(11)誕生日
矢野さんは、「彩が25歳になる誕生日、ちょうど日曜日だね。どこか行きたいところある?」って自然に聞いてくれた。
私は胸がどきどきして、嬉しくて。
返事がすぐにできなくて、いろいろと思い浮かべながら、心のどこかで、17歳の誕生日を過ごしたホテルのことを思い出していた。さすがに、それを今言えない。ちょっと悩んで「水族館」と答えた。
言ってから、子どもっぽかったかなぁと思ったけれど、矢野さんは「いいね。久しぶり……十年以上行ってないかも」と笑って了承してくれた。
そうして初デートといえるような誕生日を明日に控えた土曜日の今日、私は朝からデートに着ていく服の衣装合わせをした。
シフォンのスカートもニットの上もお気に入り、ショートブーツも好きなもの。なのに、どうしても髪留めのシュシュに違和感が残る。鏡の前で試行錯誤のすえ、結局、昼から駅前のデパートのアクセショップまで来た。
偶然矢野さんと出会えたら嬉しいけど……それはないんだろうな。
今週も矢野さんはこちらの会社に出張に来ていて、ホテル暮らしと言ってたからこちらの街には来ている。でも土曜日は用事があるとかで、誕生日当日の明日の朝の待ち合わせだ。
会えないのは寂しいけれど、ちょうど前日に準備ができて良かったなんて思いながら、デパートの髪留めを品定めすることにする。
シュシュの色あいや形、ボリューム。手にとって、店員さんが差し出してくれた鏡でチェックする。
シュシュでまとめるよりハーフアップにしようかな、それならこの髪留めかな。ニットの首元のボリュームとどうかな合うかな……。
デートの服装、髪留め一つがしっくりこなくて探しにでかけるなんて……それくらい気合が入ってるのって、いったい何年ぶりなんだろう……って、八年ぶりなことはわかっている。
7年から、もう8年へと過去はどんどん遠くなる。
8年前、私は矢野さんとすごす誕生日のために、とってもとっても気合をいれて準備した。服装も靴も、お化粧も……背伸びしたけど、でも、かっこわるくはならないようにいっぱいいっぱい友達とか雑誌とかネットとかアドバイス参考にして。もちろん、ランジェリーも、だ。
そして、19歳のシルバーリングをもらい……母と歩いているところを本当に偶然鉢合わせして……別れがあった。
長い時間を経て、再会して。もう笑顔でやりとりすることなどないと思っていたのに、今、彼と会う時間のために、髪アクセ一つでも納得いくまで選ぼうと気合が入ってる。不思議だと思う。
――……夢に追い詰められてきた時間がなくなるわけじゃないし、やっぱり負い目も引け目も、そしてちょっとした胸の痛みもあるけれど――……これは、幸せなひとときなんだと思う。
今の矢野さんと一緒にいて、私はやはり胸がときめいている。過去と比べて、とかじゃなくて。
彼がそっと私と歩調を合わせてくれること。食べるスピードも、私が遅くなってると、自然に合わせてくれる気遣いのあるところ。
仕事のこと、サッカーのこと、それから最近みたテレビやネットニュースのことをたくさんおしゃべりする時間。レストランで一緒に食事していると、食べているメニューや野菜やお肉の話に話題がとび、好き嫌いの話になったりもする。お互いに言葉を交わしながら、お互いの好みや習慣、「今」を形作るひとつひとつを知ることができるようでとても嬉しい。
楽しい。彼と一緒にいると、優しい気持ちとワクワクする気持ちが同時に沸き立つ感じ。
彼との時間を想いながら、たくさんのヘアアクセを見ていると、デパートのきらきらしい照明の下、ちょっとグレーがかったシックなピンクのシュシュを見つけた。白の刺繍糸で細かな模様で周囲を縁取られていて、ピンク系なのに落ち着いた華やかさがある。その色合いは明日着ていくコーデの色合いにピッタリと思った。
これをつけて明日待ち合わせして、一緒に水族館を歩きたいな。
歩いて、見て、眺めて――……きっと矢野さんとなら、楽しい。彼も私といることを楽しんでくれるといいな。
手にとって、それに決めた。
ピッタリと思ったシュシュを購入した後、なんとなくデパートのメンズファッションの階に足が向いた。
ブランドによって微妙にテイストが違うマネキンのスーツ姿を見ていると、つい考えてしまうのは、どれが矢野さんに似合うかということばかり。ブルーのシャツは理知的だから似合いそうだな、とか。以外に穏やかなブラウンも合うかも……とか。
そうこうしていくつかみているうちに、彼に似合いそうだなと思うマフラーがあった。濃くちょっと暗い青色……インディゴブルーにくすんだ黄色の細いラインが三筋編み込まれたマフラー。そのインディゴ色は、かつて、私が手作りで贈ったブックカバーを思い起こさせる。
同時に、このシックなマフラーは、今の矢野さんだからこそビジネスコートと格好よく合わせて使ってくれそうな気がした。
私は迷わず店員さんにプレゼントとして包んでもらった。
紙袋をさげて店を出て、なんとなく駅前を歩くうちに、ちょっと足が疲れて休みたいなと思ったとき、ふと矢野さんと行った洋食屋さんを思い出した。
再会してランチの約束をした、あの夫婦で切り盛りしてきたというレストランというより洋食屋さんのお店。
