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(13)蜜月、そして。


 伝えた時、矢野さんは驚いた表情をしていたけれど、すぐに真顔になった。

 それは、ちょっと意外な反応だった。

 ふくらんでいて私の中の「うぬぼれ」が急速にしぼんでゆく。 


「彩、それは……その『好き』は、つまり、恋愛って意味で?」

「……うん」


 たずねられて、頷く。ほんの一瞬前まで、ちょっとは好かれてるんじゃないかとうぬぼれて有頂天だった気持ちが、いっきに不安と恐れに変化して、頷くのが精いっぱいになった。

 矢野さんが黙りこみ、私たちの周囲には風の音と波の音だけとなる。

 それがしばらく続いて、沈黙に耐え切れなくなった私は口を開いた。


「矢野さんは……私のこと、どう思ってる? 少しでも……好きと思ってくれてる? そ、その……恋愛的な意味で」


 問う声が震えてしまう。

 矢野さんの反応が静かすぎて、怖くなった。


「……矢野さん?」

「あ、あぁ……ご、ごめん。ちょっと……いやかなり、動揺して……」


 動揺という言葉に、私の心は不安できゅっと縮こまった。

 拒まれるにしても、きちんと矢野さんの言葉を受け止めなければという一心で、私は表情が怖くならないようにと精いっぱい口角を上げる。


「動揺させちゃった?」


 彼の態度があまりに脈無しという感じで、泣きそうになりながらたずねると、矢野さんがこくんと頷いた。


「うん……いや、だって……その……まさか」


 矢野さんの言葉に、私は覚悟を決めてぎゅっと拳を握る。拒まれる言葉が来ても、すでに彼女がいるって聞かされたとしても、絶対泣かない、すがるんじゃなくて、矢野さんの幸せを考えられるように……。

 そう念じた時だった。


「まさか、彩から言ってもらえるなんて」


 矢野さんの言葉が耳に届いて、それが頭で理解するまでに、時間がかかった。


 ……彩から言ってもらえるなんて?

 それって。

 

 顔をあげて、矢野さんを見る。

 日焼けしている矢野さんの頬が、さらに赤かった。


「俺は……今日、彩の誕生日に乗じて……こうして誘って……気持ち伝えるつもりだったんだ」

「……気持ちって……」

「俺ともう一度、つきあってください」


 彼の黒い瞳に光が灯る。その美しさが私の胸を打つ。

 はっきり告げられた矢野さんの言葉は、力強くて。でも、ちょとどこか上ずっているようにも聞こえた。その緊張をにじませているような口調が、彼の心が私に向けられていることの証に思えて、よけいに私の心は高鳴った。

 不安と恐れに包まれたはずの心がいっきにパアっと明るくなる。


「……今度は、幸せにするから」


 矢野さんが微笑みながら、そう告げてくれる。

 頷かずにいられない。

 何度も何度も頷いて、それから、もう我慢できなくて、彼に両腕を伸ばしていた。

 

「矢野さん!」


 刹那、私は包み込まれる。

 世界が本当に矢野さんだけになったみたいに。彼の長い両腕と広い胸板が私を包む。

 抱きしめられるぬくもり。互いに冬服のコートの厚みなんてなくなるみたいに、ぎゅうっと強く抱きしめられる。


 あぁ、ここだ。矢野さんの腕の中だ。

 心がいっぱいになって、うわごとみたいに口から気持ちがあふれ出る。 


「好き……矢野さん、好き……好き」

「うん、俺も……これからも、ずっと好きだよ」


 耳元で囁かれて。私の目から、嬉し涙が一つこぼれた。

 彼の唇がそっと私の頬に触れ、それから、私の唇へと移動した。

 最初はソフトについばむように、そして――……強く。もう離れぬことを宣言するみたいにして、互いにむさぼるようにして。




 ****




 きっと昔ならば、私たちは、名残惜しく思いながらも夕飯を一緒にとったあと、熱っぽい視線を互いにからめるだけで、でも抱擁とせめて口づけだけで、その日をさようならしていただろう。別々のベッドに眠って。


