(1)記憶と夢
7年の間――……夏が終わり、秋の気配が始まると何度も繰り返してみる夢がある。それは、冬に唐突に終わる。
いつも、出てくる人は決まっている。そして、夢が終わる瞬間も決まっている。
*****
あぁまただ。この季節が来たんだなって、思う。
夢を見ているというのは、どこかでわかっている。
今はもう手にしていないものだと、自覚している。
でも心の半分は夢に持っていかれて、記憶につかって、ふわふわと過去に戻った気になって――……今、私はイチョウの葉を踏みながら走っていた。
買いたての慣れないパンプスが踵をこすり痛むのに、一生懸命に足を動かす。ときどき、落ち葉に足がとられそうになる。もともとヒールなんて履く日常にないから、背伸びした分うまく走れない。
でも、夢の中の私は、実はそんなことに気を取られていない。
少し先の駅前ロータリー、ベンチに座るその人を目指す、ただそれだけなのだ。そう、あの時の私は、本当に「それだけ」だった。
私の視線は、ちょっと俯き加減で文庫本を読んでいる彼の存在、たった一点に定められている。
しかも、これは夢の中の特権なのか、背景やすれ違う人の視線など、邪魔するものは消え去っている。彼だけがうかびあがっている。7年前の現実は、きっと歩道を走る私を怪訝な目で見る人だっていただろうに――記憶にないからか、映像に映し出されない。
ここは、秋から冬にかけて毎年見る、その夢の中。
私の視線の先の彼は、まだ私に気付かない。手元の文庫本に集中しているのかもしれない。
文庫本はインディゴ色のカバーに包まれていた。私が贈った手作りのカバーだ。
わかっている。
これは夢なのだ――……だって、この時、まだ私はこのカバーを渡せていない。ブックカバーを渡すことができたのは、このデートの次のデートのときだったはず。
記憶が混じって、いつのまにかごちゃまぜになっている。
でも、いくら小物の記憶が混じっても、きっとこの先の夢のつづきは、いつもと変わらないはずだ。
近づく距離、声をかける自分の声、そして顔をあげて眼鏡のつるをほんの少し触れて私を見る――矢野さん。大人の男の人。
矢野真治――夏の終わりに出会って、惹かれ合ってつきあいはじめて。
彼にときめく自分の鼓動――……全部、わかってる。覚えてるから。夢の中では、とても鮮明に彼の姿が浮かび上がってみえる。
『矢野さん……、待たせて……ごめんなさい、バスの運行時間かわってて……』
自分の声の記憶はあまりない。でも、焦って走ったから声がうわずっていたのは覚えている。
『連絡くれてたから、大丈夫。気にしないで』
30分以上待たせてしまったというのに、ほんの少しの苛立ちも見せずに矢野さんは微笑んでくれる。これははっきり覚えている。
そして、ジャケットのボタンを留めながらベンチから立ち上がったかと思うと、そっと未開封のミニペットボトルのお茶を差し出してくれたことも。
毎回毎回、夢を見るたびに、思う。
なんて、品良く彼は立ち上がるんだろうって。静かな、人。荒々しさのない人。この夢の記憶の少し後、研究職に配属される彼にぴったりな、細身であまり日焼けてない彼の容姿。細身だけど立つと思いのほか背が高くって、いつも少しこちらに上体を傾けて声をかけてくれた。
『焦って全力で走ってきてくれたんでしょう? どうぞ』
のぞきこむように私を見る、その眼鏡越しの眼差し。落ち着いた、でもあまり低くはない矢野さんの声が、しっとりと私の耳にしみてくる。
走ったせいで、息が切れて、うまく言葉が紡げない私を労わるように見つめてくれる。彼にお似合いの理知的な細いフレームの眼鏡。ジャケットと綿パンのシンプルな服装。ともすれば冷たくなりそうな眼鏡越しの彼の瞳は、実は、いつも柔和な光をたたえていた。
そんな彼が、どうぞと差し出してくれるお茶のボトルは、なんの変哲もないペットボトルなのに、その時の私には輝いてみえる。彼を通すと、すべての物事が優しい光をまとうようだった。
これは、優しくて、優しくて――……一番好きなシーンだ。
夢の中であっても、何度でも胸をときめかせることができる。
それは、この先のことも記憶しているからだ。
遅刻してきたことを責めもせず、労わってくれる彼。私は嬉しくて、ドキドキして、そっと手をのばす。温度差で微かに露がついたボトルを手にとると、指先が濡れる。ジェルネイルはできないから、すぐに落とせるマニキュアだけを塗ったシンプルな私の指。まだ、指輪もはめていない指だ。
