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(14)不信と信頼


 私は爪が食い込んで皮膚がやぶれてしまいそうになるくらい強く手を握って電車に乗っていた。

 由奈と前に言ったサッカーのスタジアムに向かっているのだ。

 家事は放りっぱなしにして、でも、とっさにくたびれたTシャツとジーンズのノーメイクは駄目だと強く思って、小綺麗な服装に着替え、メイクもきっちりして。

 彼にもらったブレスレットを左にはめて。そして鞄の中に、8年前にもらったシルバーリングの小箱をおさめて、私は、スタジアムに向かってる。

 キリキリした痛む心を抱えて。


 

 ****

 


 先ほどの由奈がくれた電話、動揺する私。

 

『私の間違いだったらいいけど……でも、ううん、ごめん……自分と重ねちゃダメってわかってるんだけど――……』


 由奈の声はもう半ば泣いていた。矢野さんらしき人が女性といるのを見かけて、気が動転して。見間違いだったらと、もしかして仲間と来てるんじゃないかと思ってシートまでつけていって、それでも、二人きりなことがわかって。しかも仲が良さそうに見えて。

 もうたまらず、電話してくれたのだった。


 由奈は、学生時代、妻子持ちの非常勤講師に独身だと騙されたままつきあって、本気で恋をしてしまって。でも先に夫の浮気に気付いた男の妻に大学に乗り込まれて大騒ぎになって、そこで初めて、妻帯者であることを知り、妻から悪評をたてられただけでなく、同時に逃げ腰になった男にまで学内で「由奈から誘惑した」などと噂を流され――……とことん人間不信、男性不信に陥っていた。

 すでに矢野さんとの別れを経験していた私、由奈と同じゼミだったこともあり、出会って、少しずつ友情を深めて――……その騒動の中でも、互いにいっぱい泣き合って、肩をだきあって、励まし合ってきた。

 その由奈が、生半可なことで私に電話したんじゃないことはわかった。

 ちょっとした疑いとかそういうのではなくて――……彼女なりに、とても心配するような、そういう矢野さんと同伴の女性の親密な雰囲気を――……感じたからだろう。


『手とかつないでるってわけじゃないし、二人ともスーツ姿だし、単に仕事帰りに同僚と試合に来ただけかもしれない。それもわかる、それも考えられるんだけど……でも、彩が知らないなんて……。ごめん、私の方が取り乱してどうするんだろ、でも……でも、彩が苦しんだら、やだ……』


 自分の過去のトラウマとも重なったのか、由奈の声がどんどん激しく震えていく。


 動揺している中でも、由奈の言葉の中の「スーツ姿」という単語に、ピンとくるものがあった。

 一緒にいる女性は、きっと堂下さんに違いないと思った。可能性のはずなのに、なぜか「確信」だった。


 その時ふいに、電話口の由奈の声と嗚咽が遠くなったのを感じた。まるでスマホを誰かに奪われたように、ざわめきが大きくなったかと思うと、『もしもしー…』と突如男性の声が私の耳に響く。


「え、由奈? あなた誰!?」

『あー……はじめまして、由奈の彼氏です。タカシです。いつも由奈お世話になってます、彩さんのこと、いっぱい由奈から聞いてます』

「あ、え??」


 唐突に耳から流れ出る男性の自己紹介。

 由奈から写真を見せられたり、話を聞かせてもらったりはしていた、今の彼氏。過去の悲しい出来事を乗り越えて、全部あらいざらい伝えた上で、つきあいはじめたサッカー大好きの彼氏と聞いてるけど……。


『すんません、由奈、取り乱しちゃって。なんつーか、由奈もちょっとフラッシュバックみたいになったみたいで、騒いだ電話かけちゃって申し訳ない。いま、ちょっと会話続けられそうにないんで』

「い、いえ……というより、由奈大丈夫ですか」

『由奈のことは、オレいるんで、大丈夫です。で、おたくさんのことなんですけど、だいたいオレもまぁ、うっすら状況つかめてる状態なんですけど、ようは彼氏さんが浮気してるのかどうかってとこですよね、……こっち、来てみます? 確認したらどうです? 勘ぐりだけ重ねてもしゃーないし』