 でも、もう私も矢野さんも年齢的に十分に「大人」だった。

 かつて一度だけだけど、肌を重ねて朝日を見た。正確には、結ばれたわけではなかったにせよ――……。

 そんな私たちは、想いを交わし合って、抱きしめあって……離れられるはずがなかった。



 私たちは、その日、水族館を後にしてずっと手をつないで、そしてそのまま、夜を共にした。

 偽りの19、真実は17歳の誕生日のあの時は「うまくいかなかった」私と矢野さんは、8年の歳月を経て、初めて身体も結ばれたのだった。




 ****




「――……で、彩は甘々の蕩けたお顔になってるってわけなんですねぇ、はいはい」


 由奈がさらに「もうこっちが恥ずかしくなるよ」とブツブツ言いつつも、その顔はほっとしたような表情になっていて、私も良かったと思う。


「矢野さんって人のこと、心配したけど……うん、まぁ、そのブレスレットのセンスもいいし、彩にあってるし……悪い人じゃないのかなって、思えてきたよ」


 私の手首を見ながら由奈が言ってくれたので、私もあらためて自分の左手首を見る。私の手首には、細く今にも切れてしまいそうな瀟洒なブレスレットがついている。


 由奈と待ち合わせた創作和風料理を出してくれる店は、夜の営業時間かつ12月の師走に入ったせいか、なかば居酒屋化してとても賑やかだ。その片隅のカウンターに由奈と並んで座り、互いに好みのものを店員に頼む。

 メニューをあげさげして手を動かすと、その動きにあわせてさらりと手首を移動するブレスは、ここ二週間ほど毎日つけている。

 繊細な細いピンクゴールドのブレスレット、小さな小さな花のチャームが可憐についている。その細やかな細工は、私の手首を控え目に輝かせてくれる。しゃらりとした、軽く、心地よい感触。

 これは誕生日プレゼントとして、矢野さんが、一夜を過ごした翌朝にくれたものだった。



 もう二週間前になるけれど。

 甘いけれど、痛みをともなう……でもやっぱり「甘くて熱い」という言葉があてはまってしまう、夜を過ごした矢野さんと私。

 水族館デートの翌日は、互いに仕事だったものだから、一夜を過ごした後、まだ明け方暗いうちからバタバタと起きだして、照れつつ順番にシャワーを浴びてホテルを後にし、朝焼けの中、家に送ってもらった。

 身体に残る痛みと、けだるさをかかえながら、矢野さんの車から降りる直前。

 矢野さんから「その……昨日、誕生日プレゼントに渡すつもりだったんだけど、なんていうか、彩の気持ちを聞いていっぱいいっぱいになっちゃって……その……渡す、タイミングを逃して……」とおずおずとプレゼントという小箱を渡された。


「誕生日、おめでとう」


 その小さい箱、アクセサリーを思わせる箱を見た瞬間、思い出すのはやはり「19歳のシルバーリング」。重なる記憶に、それまで蕩けるような気もちだけになっていた心が、ひゅっと縮こまった。

 ……私が嘘をついた証――……。

 ……ううん、今プレゼントしてもらうのは、「今」の矢野さんから、「今」の私へだもの。

 一瞬自分の心を励ますようにして、過去に蓋をするようにして、そっと「ありがとう」と伝えて小箱を受け取った。


「開けていい?」


 緊張しながら開けると、そこには可憐な小さな花のチャームがついた細い鎖がおさめられていた。

 慎重に取り出すと、ブレスレットなことがわかった。

 矢野さんが点けてくれた車内灯の光を跳ね返し、キラキラと輝くブレスレット。

 その軽やかさに、なぜかほっとした。シルバーリングを渡されたときの胸の締め付けられるような気持ちが繰り返されなかったことに、どこか安堵した。


「綺麗……ありがとう。今、つけてもいい?」

「うん。俺がつけよう」


 彼がそっと私の腕を取る。ふっと昨日なんども身体に受けた口づけの熱さを思い出し、私の肌がざわめいた。

 矢野さんは、そんな邪な私の想いもしらず、真剣な目をして慎重にブレスの金具をはずし、私の左手首につけてくれる。

 手首の骨の部分に軽くあたる、ブレスの感触。手を動かせば、しゃらりと動く。

 