あのときのミルクレープ、美味しかったなぁ、と思い出して、休憩してから帰ろうと決める。
たしかランチタイムを終えてから夜の夕食時間帯に入るまで、奥さんのケーキとコーヒーのメニューを出してくれていたはず。
前に矢野さんと歩いた道を思い出しながら、落ち葉がずいぶんと少なくなった、冬の色が濃くなる道を進む。
大通りをぬけて二筋ほど入り、記憶にあるちょっとふるびた木製のドアを見つけた。
無事にたどり着けたことに安心し、ドアにかかる「OPEN」の文字にも良かったと思って、そっとドアを押す。
リーンとドアに取り付けられた小さな鈴の音がなる。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
にこやかな、先日と変わらぬ奥さんの笑顔にふたたびホッとした心地になり、店内を見回せば、お客さんはとても少なかった。カウンターに新聞をひろげた男性、窓際の二人席に女性二人がおしゃべりに夢中になっている。あと奥のテーブル席に一人で座り雑誌をめくる女性がいるだけだった。
穴場の時間帯だったのかもしれない。
嬉しい気持ちになって、二人席の片側につき、ミルクレープとコーヒーを頼む。
――……ケーキを頼んだし、夜は軽めにしないといけないな。矢野さんに、この店に来てるって、メッセージ送ってみようかな……。変かな……。
考えつつ、鞄からスマホをだそうとした。その瞬間だった。
「あなた……スタジアムの時の?」
隣から声がして、びっくりした。
見ると、となりのテーブル席で一人雑誌をめくっていた女性が驚いたようにこちらを見ていた。
手入れされた艶やかなボブ、目鼻をキリッとさせたメイクがよく映える女性。顔に見覚えがあった。
「矢野さんの……」
言葉にした途端、彼女も「やっぱり、あのときの……」と言った。
そう、矢野さんとスタジアムで再会したとき、同僚たちが待っていると呼びに来た女性だったのだ。
思わぬ出会いに戸惑い次の言葉が出ない私と違い、すぐに驚きの表情をおさめたその女性は、
「あらためて……。私、堂下千賀子です。矢野くんとは入社同期なの。あと、職場のサッカー好き仲間の一人です」
ちょっと微笑んでさらっと自己紹介する「堂下さん」に、慌てて私も会釈した。
「三浦彩です」
堂下さんのように矢野さんとの関係をさらりと言えない。どう表現していいのか、よくわからなかった。
ただ、堂下さんの「矢野くん」という呼び方にも、「仲間」という自己紹介にも、胸がどきっとして、妙に気にかかった。
なんども二人きりで食事したりしていたから、矢野さんには彼女はいないものだと思っていた。誕生日も過ごそうと言ってくれたし……。
でも、ふと、「矢野さんは本当に『彼女』はいないのかな』と疑問が浮かび上がる。
確認してない――……。今更ながらに浮ついていた自分を突き付けられたみたいな気持ちになった。
堂下さんは、私のことをすこし見つめていたけど、ちょうど店の奥さんがミルクレープとコーヒーを運んできたタイミングで、
「ここのミルクレープ美味しいよね。あ、バニラアイス添えなのね。私も、断然、バニラアイスを添えてるのが好き。……ごめんね、休憩しようとしたところ邪魔したね」
とさらっと言って、会話は終了した。
互いに別れの挨拶がわりの軽い会釈をして、彼女もまた元のとおり自分の座席の方にすわりなおし何もなかったように雑誌をめくりはじめる。
私も彼女を追いかけそうになる自分の目を皿に移し、ケーキにフォークを入れた。
無我夢中でケーキを口にいれる。コーヒーを流し込む。
でも、味なんてわからなかった。
頭の中では、ぐるぐると矢野さんの言葉とか堂下さんの言葉が巡っている。
このお店、矢野さんは『同僚が紹介してくれて気に入った』と言っていたことや、ここに連れて来てくれた時、矢野さんはメニューに書いてないのに「バニラアイス添えにするとおいしいよ」とミルクレープの注文の裏技を教えてくれたことが思い出される。
そして、今日の堂下さんの存在……。ミルクレープのバニラアイス添えが好きという発言。
結びつけたくないのに、結びついてしまう。
同期で今のこちらでの同僚、サッカー観戦の仲間。
前のスタジアムだって、矢野さんと堂下さん二人で来てたってわけじゃないようだった。仲間を待たせてるみたいだった。
彼女ではないかもしれない……。だけど、百パーセント違うと言い切れない。
同期で同僚まではわかるけれど、仲間ってどういうことだろう。
もしかして矢野さんがサッカーを始めたのって、堂下さんの影響ってこともあるんだろうか。
私は彼女でもないのに、矢野さんと堂下さんの関係が気になって気になって仕方がなかった。
でも、そうやって悶々としていると、どうしても堂下さんの方に目をやりたくなってしまう。無意識にでも、彼女がどんな人かと探りをいれてしまいそうになる自分が嫌になる。
ここにいたら、気にかかって仕方がない。
私はそそくさとケーキをたべ、コーヒーを飲み干し、彼女に向かってもう一度儀礼的な「予定があるので、お先に失礼しますね」と会釈をして――……逃げるようにして店をでたのだった。