(10)再燃する気持ち
矢野さんがこちらの同僚におすすめしてもらい、今では自分も気に入っているというお店は、公園沿いの大通りからははずれた、地元の隠れ家的な「洋食屋さん」という雰囲気のレストランだった。店をかまえて40年とコックのご主人とデザート、ケーキを担当されている奥様が言っていたけれど、私は来たことがなかった。
初めての店なのに緊張することなく、店内の席は満席だというのに、ゆったりとした時間が流れる、不思議とあったかな雰囲気の店だった。
リザーブの小さなパネルが置かれた席に招かれて、席につく。
メニューを眺め、彼はハヤシライスとサラダ、私はオムライス、二人ともデザートにそれぞれミルクレープのバニラアイス添えを頼んだ。
彼が言った「あやまらなくていいんだ」という言葉は思いのほか私の中に響き、そして、彼が心のどこかで別れを予感していたというような話が決定打となり、そのまま私はもう、過去に触れるのはやめようと思った。
彼も望んではいない。そして、私が思うほどに、彼は傷ついても私を憎んでもいなかったんだから……。
私は由奈が言ってたみたいに、今の自分で、今の彼と向き合っていけばいいのかもしれない。
食事が運ばれるのを待つ間、若干、緊張感があった私たちの間の雰囲気も、食事が並び出すとほぐれはじめ、美味しくいただくうちに他愛ない話を交わすようになった。
彼の研究は守秘義務もあるのか詳しくは話せないようだったけれど、日用雑貨などにもゆくゆくは使われて行くだろう新素材を開発しているとのことだった。開発してほしいと上層からくる要望の傾向に合わせる難しさとか、新しい組み合わせを考えついて試すときの楽しさとかを話してくれる。
私もまた、穏やかで滋味のある食事と落ち着いた店内の雰囲気にだんだんとくつろいだ気分になって、就いている経理の仕事の、締め日が近づくときの緊張感と慌ただしさなんかを、いつのまにか矢野さんに軽い口調で話すようになっていた。
今の矢野さんのように、いくつかの社や研究所を移動する人の交通費や交際費、出張費や単身赴任手当の事務処理が、いかに社員が期日を守った明細書や正確な書類の提出をしてくれるかにかかってると力説すると「出来るだけ早めに、誤記なく提出するように心がけるよ」と彼は笑ってくれた。
総務や経理への書類提出の話題は笑い話じゃなく切実なる想いなんだけど、彼と互いに仕事の話をしているのがすごく不思議で――そして、いつのまにか、私も笑顔で会話をしていることに気付いた。
彼と屈託なく話している。
会話が途切れても、それが居心地の悪いものになってない。
そんな自分に気付いた。
昔つきあっていたときもそうだった。
年齢差はあって、話題に違いはあったけど、うまくいえないけど彼と続ける会話が楽しかった。たとえ沈黙になっても、その静けさもまた居心地よくて。
秋晴れの気持ちよい広場で、投げたボールが適度な力加減で投げ返されて、気持ちよくキャッチボールができる感覚――……矢野さんとの心が軽くなるような会話が戻ってきていることに、驚いて……そして、戸惑って、でも結局、素直に嬉しいと思った。
デザートのミルクレープ、添えられたアイスクリームが溶けだし、とろりとしたところにスプーンを入れるころには、私も矢野さんも自然に目を合わせ笑いあっていた。
そして――……。
食事が終わって、夕方、駅で別れるとき。
私も流れるように、無理なく「じゃ、また……」と言っていた。
そう、ランチだけで今日の二人を時間を終わりにすることが……名残惜しいとさえ思っていたのだった。
矢野さんとランチをして別れ、本屋に寄ったりクリーニングを取りに行ったりして家に戻ると、由奈から電話があった。
『どうだった?』
『再会してよかったよ……。ランチを食べ終える頃にはお互い自然になってた』
心配げな友人の声に、私は自分でも明るいと感じる声で返事する。
『彼は彩のこと、良く思ってないとか、ひどいことする感じじゃないんだよね?』
『心配ありがとう……。でも、大丈夫と思う。矢野さんも、なんていうか年下とつきあう負い目があったみたいで……』
矢野さんが私にくれた言葉を話す。
由奈は電話越しに神妙に聞いてくれているのがわかった。
最後まで聞いた後、由奈は小さく息をついた。
『そっか……。私の心配しすぎ、だったのかな』
『心配してくれるのは、嬉しかったよ。でも、なんていうか、うん、大丈夫なんじゃないかな』
『矢野さんて人、冷静な人なんだね……。研究者って言ってたし、ちゃんと物事整理してとらえてるのかな。わたしだったら、恋人との別れをそんな綺麗に割り切れないって思っちゃうのは、私が感情的だからかもね』