 突然の言葉に、息をのむ。

 由奈から、「タカシは、行動第一っていうか、行動のみ……」と前々から聞いてたけど、まさに率直な言葉だった。

 

『あ。”しゃーない”っつーのは、仕方ないって意味です』

「は、はい……あ、なんとなくわかりました……」

『じゃ、こっち来ますか』


 大人同士のつきあい、縛っても仕方ないし、仕事のつきあいかもしれないし、ラブホテルの出入り口でみたわけじゃあるまいし、ただの友達とサッカー観戦を、単に異性ってだけで騒いでる私はとても子供っぽいのかもしれない。迷惑な女のかもしれない。


 ――……だけど。


 ひとり立ち寄った洋食屋さんで、再会した堂下さん。不思議な間合いの会話。彼女の視線――……。

 わからない、なんにもはっきりしたものはないけれども、何かがひっかかって気持ち悪い。


「……そちら、行きます」


 私の心は決まっていた。




 ****



 嫉妬に狂う女は醜いんだろうか。

 過去、偽っていた、嘘つき女は、嫉妬深い女になったってことだろうか。

 自分の彼氏が知らない間に他の女と二人で出かけている――……そういうのは、社会人だったら当たり前、なのだろうか。

 仕事なら、仕方ない、のだろうか。

 でも、仕事上のつきあいが……別の気持ちが絡んだものになる場合はないのだろうか……。



 それがたとえ片思いだとしても。

 「浮気」だとしても――……遊びだとしても。

 


 そこまで考えて、心の暗いところのドロドロした部分からささやき声が聞こえてくる。


 ――……浮気かもしれないよ。

 ――……もし浮気だったとしたら……

 ――……”どちら”が”浮気相手”なんだろう……遊ばれてるのは、だあれ?


 闇にのまれそうになって、ぐいっと拳に力をいれる。矢野さんといつ会ってもいいように、こまやかに手入れした爪が、手のひらにくいこむ。


 まだ、だめ。

 なにも決めちゃだめ。

 勝手に決めて、逃げてしまうのは、絶対、だめ。


 もし、矢野さんに別の人がいるのだというのなら、それがわかったのなら、この左手のブレスを返そう。そして、鞄の中にいれてもってきた指輪も返す、全部彼に返して……それだけだ。

 

 この数週間の想い出は、もともと再会しなければ「無かった蜜月」だ。

 彼との記憶は、悪夢に近い繰り返しみる過去で止まっているはずだった。

 それが、再会して動き出した――……。

 動き出したとしても、歯車が違ったならば、苦しいけれどいったんとめてしまわなければ。



「矢野さん……」


 夕方の電車の窓、そこにうつる自分の表情の醜さ、荒んだ瞳を自覚したくなくて、私は窓から必死に目をそらした。

 嫉妬に狂いそうになる気持ち、疑惑、不信――……そんなものに流されたくなくて、ちゃんと信じられる気持ち、彼と紡いだ優しい時間、矢野さんと合わせた肌のぬくもりの尊さを、大事にしたい自分もいて。

 自分の心が引き裂かれそうになりながら、私は必死に立っていた。



 ****



 スタジアムについた。由奈の彼氏のタカシさんから、試合終了したら矢野さんたちの出てくるであろうゲートをシートの場所から推測してもらい、電話で教えてもらう。

 サッカー好きの由奈とタカシさんに、私に関することでゲームに集中できない状況になったことを申し訳なく思いながら、ラスト数分の試合の大歓声をスタジアムの外に面する通路で聞いた。

 出店の店員や荷台で大量のジュースを運ぶ従業員などが行き来する試合中のスタジアム外。雄叫びのアナウンスとサポーターたちの歓声、地響きと共に、試合が終了したようだった。

 

 

