(12)告白
誕生日の前日。
明日着ていく予定の服はハンガーにかかって、すでによく見える場所にかけられている。靴も綺麗な状態にして、玄関にスタンバイ。
髪留めも気に入ったのを用意した。
あとは自分自身をボディウォッシュ。髪、お気に入りのシャンプーとコンディショナーで手入れして。それからボディクリームも塗って浮腫みがでないようマッサージして、指先も手入れしなおして……。
たっぷりしみこませる化粧水。乳液。ここぞというときの、ナイトクリームを施して。
しっとりとした肌、好きな香りに包まれてるバスタイムを終えた今の私。
心はうきうきしているはずなのに――……。
頭の中は、矢野さんと堂下さんの関係がどんなものなのかが気になって気になって、うっかりするとそればかりになりそうだった。
明日の誕生日で25歳になるというのに、なんにも進歩していない気がする。
心のどこかで、再会した矢野さんととんとん拍子に心が近くなって、誕生日も覚えてもらえてて、勝手に自分たちの関係が良いものになって、そして自分の思いを募らせていた。
でも、ちゃんと私は矢野さんに好きだとか、もう一度、付き合ってほしいとか、ちゃんと言葉にしないと本当は始まらない。
もしかしたら……矢野さんは彼女がいるかもしれないじゃない。
まさか彼女がいるのに、元カノの私と何度も食事ということを許すわけない気もするけど。
でも、と思う。
さっきの堂下さんみたいな、なんというか男性に依存していないような堂々とした女性は、もしかしたら、元カノと食事くらい全然気にならないのかもしれない。それくらい自由なのかもしれない。
気にしだすときりがなくて。ベッドにごろんと寝転んで天井見上げて「はあぁ」と大きく息をついたとき、ふと矢野さんがくれたシルバーリングのことを思い出した。
私の幸せを願ってくれた、過去の矢野さんの表情が脳裏を横切った。
ごそごそ起き上がって、リングの小箱を取り出して開けてみる。ちょこんとそこにある指輪が愛しく見えた。
偽りの年齢でもらった19歳のシルバーリング。
わたしが彼をだましてたことにはかわりないんだなって、このリングを見ると自覚する。突きつけられる。
そして、そんな裏切りものの私なのに、今、矢野さんと他の女性の親密さが気になって、身勝手にもじたばたしてる。
やっぱり、こんなに気にかかるということは、私、矢野さんのこと好きなんだ。
24歳の私が、今の32歳の矢野さんに、ドキドキしている。
もちろん、この手のひらにのる小さな小箱の中で煌めく指輪をもらったときも、どっぷりと矢野さんのことが大好きだった。恋して、憧れて、いっつもドキドキしてた。
でも、その過去をいったん置いておいても。私の知らない7年間を経た矢野さんのことを、私はあらためて、好きだと思う。これといって、大きな何かがあるわけじゃなくて、一緒にいる心地よさとか会話とか雰囲気とか、そういうものがいとおしくて、手放したくなくて、これからもずっとずっと一緒にいたいと思う。
――……昔、私の幸せを願ってくれた矢野さん。矢野真治さん。
――……私はあなたと一緒にいると幸せなんだなって、気付いたの――……一緒にいてくれますか。
気持ち伝えて、それで矢野さんの気持ち聞いてみようかな。
二人きりで何度も会ってくれるのは、なぜ?
