨いてしまうからだ。
******
「864円になります」
コンビニレジの店員にそう言われて、ごそごそと財布から千円札を出す。
おつりとレシートを渡してくれるその男性店員の顔が視界に入ったとき、まだニキビが残る頬とたるみのない頬から首のラインに、もしかしたら高校生バイトなのかなと思う。
土曜日の昼間だし、学生も働ける時間だろう。
「ありがとうございました」
抑揚のない型どおりといった送り言葉にかるく会釈を返して、24歳になった私は、気合いの入ってないニットのシャツワンピースにパーカーというダルダルないでたちに遅い朝食の入ったコンビニの袋を下げて、帰路についた。
過去の夢をみてしまう秋口の週末は、だいたいこんな感じで遅く起きて、朝食か昼食かわからないような時間帯に起き、コンビニで買って来た食べ物を身体に押し込むようにしてのみこみ、あとはただぼんやりと過ごしてしまうことが多い。
逃げてしまった苦い過去を夢で体感すると、どっと疲れる。心も体も。
仕事がある平日はまだいい。
他人に迷惑がかかると思うと、なんとか身体と頭を動かさなければと思え、背筋が伸びる。事務用品メーカーの経理担当の私は、各部署から集まる領収書と格闘して、同僚とため息つきながら書類提出の遅い社員にはっぱをかけるメールを送り、パソコンの計算ソフト相手に入力ミスが無いがチェックしてを繰り返して、とにかく自分の頭も心も仕事でいっぱいいっぱいにして過ごす事ができる。
休みの日がまずい。
秋の朝、半そでが寒く思えてカーディガンをはおるようになってくる、金木犀の香りを感じる、イチョウの落ち葉を踏む――……夢が過去を連れてくる。朝、目覚めることに勇気が必要になってくる。そこで仕事が無い日、夢を見る。
もう、夢に心と体が擦り切れてしまう。
普段、簡単なメニューとはいえ自炊しているのに、キッチンに立つ気にもならない。夢の中で、矢野さんを騙したこと、そこから逃げて連絡手段を自ら絶ってしまったこと――……その衝動的な過去の自分の幼さと愚かさが夢とともにずしんと心に残り、恥ずかしさと悔いで、ふつうの暮らしを行うことがすべて億劫になる。普段なら苦にならないことが苦になる。
逆に、いつもなら目に入らないようなことに気付き、いつもならスルーしていることをいろいろと考えてしまう。
たとえば、今の私が――……高校生のバイトの男の子とつきあうかっていったら、社会人と18歳未満という時点でノーだと思ってしまうな、とか。例えば、遊園地や映画でも大人料金と高校生料金が分かれてることとか、そんな些細なことが心にひっかかるだろう――……。
でも、私がしてたみたいに、年齢を偽られたらどうなんだろう。わかるのかな、わからないのかな――……とか。
馬鹿みたいに想像だけが広がってそして、いきつくのは、7年前の矢野さんと自分の姿。
7年前の矢野さんに私がしてしまったことは――……当時17歳の私が思っていたより遥かに重い裏切りだったんだなと、結局は自己嫌悪に行きつくというわけだった。
皆、20代半ばとなれば、十代の頃の自分を思い出して恥ずかしさを感じたりするかもしれない。悔いても悔やみきれない出来事があったりするかもしれない。
そういう物事を、みんなどうやって乗り越えているのだろうかと思う。
街ですれ違う、壮年男性、カートを押す白髪の女性、ベビーカーを押す夫婦……。
さして暗い顔もせず、泣き顔でもなく、ふつうに歩いてゆく人たち。みんな、抱えた後悔をどうやって向き合ったり、やりすごしたりしてるんだろう……。
そんなことを思いつつ、また気持ちは矢野さんに戻ってしまう。
矢野さんは、どんな風に乗り越えていくんだろう。
そもそも私とつきあったことを覚えてくれているだろうか。イタイ過去としてとらえてるんだろうか。女子高生に騙された思い出したくもない時間になっているんだろうか……。