濡れた指先は、思わぬ動きをする。
つるりとすべって、偶然にも初めて矢野さんに触れてしまうのだ。
右手の中指と薬指の先が、彼の指先に重なって――……胸がキュッとして、とっさに彼を見たら、彼の目も驚いたみたいに私を見返してきた。
つながる視線。
動揺した私たちは、露に濡れるボトルを握りあうみたいにして、でも互いの触れた指先を放すこともなくて、その場で立ちすくんでしまう。
鮮明に覚えている。
初めて触れた指先。つながる視線。胸がどきどきして、幸せな―――……想い出。
そして、その幸せな時間が幾度か重なって濃密になって――……。
私たちの恋は色濃くなって、気持ちを深めて――……
夢の中。秋の金木犀の香りがうっすら漂う季節の幸せな記憶。
夢の半ば、私と矢野さんが恋人らしく一番近づくとき。
11月23日。
私の誕生日――。
友達にアリバイを協力してもらって親に内緒で『外泊』した。矢野さんと二人で、実家とは少し離れた街のシティホテルに一泊することになる。
夢の私は矢野さんの隣で、ほんの少しうたた寝をした。
目を開けると、彼が私を見つめて微笑んだ。
まだ薄暗く感じて「まだ夜?」と尋ねると、
『夜明けだよ』
って、しっとりした声で矢野さんが言った。
ドキドキする。
二人で過ごす夜――言い方によると、それは「うまくいった」とは言えなくて。
お互いいろいろとてもぎこちなくて。衝動で進めるには経験がなさすぎて……いわゆる「最後まで」触れ合えたわけではなかったけれど。
お互い初めて見るパジャマ姿に照れ合って、いつもよりは言葉にするのは恥ずかしいプライベートな肌をさらけだして、照れて困って、いろいろとした難しさにちょっと落ち込んで、でも抱きしめあって頬を寄せ合って。
『……これも、僕たちの在りかただよ』
って、柔らかく、前よりは進んだキスをした。
そうしてうたた寝して、目を開けて。
彼の表情は今までよりも、もっと私は色っぽく、艶っぽく映った。なにか甘くて胸がむずがゆくなるものがこぼれてくるような眼差しに、ただそれだけで胸が鳴る。
秋が深まる頃、本社での入社研修が終わり、県外の研究施設に配属になった矢野さんとは、もうすぐ遠距離恋愛になることがわかっていて。私は、とにかく彼のことで頭がいっぱいなのに、彼はどこか冷静で、手をつなぐのすら奥手で――……。『彩のことを大切にしたいから』と、人前でできないような触れあいかたを決してしなかったから。
つきあって数か月。手をつなぐ、そっと触れるキスが数度あったくらい。
矢野さんが初めての彼氏だった私は、そのつきあいでも十分にドキドキしたけれど、当時の私のまわりにいた男の子たちに比べて、断然大人な余裕を見せる矢野さんに焦ってもいた。そこに遠恋が決まり、さらに慌てて。
特別な絆をつくらなきゃ――……。
私は矢野さんに対して隠していることがあって――その時、その重大さの自覚がなかったものの、隠し事に対する負い目はどこか感じていて、さらに焦りがつのって、想い出と強い絆が欲しいからと誕生日の記念を理由に一夜を迫ったのだ。
そんな私に、最初、矢野さんは困った顔をするばかりで。
こんな甘い気持ちが味わえるとは思ってなくて。
でも、思えば、私がどうしても一緒に夜を過ごしてほしいって迫って、最後に折れて、私の願いを受け入れてくれたとき。『ほんとは、僕だって……彩のすべてが欲しいんだよ。でも、彩は……まだ18……19になるばかりなのに……』と迷うように小さく呟いて、ゆうるく包むように抱きしめてくれたその腕は、柔らかかった。
誕生日の前日から一泊の予約を入れてくれた。彩の誕生日を一緒に迎えられるように、と丁寧に準備をしてくれた。
矢野さんなりの迷いといたわりと――……。その甘い眼差しを受けて、心がチクチクと痛みだす。
矢野さんと過ごすまでは、特別な関係になることに気持ちがいっぱいだったのに、それが半ばかなうと 、本来向かい合うべきだった自分の偽りが浮き彫りになった。
私は今更ながらに生まれてきた罪の意識にぐっと手を握る。
『彩』
『ん?』
『ほら、明けてゆくよ』
彼の筋張った男の人の腕がホテルの重いカーテンを開ける。
視界が広がる。
濃紺の空がすこしずつ明るくなり、薄桃色から橙色に染めまぶしい光が広がってゆくのを二人でホテルの窓から見つめた。
隣で、矢野さんが立ち上がったのがわかった。
一緒に身体をつつんでいたシーツが揺れて振り返ると、彼が私に小さな白い小箱を差し出していた。白い箱にブルーのリボン。
『お誕生日おめでとう』