それから、もう一度、私と付き合ってもらえるかってこと。ほんの少しでも、私との未来を考えてくれないか、ってこと。
聞いてみようかな。
うん、勇気を出そう。
はっきりしないまま、嘘ついたりごまかしたりするのは、絶対だめだから。繰り返したくないから。
私と矢野さんの関係がなんなのかはっきりさせたら、むやみに矢野さんと堂下さんの関係が気になって、ついついやきもちみたいにぐるぐる勘ぐってしまうこととも訣別できる気がする。
シルバーリングを見つめて願う。
もし叶うならば、矢野さんともう一度、一緒にずっといられますように………。
*****
とうとう日曜日が来て、私は25歳になった。
用意していたお気に入りの服に袖を通して。
矢野さんとの待ち合わせ場所に行くと、彼は予定どおり車で来ていた。
「誕生日おめでとう」
彼が笑顔でそう言ってくれる。それから、彼の車に促された。
ピカピカに磨かれた青色の車は、自分の車だという。いつもは出張中電車を使うけれど、今日は水族館などの距離や利便性から車を出してくれると言っていた。聞けば、昨日、わざわざ地元にマイカーを取りに戻ってくれていたらしい。
恐縮しつつ、彼が運転する助手席に初めてのりこむ。助手席に座って、案外閉められた空間だと運転席と助手席の距離が近いことに気付いた。
ハンドルを握る手が男らしく大きく筋張っていて、胸がドキドキした。軽くたくしあげた袖から筋肉質な腕が伸びていて、妙に色気を感じ、私は目をそらした。
海沿いのドライブ、冬の始まりの澄んだ空、風が強いのか遠目には波が強いように見える。
「暖房いれてるけど、寒かったり暑かったりしたら、遠慮せずに声かけて」
「うん」
何気ない会話、車内に流れるジャズピアノ。途中、コーヒーショップのドライブスルーでカフェオレを二つ買って、運転席と、助手席の間のドリンクホルダーにちょこんと二つ並ぶカップに、なんとなくときめいた。
二人きりでお出かけしてるんだなって気になる。
「あ、ごめん、カフェオレのフタの飲み口あけてもらっていい?」
運転中の彼に頼まれて、焦げ茶のプラスチック蓋の飲み口部分をパチンとあける。
「ここ置いていい?」
「ん、いま、飲むよ。ちょうど信号だから」
柔らかに返事して、矢野さんは右手で運転しながら、自然に左手をこちらに差し出す。どきどきしながら手渡すと、赤信号で止まり、矢野さんが私の方をむいて微笑んだ。
「ありがと」
「ううん、ごめん、助手席慣れなくて。ちょうどいいタイミングとかわからなくて」
あやまると、矢野さんは一瞬不思議そうに首をかたむけてから、またいつもの微笑を浮かべた。
「あやまることじゃないよ、彩。俺、いつもコーヒーとかカフェオレのみながら運転するのが習慣になっちゃってるから」
「うん、覚えておく」
何気なく返事したあと、自分が「覚えておく」なんて言って、まるでこれからも助手席に乗るみたいなことを言ってしまったことに気付いた。慌ててなにか言おうと矢野さんをみた。
そしたら、私が言葉を発する前に、
「うん、覚えてくれたら嬉しい」
と、矢野さんが答えて。信号が変わって、彼はさらりと前をむいて、発車させてしまった。
私の心臓は、いっきにバクバクしはじめた。
覚えていて、いいの? 次を期待していいの?
と、矢野さんの言葉の真意がつかめなくて、知りたくて、私の心はまた、さらに矢野さんでいっぱいになった。
ランチをとってから、イルカショーの時間に間に合うように水族館に入館した。彼は事前にチケットを用意してくれていて、並ばずに入れた。
可愛らしいイルカの優雅な泳ぎや、迫力あるジャンプのショーを楽しみ、次は本館の水槽が並ぶちょっと薄暗い空間を二人で歩くことになった。
館内には小学生や幼児連れの家族、そしてカップルなどさまざまな年齢の人がそれぞれ水槽をのぞき混んだり、案内説明を読んだりしている。
イワシの群れのキラキラした水槽にはりつくようにしてみる小学生。「水槽を触らないの」と注意する親御さん、手をつないで、一緒の角度に首をかたむけて水槽内の水草にかくれる魚を探している男女。