もし再会しても、彼は嫌なだけだろうか。それとも私があやまったら……あのときの愚かさを悔いて謝罪したら、彼の心は少しは晴れるだろうか。
それともまったく、私という存在は消し去りたいんだろうか。
わからない。
なにもつながってなくて、わからない。
それに対して、私は悔やんでも悔やみきれないくせに、矢野さんとのあの4か月は宝物のようなきらめきを持っているからやっかいだった。
当時の私のどこに矢野さんに好かれるところがあったかわからない。でも、たしかに矢野さんは私を好きでいてくれて、大切にしようとしてくれた――……それは眼差しとか触れ方とか、話し方とか、とにかくすごく実感していて、年を重ねてもそれが覆されないから、よけいに落ち込んだ。
この7年の間、矢野さんのことを忘れ、新しい出会いに自分の心を解放させてみようと思ったりしたこともあった。大学生の頃は花見と称したいわゆる「合コン」にも何度か誘われて参加した。
でも、誰にも惹かれなかった。
二股だとか三股だとかを自分がもてる証拠だと勘違いしてる男なんかは最初から最低だと思ったけど、一見優しげでも本心は女性を見下してたり、自分の意見に従うのが当たり前だと思い込んでいるのが垣間見えたりして、興味が続かなかった。
それに、最初はちょっといいなと思う人がいても、いつのまにか矢野さんと比べてしまうのだ。
比べるのは相手に失礼なことと頭では思うのに、いつのまにか「矢野さんは、ゆっくり話を聞いてくれた」とか「身体にすぐに触れてこようとしなかった」なんて思っていて愕然とするのだ。
たった四か月ほどのつきあいだったはずなのに、矢野さんは異性として私を大切にしてくれていたのだと、他の人と二人きりになるたびに痛感してしまった。そして、私の目も心も矢野さんを探し求めているんだと、突きつけられてしまう。
そうしているうちに秋が来て、例の過去の夢をみる時期に突入してしまう。矢野さんのことが再び心に鮮やかになり、他の男性のことを異性としてみることができなくなってしまうのだった。
「あぁ……もう、やだなぁ……」
呟いて見上げる、澄み渡る秋の空。
この透明感のある青空に不釣り合いな澱みを抱えた自分。
何か変わりたい、変えたい、もっとすがすがしくなりたい――……。
そんな風に思った矢先だった。
秋になると不調になる私のことを知っている……矢野さんとの過去のあれこれもかいつまんで話している女友達の由奈から連絡が来たのは。
いつもスマホのメッセージで食事の誘いあいをする友達なのに、めずらしく電話が来た。
『ね、彩。サッカー観戦、興味ない?』
「え、サッカー? 由奈、私ね、Jリーグのチーム名すらよく知らないよ?」
突然のサッカーという言葉に驚いて返事すると、電話の向こうの由奈があっけらかんと笑うのが伝わってきた。
『そりゃ、誰だって最初はそんなものよ。何もしらないとこから始まって、徐々に知って、はまってくんだから!』
「そうかもしれないけど……」
『それに、熱狂的ファンと一緒に大声だして応援してたら、けっこういろいろスッキリするよ!』
サッカー好きの彼氏が急な出張で行けなくなったとかで、誘われたサッカー観戦だった。
別にスポーツに興味があるわけでもないし、かといって嫌いでもなくて、ただ友達の『スッキリするよ』という言葉にはすごく惹かれた。
「スッキリ、するの?」
『そ。スッキリするの。彩、そろそろ、”時期”でしょ? 今までは、どうかなぁと思って誘ってこなかったんだけど、チケットあるし良い機会かなって。行こうよ!』
由奈の声が思いのほかあたたかった。
彼女の気遣いを感じたし、私もちょうど何か変わりたい気分だったしで……OKした。