「……綺麗、ありがとう」


 彼は私の言葉に無言のまま、ただ微笑み、そして私の手首を再びとると、その彼からのプレゼントが飾られた手首の、血の通う私の内側に、口づけた。

 一度目は触れるように

 そして、二度目はまるで私の血をすいあげるみたいに。

 口づける彼から目が離せずにいると、彼は私の手首を口にしたまま、私を見た。

 それは、とても真っすぐな熱っぽい視線で。すべてがからめとられてしまうかのようだった。

 そうして、実質、私は矢野さんのことで身も心もいっぱいだった。



 今、報告もかねて数週間ぶりに由奈と食事をしていると、本当にこの数週間が怒涛だったなと思う。


「再会して、いっきにいろいろ変化したねぇ。ま、彩の表情がいきいきしているのが何よりだわ」

「ありがとう」

「平日も週末も矢野さんとの時間みたいだもんねぇ。お盛んねぇ」


 あえて語尾を伸ばしてニヤニヤ笑う由奈に、私は「もうっ、からかわないでよ」と言いつつも、結局私も由奈にこうしてからかってもらえるような状況になってることを嬉し恥ずかし楽しんでいるのだった。

 とはいえ、ちゃんと、


「でも、今週は彼は地元の研究所勤務だし、明後日の土曜日も矢野さんは休日出社らしいから会わないもん」


と伝えておく。別に……べったりというわけじゃない……はずだ。


「はいはい、そんな日ももちろんあるでしょ。寂しそうな顔しちゃってねぇ。ま、私も週末はサッカーの年内最終試合だからね、彩の相手してあげられないわーっ」

「由奈ったらぁ。大丈夫だよ、たまった家事すまさないといけないし」

「だよねぇ。彼氏と会うのが頻繁になると、掃除とかシーツやカバーの洗濯とかおかずの作り置きとか家事が滞るのわかるわー……。ま、我々は平日に時間を作りつつ、これからも友情を深めましょー」

「うん」


 二人して笑いあって、由奈が「彩の幸せを祝って!」と乾杯してくれて。

 賑やかな店内に負けないくらい、私たちも笑顔で楽しい時間を過ごした。

 心のどこかで、今、彼の研究所のある山間の街で、矢野さんはどんな風に過ごしてるのかな、とか想像しながら。そして、ちょっとそうやって心が彼のことでふわりとすると、鋭い由奈に「今、彼氏のこと考えてたでしょーっ」ってツッコミ入れられながら。


 つきあい立ての、甘くてこそばゆくて、あれもこれもがバラ色に見える毎日を過ごしていた。

 遠距離恋愛のはずなのに、互いに一人暮らしで、仕事から帰宅すれば基本的に電話もメールも自由にできてしまうような私たちは、学生時代のような制限もなく、特急や車を使って短時間でもデートすることも難しいことではなく――……。しかも、週によっては彼はこちらに仕事に来ていたから。

 恋を燃え上がらせるのに不都合なんてなかった。

 


 

 そう、三日後、由奈の震えるような声の電話をもらうまでは――……。

 


 たくさんの人が行き交う中でかけてくれているのがわかる、由奈の電話。

 スマホから聞こえる、ざわめきの中で震える由奈の声。


「……彩? ね、彩……矢野さんとうまくいってるよ……ね?」

「え?」

「……今、ス、スタジアムなの。あ、あのさ……矢野さんらしき人がいて」

「矢野さん……? 間違いじゃなくて?」

「う、うん……前、彩が矢野さんと再会したとき、見たもの……矢野さんだと思う。向こうは気づいてないかもしれない。と、とにかく、あのさ。その……女の人と二人で試合に来てるみたいで……」

「……」


 由奈の言葉にびっくりして、私はスマホを取り落としそうになるのを寸でのところで左手で押さえた。

 しゃらりと揺れる、ブレス。


「こ、これ、彩の合意の上なんだよね? 彩、矢野さんと女友達と出かけるの了解してるんだよね……?」


 由奈の声が泣いている。

 私も、由奈の言葉の意味がつかめなくて――……でも、だんだんと理解できていって。


「……聞いてない、矢野さんは、今日は休日出勤だって……」


 彼から聞いていたことだけを、呟くしかできなかった。


 

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