私たちはどんな風にみられてるのかな、社会人カップルとか思われてるのかななんて想像して、ひとり「社会人カップル」という言葉に照れた。
――……仲のよさそうなカップル、そんな風に見えたらいいな。なんて。
「どうしたの? クラゲ、すき?」
ちょっと歩みが遅くなったためか、突然、矢野さん背をかがめて私のほうに目線を合わせてきた。
クラゲの水槽前なことに今さら気づいて、内心、たゆたうクラゲにちょっぴり申し訳ない気持ちになりながら、
「あ……考えごとしてて。クラゲも綺麗だとは思うけど」
と、なにがなんだかまとまらない返事をした。
「考えごと?」
問われて、返事に困った。
矢野さんに、ごまかしたりウソをついたりはもう絶対したくないんだけど、さすがにまだ告白もなにもせず、自分たちがカップルらしく見えていたらいいなと思ってるなんて口にするのは恥ずかしすぎる。
「うん……考え事。あとで……話す、ね」
結局、困って、そう告げた。矢野さんは不思議そうな顔になり、それからふっと小さく笑った。
「じゃ、楽しみにしておこうかな」
彼の優しい言葉に私は気の利いた返事ができない。『私が想いを告げることは、矢野さんにとって楽しいことかどうかわからないけど――……』なんて、不安におびえる自分がツッコミだけ入れたけれど、それもまた口に出せないまま。あいまいに頷いただけ。
何を言うにしても、自分の矢野さんへの気持ちを告げない限り、どれもこれもがごまかしたみたいになってしまいそう。
それくらいに、自分の心が染まってしまってるんだと思う。
この広い水槽の大量の水、本当は透明であろう水が水色青色に見えるように。私の心が、今はまるで矢野さん一色になっているんだ。
****
水族館、丁寧に水槽ひとつひとつを見ていくと、意外に歩く距離があって足が少々疲れてしまった。
私の足取りが遅くなったことにすぐに気づいた矢野さんは、案内パンフレットを広げて私に見せた。
「歩き疲れた? 休憩しようか。館内にもカフェがあるみたいだし、外も公園とつながってるけど……」
案内図を示されるとき、彼と私の顔が思いのほか近づいた。
もちろん彼に他意はないのはわかってるんだけど、私の方が照れた。
彼の心配げにこちらをみる視線、その以外に長いまつげ、のぞき込んでくれる仕草。
きっと私は頬が赤くなっているだろう。照明があまり明るくない水族館内でまだ良かった。きっとたぶん、私の頬の赤味まではバレないはず。
半ば祈るようにそう思いながら、私はパンフレットの公園の部分に指を置いた。
「あ……外がいいな。ちょっと火照っちゃって……海に面していて眺めも良さそうだし……」
「うん、じゃ、そうしよう」
私と彼は手に持っていたコートを羽織り、水族館から出て、公園の遊歩道に続く道を歩き出した。
しばらく歩いていると、海風が強い。
冷たい風が頬をさましてくれる気がして、私は目をつむって風を受けた。
「気持ちいい?」
「うん。思ってたより風が強いけど、気持ちいい」
答えながら、軽く腕を上げ、縮こまった身体を伸ばすようにぐっと伸びをしてみた。
水族館についたのはお昼間だったのに、ずいぶんと日は傾きかけている。夕暮れにはまだ早いけれど、日が落ちるのがはやい時期だから、きっともうすぐ空に一番星が輝くだろう。
見上げれば、昼の青空から淡い水色の空へと変化している。風がつよく、こちらに到着した時より海の波は荒れ気味で、白い泡が立っている。
風が強いせいか、海に面した展望コーナーのようになったベンチの一角は、誰もいない。
とても静かだ。
潮の匂いの混じる強い風を味わっていると、シュシュでまとめていた髪が乱れたようで、一筋二筋と髪が顔にかかった。ちゃんとヘアスプレーをしてきたけれど、この風にはさすがに負けてしまったみたいだ。髪に触れてみると、かなりの乱れを感じる。
ぼさぼさのまま矢野さんの前に立っているのもはずかしい。かといって来たすぐなのに化粧室のある本館に戻るのも忍びなくて、髪を押さえながら矢野さんに手短に言う。