驚く私の手のひらに載せられて。
開けてみてと促されて、そっとリボンをほどく。
もしかして――心の中で予感があった。
小箱の上蓋をそっと持ち上げると――……銀色のリングがつつましやかにおさめられていた。
――……19歳のシルバーリングのプレゼント。
あの時――7年前。
それを見たとき、私が何もいえなくて、瞬きだけを繰り返すだけだった。
私の無言を驚きととったのか、戸惑ったのか、矢野さんがめずらしくちょっとしどろもどろになりながら言った。
『驚かせたら、ごめん』
『えっ……あぁ、ううん! ありがとう!』
私は驚きで自分が固まってしまっていたことに気付いて、首をふる。
夢の中の自分はとても白々しく見える。いや、青ざめているといっていいのだろうか――……。
そんな私の前で彼は『趣味じゃなかったら、ごめん……』と断ってから、ぽつぽつと話す。優しい声で。私を信じてる、声音で。
『あ……その、僕の数少ない友達の意見としては……つきあって4か月経たないのに指輪って重いんじゃないかという意見もあったんだけど、19歳のシルバーリングは嬉しいしお守りみたいなものという意見もあって……。それを聞いて僕は……その……彩が……』
『うん?』
『彩が、これからも幸せでありますように、って。願いを込めて贈ろうと思ったんだ。非科学的って意見もあるかもしれないけれど……僕は願うということは、とても大切なことだと思ってて……。アクセサリーとして気に入ってもらえるかわからないけれど……その、お守りだと思ってもらえると嬉しい』
何度思い出しても、胸がキュッと苦しくなる。
何も知らない彼は、私が感謝の言葉を伝えると、照れたようにちょっと目を伏せた。
それから『僕の配属先が遠くて……遠距離恋愛になっちゃったけど……これからもよろしくお願いします』と言って、私の右の薬指にリングをはめてくれた。
『……あ、少し、ゆるいかな』
『ううん、ありがとう』
『どういたしまして。彩が、幸せでありますように』
やわらかな彼の声を思い出すと、あやまってもあやまりきれないものが自分に押し寄せてくる。
彼の誠実さをこれから傷つけるんだと――……夢の終わりに近づくのがわかるから。
私の薬指に光が灯った11月。
夢だというのに、なぜか、秋からぐっと冬の気配が濃くなって。
冷えて乾いた空気。乾燥と水の冷たさにまけて、いくらクリームを塗り込んでもすぐにささくれだつ指先になってゆく。
あぁ来てしまったと、夢を見ている私は思う。
―――……夢ならば、良いところだけ切り取って終わってくれたらよかったのに。まるで嘘つきの私をあざ笑うかのように、繰り返し私を包むこの夢は、次の過去の現実をつきつける。
いつもの展開どおり、夢の世界が暗転した。
背景がイチョウの美しい秋模様から、一気にクリスマスの飾りつけの電飾が光る中、冷たい冬の風が吹く夜の街角に変わる。カサついた落ち葉は、鮮やかだった色を失い、茶色くなって粉々に飛んで行く。
夢でまた彼に会う。
初秋のお互い照れ合いながら目線を合わす甘酸っぱい雰囲気。
二人で夜を過ごした親密な空気。
それらが全部、キンッと冷え切ってはりつめたものに変化する。
矢野さん。大好きな――矢野さん。
コートの羽織った彼、ベンチの横には今まで読んでいた文庫本――……纏うはインディゴのブックカバー。これは記憶通り。そう、すでにプレゼントした後の記憶なのだから。
矢野さんも私もベンチに座っている。二人とも俯き加減。私は右横に座る彼の顔を見ることができなくて、私と彼の座る間に置かれている本のカバー見つめている。
彼は濃紺のコートに身をつつみ、めずらしく腿に肘をつき、両手を組んだうえに顎をあて、背を丸めて座る。
冷えた空気を街灯が照らし、駅前の照明が私たちにあたり、背後に影を描く。私はあまり自分の服装を覚えていない。ただ、慌てて家から抜け出したから、ソックスに履きなれたスニーカーの足元だけは記憶に残る。夢の中の私の足元も、それだった。寒くて、ジャケットは羽織っていたかもしれない。きっと、今まで彼の前で見せたことがない、普通の。若い学生の――……格好だったんだろう。
無言の私たちは、単純に言えば、それまで私は彼に嘘をついていて、その嘘がばれ、話し合うためにベンチで二人で座っているのだった。
それだけの夢なのに、私の額はじっとりと汗ばんでくる。冬の記憶なのに、夢を見ている私はこの先を知っているからだ。
自分の愚かさを知っているから、汗がにじみ、震えてくるのだった。