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(16)八年間


 席を立ち去る前、堂下さんが矢野さんと私を交互に見て言った。


「今日は引きずるみたいにして強引に矢野くんのこと連れてきて悪かったわ。心のどこかで、ここで前みたいに鉢合わせして、三浦彩さん、あなたの顔を見てやりたいって意地悪いこと思ってた」


 肩をすくめる堂下さんは、大きく息をついた。重いものを吐き出すみたいに。


「私、ずっと……あなたが苦しんでたとか考えたことなかった。それは、私が矢野くんしか見えてなかったからなのね。矢野くんを苦しめるあなたが……ブックカバーだけ残して消えたあなたが、ただただ憎かった。わかるかしら?」

「はい……なんとなく」

「そうかしら、わかるのかしらね、愛されてるあなたに。あなたは最初から選ばれすべて許されてたのに。……でも……そうね、許されてたって、辛いときもあるものなのね」


 堂下さんの言葉は手厳しい。けれど、その眼差しはさっきよりずいぶんとやわらいでいる。


「さよなら。……矢野くん、バイバイ」


 堂下さんが帰ると、次に由奈が「ちゃんと話し合うんだよ」と私の手を握ってから、タカシさんに支えられるように帰っていった。


 由奈にもタカシさんにも、どれだけ感謝してもたりない。そして、強く鮮やかに切り込んでくれた堂下さんにも。


 厳しいことを言ってくれる人なんて、大人になるとほぼいない。無茶苦茶なクレームまがいでしかりつける人はいても、親身になる人、本当にそれでいいのか真実を問いかけてくれる人なんて……たぶん、とても希少で。堂下さんは、私と矢野さんの不安定さを見抜いてしまったんだろう。そして、それを糺してくれたのだ。

 


 5人で座ると狭いと感じたファミレスのテーブルが、今は二人でぽつんと並んでて、広々と感じる。


「……俺たちも……出ようか。歩きながら話していい?」


 めずらしく、矢野さんが私に自分のしたいことを言ってくれた。私は迷わず頷いた。



 ****



 

 寒さに肩をすくめつつ、右手だけはあったかい。矢野さんと手をつないでいるからだった。

 いつのまにか日が落ちた道、スタジアムから少し離れた商店街はシャッターがいくつもおりてしまっている。


 しばらく二人で黙って歩いて、街灯に照らされる歩道をあてもなく進む。まるで家出の少年少女だ。

 身体が外の気温になれ、また歩いて身体がほこほこしてきた頃、矢野さんが言った。


「彩は、夢を見たの?……俺の?」


 私は「うん……付き合ってる時の幸せな時間、それが別れの時のシーンになって終わるの」と答えながら、今はもう見ることがほとんどなくなった夢を思い出す。

 

「矢野さんと再会してつきあってからは……もう見てない」


 言うと、彼は「そっか……」と呟いて、ちょっと暗い夜空を見上げた。


「なんか……俺の呪いで縛っちゃったみたいだな」

「そんなことないよ」

「ん……堂下さんも言ってたけど、あの頃の俺はとてもメンタルが弱くなってて……自分に自信がなかったんだ。だから、彩になにか傷痕を残してしまったんじゃないかって……気になってたけど、どうしようもなくて……」


 矢野さんの言葉は今夜めずらしく歯切れが悪い。


「……ごめん……」


 あやまったのは、矢野さんだった。

 どうして謝るのかわからなかった。


「なぜ謝るの?」

「……俺、たぶん……すごく……すごく、彩のこと好きだったんだ。好きというか……うん、あの頃の俺、好きだけじゃなくて……依存してたんだと思う。彩が俺を慕ってくれたから……前も話したけど、彩が俺についてまわってくれることが嬉しくて、でも怖くて……」

「うん」

「でも、それが一気になくなったら……俺は、どうしていいかわからなくなった」


 矢野さんの言葉が途切れた。

 次をじっと待つ。冷たい夜の風が私たちの間に吹き付ける。

 すれちがう車のライトがときどき私を照らしていく。


「情けないけど、彩がいなくなったら、俺は自分がどう立ってればいいのか見失っちゃったんだ。本当に情けないけど――……。堂下さんは、あまり俺のこと酷く言ってなかったけど……本当に情けなかったんだ。仕事するだけのマシーンみたいになっちゃって。そんな俺に、なぜか堂下さんは好意を寄せてくれてたらしいけど……。酷い話でさ、俺はあまりその記憶がないんだよ。ただ、寮の奴らとか同期の何人かが、代わる代わる訪ねてくれたなって思うだけ。俺は、もう、あの頃の俺はさ、他者が自分に好意を向けてくれていることすらわからなかった。山の中の研究所に配属されて社員寮生活だったのもあってさ……たぶん、あのときの同僚とか堂下さんとか、見るに見かねて、世話してくれて、外に出してくれて。身体動かすようにサッカー仕込んでくれて……だんだん俺覚醒していったんだよ。感謝してもしきれない」

「うん……」

「……でも、でもさ。手を差し伸べて立ち直らせてくれたのは感謝してるんだけど、ずっと思い出すのは彩のことばっかりで……。俺、自分が狂ってんのかなって思って来た」


 街灯に浮かびあがった矢野さんの横顔、それは苦しそうにも見えた。


「私の何を好きでいてくれたの?」

「……理由なんて、わかんないんだ。好きだと思った、心が動かされるんだ。何か俺がつぶやいたら、彩は名前の通り、俺のつぶやきに鮮やかな色をつけて返事してくれる。好きにならずにいられない」