 手にしているスマホが鳴った。


『彩? 矢野さんと女の人、タカシがさっき伝えたどおりのゲートに向かっていってる』

「ん、わかった。ありがとう……心配かけてごめんね」

『一緒にいようか?』

「ううん……ひとまず、頑張ってみる」


 電話を切って、ぞろぞろとユニフォーム姿の団体がどっとでてくるのを脇で待つ。


 ……私、なんてことしてるんだろうって思う。

 人を疑って、浮気かもしれないなんて思いながら出口に立ってるなんて、視点を変えたら気持ち悪い執着女だ。


 でも、心のどこかで、なにかわからないけれど、鳴り響くものがあるのだ。

 ここで答えがわかるような気がするのだ。

 いままで、どこかすっきりしないもの。爽やかにならないもの。

 矢野さんと気持ちを交わして、有頂天になって……でも、本当はその前からずっと静かに”在る”のに目をそらしている物事があって、それが今明るみになるんじゃないかって、論理だってないのに直感だけがそう叫んでいる。


 大量の人間がゲートからでてくる。

 ユニフォームの人ももちろん多いけれど、こちらのゲートは前に私が使ったサポーターズシート近くではないせか、仕事帰りのようなスーツ姿の人や私服姿の人もちらほら見かけた。

 そうして見つめていると、絶対にみまごうことのない、矢野さんの横顔が目に入った。

 濃いグレーのスーツ、タイははずしてネックボタンをはずしてラフにしている。その首筋、その横顔がむけられている先を目で追う。

 艶やかなボブヘアが目に入る。茶のコートにオフホワイトのショールを肩にかけた姿。試合後だというのに、以前と変わらぬ、崩れぬ綺麗なメイク……堂下さんだった。


 当たった直感が良かったのか悪かったのかわからない。

 二人とも同僚だから、矢野さんの「今日は仕事だから会えないんだ」という言葉も嘘ではない。そこに、仕事帰りに堂下さんとの予定があっただけで――……。

 でも、私はここで帰ることはできなかった。

 堂下さんが何か言うと、矢野さんが少しだけ口角をあげたのが見えた。微笑んだ、のだろうか。

 胸が何かで刺されたみたいに痛む。


 ここで目の前に現れるなんて無様そのもの。

 こんな大量の人の中に流されるようにして、私が現れて……矢野さんと堂下さんはどんな顔を見せるんだろう。


 純粋に驚く?

 しまった、みたいな何かばれたみたいな顔をする?

 

 わからない。

 怖い。

 だけど……。


 私は一歩を踏み出す。人の流れに紛れるようにしながらも、彼らに近づくようにして、人の間を進んでいく。

 ちょうどゲートから大きな階段につながるところで、私は彼らの少し後ろまで来ることができた。

 二人は時折なにか会話しているようだ。

 ギュウギュウのひとだかりから、売店の方へと人が流れ、ずいぶんと歩きやすい空間ができたところで、私は口を開いた。


「……矢野さん」


 声がしゃがれて、思ったより大きく通らなかった。けれど、私が呼んだ途端、目の前の彼の背が止まる。隣の堂下さんが不思議そうに矢野さんの方を見上げるのが見える。

 歩みを止めた矢野さんが、振り返った。

 すぐに目があった。

 彼の目が見開かれる。


「彩?」


 彼の驚く顔、そしてそれにつられるようにして、矢野さんの隣の堂下さんもまた振り返り、私を見た。

 堂下さんの目がとても鋭いものになった。それまで矢野さんに触れていなかったはずの堂下さんの手が、矢野さんの腕をひっぱるようにして、彼の肘に添えられたのを見た。

 わけわからず、カッとした。

 