「あの、ちょっとそこの隅で髪を結いなおしてくるね」
「荷物もってようか」
差し出してくれた手にバッグをあずけ、私は木の陰に移動し、いったんシュシュをはずした。髪が風にのって広がるのを手でまとめなおす。
本当は矢野さんの視界に入らないなかでささっと結いなおしたかったのに、律儀に矢野さんは私の荷物を抱えて私と一緒に木の陰まで移動してきた。
はずかしくって、ちょっと彼に横顔を見せるような形で身体を傾けて髪をざっくりとまとめ、いわゆる『くるりんぱ』をする。
すると、矢野さんが、
「器用なものだね……よく、そう見えない頭の後ろのことを手際よく出来るなぁ」
と呟いた。
矢野さんの30代男性としてはあまりに素直な感嘆の声が想いもよらなくて、恥ずかしさが飛んで、ちょっと吹き出してしまった。
「慣れたら出来るものだよ。ヘアアレンジ、毎日やってることだし、私は編んだり、結ったりするの好きなんだ」
「結わずにおろしたりしないの? ゆるくウェーブかかってて綺麗だけど」
矢野さんの言葉にさらりと混じった「綺麗」って言葉に、私の胸はドキっと大きく鳴った。
動揺して、うろたえながらもかろうじて髪を結う指先だけ動かす。
「お、おろすことはほぼないかな。男性は、髪、おろしてる方が好きって場合多いみたいだけど、私はあんまり……」
たとえ髪だけでも綺麗って言われたことが嬉しくて、でも恥ずかしくて、しどろもどろに返事すると、矢野さんが一歩私に近づくのがわかった。
俯き加減の私をのぞきこむようにして見てくる。
「な、なに?」
「……ん……俺は……」
ちょっと背をかがめて小首をかしげるみたいにして私を見る矢野さんに、さらに心臓がバクバク音を立てる。
「俺は?」
「俺は……結っててもいいなと思う……」
ボソッと小さく矢野さんが言った。
目が合うと、彼はそっと目をそらした。
今度は私の方が彼をじぃっと見つめてしまう。
……思い違いじゃなければ。
矢野さんの頬が、いつになく赤い気がする。
これは、私の妄想? 想像? 願望?
矢野さんが照れてるように見えるのは、ただの私の目がそのように捉えたがってるだけ?
私が彼に向かって視線をそらせずにいると、彼はかがんでいた背を伸ばし、私からちょっと離れてしまった。それを私はちょっと残念な想いで見送る。
両手が髪をいじってる今じゃ、彼の袖を引くこともできない。
私はささっと髪を結い終え、シュシュの襞を手探りでひろげるようにして整えて仕上げた。
「どう、曲がってない?」
彼の前でくるりと回って見せる。
ちょっと、私は、今、大胆な気持ちになってる。プラス思考になっている。だって、彼の言葉や態度が私の気持ちをさらに高めてしまうから。
「うん、曲がってない。綺麗」
もう一度綺麗と言われて、私は照れと同時に心に自信が生まれたのを感じた。
矢野さんの私を見つめる眼差し、言葉、その表情。
落ち着いた態度の彼から時折こぼれおちるものに、胸が高鳴って、それは私をさらに期待させる。
もう気持ちが心からあふれて、彼に告げたく仕方がないって気になっている。
ちょうどはかったみたいに、海からの風がすこし弱まった。
もう、今しかない、と思った。
「矢野さん」
なあに?という風情で私の方を見る。青空をバックにして、彼の凛々しい眉、そのシャープな顔のラインがいっそう引き立つ。
胸がドキドキする。
「さっき、水槽前で後で言うっていったこと」
「あぁ、うん、なんだったの?」
「あれは……」
私は一度だけ勇気を振り絞るために息をすいこんだ。脳裏に、彼からもらった銀のリングが光る。幸せを願ってくれた、彼からの光。
「私、矢野さんのことが好きだな……って思ったの」
彼の目がちょっと見開かれる。
「好きだなって思って、それで、私と矢野さんが仲良しの社会人カップルみたいに見えてたらいいのになって思ったの」
言葉にしてゆくと、心がすっと軽くなった。
「……いろいろあったけど……でも、再会して、あらためて……矢野さんが好き」
好き。
心に残るのはそれしかなくなっていた。