 当たり前みたいに言われて、照れるまもなかった。矢野さんは、「でも……」と続けた。


「でも、こんなに彩だけもとめてしまうのって異常気質なのかなって悩んだこともあった。同僚たちにも言われたけど、冷静に考えて、四か月だけしか付き合ってなくて、体の関係も微妙なのが一回で……。忘れたらいいだろって。でも、忘れられなかったんだ。執着? これが執着って言葉にあってるのかわからないけど……。とにかく、いつまでも鮮明なんだ。彩が笑って俺の元にかけよってきてくれること、その時のイチョウ並木の黄色い綺麗な色、その向こうの青空。俺を『矢野さん』って呼んでくれるときの声、その響き、初めて指先が触れたときの、あのペットボトルの冷たさと触れた指先の熱さの火照りの差異……。気持ち悪いだろ、俺の記憶……鮮やかすぎて。……俺、たぶん、おかしいのかもしれない」


 苦笑した矢野さん。

 でも、私は矢野さんが言ったシーンが、どのシーンかわかる。だってそれは――何度も何度も繰り返しみた夢だから。


「気持ち悪くなんかないよ……私もずっと、夢に見てきた。私もしつこいのかなって……自分自身がずっと不安だったよ」

「……うん。彩も……忘れてなかったんだな、俺のこと」

「忘れるわけ、ないよ……楽しい記憶も……苦しい記憶も」

「うん、そうだな」


 矢野さんがやっとこちらを見た。苦笑いみたいな、眉がちょっと寄った笑顔だった。

 でも、それがきっと本当の矢野さんなのだろう――……。

 

「俺、あのとき……彩が、年齢隠してつきあえばいいって言ったとき、素直にそうしておけばよかったのかなって何度も思った。大人ぶって正論並べて、本当は彩と離れたいなんて微塵も思ってなかったのに、冷静なふりして、できるだけ紳士らしくあろうとして――……結局彩を失ったって。でも、逆に、無理に傍においたりして、無理矢理に縛り付けずにすんでよかったかもしれないと思うんだ」

「矢野さん」

「……あの時の俺だったら……自信がなくて、自分の自信をつけるために彩を縛り付けてしまったかもしれないから」

「縛り付けてくれても良かったよ。あの頃の私……本気でそう思ってた」

「言うと思った。それが、彩の怖いところだよね――……俺を甘やかす」


 私は返事に困って矢野さんを見上げると、矢野さんは笑った。


「でも、今の俺は少し成長したと思う。ボロボロになったことで自分が依存してたと理解できたからさ……。俺が彩を失ったあと、のたうちまわってたかっこ悪い時代を知られて、すごく恥ずかしいけどね」

「私は知りたかった……できれば、矢野さんの口から知りたかった」


 本音がこぼれでたら、矢野さんの眉がちょっとハの字になった


「ごめん……でも、好きな子にかっこわるいところ話す勇気なかったんだ……。『君がいなくなって、ボロボロになりました。人手をかりて、ここまでこれました……』なんて。もし言ったとして、それって、なんか恨み言みたいで……。俺、彩のこと恨んでないもの。前も言ったけど、ショックはあったけど、いつも失ってしまうと恐れてたから時が来たんだと思ったから」


 私の手を握る矢野さんの手がぎゅぅと力強くなった。

 

「今も失うって思ってる?」

「……絶対、離さない。離すもんか」


 そう言った矢野さんの手がちょっと震えたのに気付いた。

 それに連動するみたいに、私の心が震えた。

 言葉になっていないけれど、矢野さんの心の奥がほんのちょっと伝わってきた気がしたから。


 ――……きっと、矢野さんは恐れてる。たぶん、今も。


 もともと喪失をおそれていたのに、本当に私が唐突に連絡を絶ってしまって……。その痛み、サッカーをして体を動かして、観戦して喜怒哀楽を取り戻したように見えて……でもきっと、心の傷ってそんなに簡単に癒えるものじゃない。


 時間をかけて、ゆっくりゆっくりゆっくり……信頼を取り戻していくしかないんだ。



 信じてもらえるように、私は、矢野さんの手を握り返し続けるしかないんだ……。

 今、そう気づいた。 


 矢野さん――……。




 私の唇が彼に呼びかける。


 あぁ、たぶん。

 今まで、なんども「ごめん」「ごめんね」と繰り返してきたけれど。過去の一件にたいして、あやまってきたけれど――……。八年間分に思いをはせて、あやまることができたこと、今まであったろうか。


「ごめんね……。それから、ありがとう……。大好き、だよ」


 ひとつひとつ丁寧に言った。

 手をつないで、ぎゅっと言葉ごとに、握って。手でも会話するように。

 それから一呼吸おいて、小さく、彼の胸に響くように、ゆっくりと伝えた。

 

 私が言い終えると、矢野さんの顔がくしゃっと歪み崩れた。彼はそんな自分の表情を隠すみたいにまた夜空を見上げた。




   ……この八年間――……一人にして、ごめんなさい。



 彼に、やっと、届いたのかもしれない。



 

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