「矢野さん……仕事じゃなかったの……?」


 何ていえばいいのかわからない。

 だから、私が知っていることだけをたずねた。矢野さんの表情がどんな風になるか、食い入るように見つめる。

 けれど、矢野さんは私の問いに、困った風でも隠すふうでもなく、すんなりと頷く。


「あぁ、うん。一日仕事のはずだったんだけど、堂下さんも手伝ってくれたおかげで半日で終わって……」


 矢野さんが説明すると、その隣から割り込むみたいにして、堂下さんが言った。さらりと、なんでもないことのように。


「仕事手伝ったお礼として、観戦、つきあってもらったの」

「……そうなんですね……」


 二人の返答に、私は、自分が疑り深かっただけだと突きつけられたみたいになって、急激に恥ずかしくなって、俯き加減になった。


「彩はどうしたの? もしかして、友達と?」


 問われて、とっさにうなずいてごましたい気持ちになった。でも、それをしたら、偽ってしまう気がしてできなかった。かといって、なんと説明したらいいのかわからなくて、即答できずに微妙な沈黙が流れた。

 すると、矢野さんの片肘に手を添えてる堂下さんが、


「疑われたんじゃないの、矢野くん」


と言った。

 はっとして顔をあげると、堂下さんの目が少し細められていた。


「矢野くんの、カノジョでしょ? 他の女と出かけるのを止めに来たんじゃないの? 若いし、やきもちじゃないの?」


 けっして話し方は意地悪な言い方ではない。さらっと指摘する感じ。なのに、どこか気持ちの悪さを感じた。

 堂下さんの言う通り、たしかに私は嫉妬と疑惑でここに駆けつけてしまった……その通り、なんだけど頷くのに躊躇してしまうような、堂下さんには小ばかにしているような雰囲気が私に放たれてるように感じた。

 そして、次の瞬間それは確信に変わった。


「ほんと、つきあうのやめた方がいいんじゃない? 疫病神みたいじゃない」

「っ……」

「堂下さんっ!」

 

 たしなめるような強い言葉が矢野さんから放たれて、私の肩がびくりと震えた。

 私に向かって疫病神と言った堂下さんは、けれども、まったくもって動じていない。それよりも、さらに私を見下ろすように威圧感をもって睨んだ。


 なぜ……と思う間もなかった。


「あなたを長く苦しませた張本人でしょ。この人が、あのインディゴブルーのブックカバーの女なんでしょ? なんで、今更、つきあうわけ?」


 堂下さんの、はっきりと半ば責め立てるような言葉が耳に入る。


 ――……インディゴブルー?

 ――……ブックカバー?


 私がはっとして堂下さんから矢野さんの顔に移す。

 その時初めて、矢野さんが辛そうに眉を寄せてるのがわかった。

 けれど堂下さんはそのまま続けた。


「年齢偽ってつきあってきて、バレたらあっさり逃げる女ってわかってて……また騙されるかもしれないわよ、矢野くん」


 堂下さんの並べた言葉が刃となって、胸が刺さる。

 

 この人は私たちの過去も知ってて……

 ドクドクと胸が鳴り始める。

 自分が矢野さんと堂下さんを”疑ってた”ことの闇ばかりでない。もっと深い、自分が過去にしたことを棚に上げて人を疑っていたということを……突きつけられた。


 何も返答できない。

 息すら告げない。


 私……。



 その時だった。

 私の隣に突然、大きな人影がにゅっと立った。


「あの~。注目集めてますよ、こんなところで話してもしゃーないし、移動しませんか」


 聞き覚えのある声に隣をみると、筋肉隆々、ボリューミーな巨体のマッチョがいた。全体が大きすぎて、横をみるだけでは胸板と盛り上がった肩しか見えず、顔が見えない。だが、その巨体横に、震えて青ざめている由奈が寄り添っているのが見えた。

 ……この人、タカシさん?

 驚きで言葉を失っていると、 


「誰なのあなた」


 と堂下さんが聞いていた。そんな堂下さんに軽く会釈したタカシさんは、


「彩さんの友達の彼氏です。タカシです。それはおいといて、マジ、こんなとこで痴話げんかぶちかましたら恥さらしだし、動画とられてアップされたら大注目案件なんで、場所、移動しましょう。ほら、彩さん、彩さんの彼氏さん、ボブヘアの美女さん、ほらいきましょ」


 すべらかにそう言ったと思うと、神社の注連縄のような筋肉の編み込みの腕をふりふり私たちを外へそとへと誘導しだしたのだった。




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