電話の向こうで由奈が苦笑するのが聞こえた。
『そんなことないよ、由奈は親身になってくれたわけで……』
『ううん。とにかく、私が疑いすぎてただけならよかった。彩がずっと7年苦しんだのはやっぱり辛いことだったと思うけど、でも、思っていたより矢野さんという人は別れを恨んだり深い傷跡になったりしてないんだったら……彩にとって複雑かもしれないけど、救いもあるものね』
『うん。……彼も、もしかしたら、私の偽りがなくても別れを予感してたのかもしれないなー……って感じで……。変なんだけど、私はこんなに引きずってたのに彼はそうじゃなかったことがわかってね、ホッとするんだけど、ちょっと寂しいと思う気持ちもあったりしてね。心のどこかで、彼も深く傷ついて私を忘れてなくて、私との別れがずっと心に重くのしかかってるって……期待しちゃってたのかな。矛盾だらけだね、私。自分のしたことは棚にあげて、そんなこと思っちゃうなんて、器の小さい人間』
最後、ぽそっと漏らすと、由奈が噴出した。
『彩、そういうもんだよ、普通だよ。彩のそれくらいで器が小さいなんて言ったら、私なんて極小になっちゃうじゃん!』
『そんなこと……』
『自分が想いを募らせた大きさと、できれば、同じくらいの大きさ深さで想ってて欲しかったな……って、自然な欲求だと思う。実際、それをせがんでも、なかなか難しいわけで……あきらめともなっちゃうけど』
『うん……』
『ま、とにかくよかった。……その感じだと、元彼と元カノとして、まぁ穏やかな想いでになる感じ?』
『まぁそうかな』
答えると、由奈がちょっと柔らかくなった声でいった。
『もう、過去の夢、みなくなるといいね。うなされなくなるといいね』
『うん』
『またこれからも連絡とりあって、その矢野さんとちょっとずつ改めて知りあっていく感じになりそう?』
『わからないけど……もしかしたら、そうなるのかも』
『なら、過去の夢じゃなくて、楽しくて明るい今と未来の夢になるように、私も願ってる。だけど、彩』
『ん?』
『もしなんか変だと思ったら、絶対、無理しちゃだめだよ』
『うん』
『彩の幸せを、応援してるからね。ま、女友達として、経過報告かねて、また温泉でも行こ!』
『ん、ありがとう、またね』
由奈としゃべって、あらためて、今日の一日で、めまぐるしく自分の心が変わっていったのを感じた。重く横たわっていた何かが軽くなっている。その変わりに、過去、自分が信じていた時間がすこし切ない想いにもなったけど――……でも、矢野さんと話せてよかったと思った。
由奈との電話を切り、ふと気づいたら、スマホがメール着信の表示を示していた。
矢野さんからの、『今日はありがとう。会えてよかった』というメールだった。
*****
矢野さんに負い目はまだあるというのに、現金なもので、私はもうあまり夢を過去の現実と深く交差するような形では見なくなっていた。なんとなくおぼろげに、かつての彼との記憶が明け方夢になることはあった。でも、まるですべてが過去にタイムスリップしたみたいな夢にはならなかった。
そして、二度、三度と矢野さんと連絡を交わし、その文面や電話の会話も格式ばったものが消えてゆき……。
イチョウの黄色い葉が落ち、私の誕生日のある11月に入る頃には、彼がこちらに来社して互いに仕事が早くあがった日には夕食すら、一緒に取るようになっていた。
あくまでも、レストランだけ――その後にどこかに行くということはなかったのだけれど。食事だけのつきあいで、どこかにお出かけする……デートするところまではいっていないけれど。
でも、このままいけば、少なくともそうなると予感があった。
私も、食事だけでなく、今の矢野さんと、一緒に出掛けていろんなものを見たり、眺めたりして時間を一緒にすごしたいなって思っていた。
はっきり言ってしまえば、心はときめいて、彼との時間を恋しく思い始めて。
そして……誕生日を迎える数日前。
由奈が『彩、誕生日どうする? もし予定ないなら、ケーキもっていこうかと思ってるんだけど』ってメッセージをくれたものの――……。
私は、
『気持ち、ありがとう!……でも、今年はちょっと予定があって……』
と返事することになっていた。
早速、『矢野さんだね……。はいはい、邪魔ものは消えとくよー。ちょっと、後で報告、よろしく』というレスが来て、ひとり由奈の言葉に照れるくらいには……私と矢野さんの距離は近づき、私の心は再び彼に向いていた。