【閑話】陰口と失恋【side宮水】
中学二年生のその日、樹様に許婚ができたという話を聞くその日まで、この方の将来の伴侶はわたくしで間違いない、わたくしはそう思っていたのでした。
わたくしと樹様は、幼稚園からのお付き合いもあり、家格もほぼ同等、それに当人同士の仲も悪くないし、と。
思えばそれは、一方的な片想いでしかなかったのですが、とにかく、わたくしは、いえ……家族も、友人も、皆、そう思っていたのです。
ですから、その噂話は青天の霹靂と申しますか、正に雷を受けたような衝撃でした。
「常盤とはいえ、駆け落ちした分家の娘よ? 釣り合うとは思えないわ」
母は激昂してそう言いました。
「まぁ、樹くんも、すぐに育ちの悪さに気づいて嫌気がさすさ。それにご両親も知らなかったらしい。すべてあの奥様の独断だ。じきに破棄されるさ、心配することはないよ」
父は笑って言いました。
「それに、青百合クラスではないそうだ。普通科を希望したんだと。自分の育ちの悪さは自覚しているらしい」
「まぁ、なんて子を許婚にされたのかしら、静子様は」
両親の話を聞いて、わたくしはひどく安堵いたしました。
友人たちも、口々に言いました。
「ねえ、宮水様? ご覧になりました? 設楽様の、あの、体育で大騒ぎされているところ」
「ねぇ。みっともなくはしゃいで」
「それに、ねえ、皆さま」
友人は密やかにわらいました。
「樹様の、部活の試合。設楽様、いらしてることはあって?」
「……あら」
「ないわね」
「でしょう? きっと、あまりに不調法なものですから、学外の目に晒したくないのですわ」
「そうね」
「そうに違いありませんわ」
くすくす、と友人たちと笑い合いました。
そんな話を、教室で聞かれてはいけません。皆様も、聞き苦しいでしょうし。樹様に聞かれては大変。
ですので、中庭の沈丁花の木の下、そんな場所で集って話し合うのです。
時折、なぜか教室の窓から設楽様がこちらを眺めているのが見えました。
「やだ、みているわ」
「なんでしょうか」
設楽様は、わたくしたちをニコニコと見つめてらっしゃいました。その笑顔の意味は分かりませんでしたが、とにかく、友人たちも設楽様が樹様の許婚には相応しくない、といつもそんな話で盛り上がったのです。
そんなことでしたから、わたくしも鷹揚に構えておりました。きっと、許婚の約束など、すぐに破棄になる。そして、きっと次はわたくしと。
学年が上がっても、わたくしたちは陰で設楽様の行動をあげつらっては、笑っておりました。
あんなことでは、いずれ、すぐに、もうすぐに、婚約など破棄されるとーー。
でも、なかなか「いずれ」も「すぐに」もやってきませんでした。
そして、とある練習試合に、ついに設楽様がいらしたことがありました。
「あら」
「いいのかしら」
「押し掛けてきたのでは?」
友人たちとヒソヒソと話します。まったく、樹様のご迷惑も考えないで……。
けれど、試合後。樹様は脇目も振らず、設楽様のところにいきました。そして、飲みかけのペットボトルとタオルを預けたのでした。
「えっ」
わたくしは、ただ、それを茫然と眺めました。まるで、設楽様が自分の特別であると、周りの人に示しているようでしたから。
「……気を」
「え?」
「気を遣われたのでは? 名目だけでも、許婚なのではから」
「そ、そうよ」
「そうね」
さざめくように、わたくしたちは笑いました。
5月になって、設楽様が「給食が余っているクラスはありませんか」などと放送をしだしてからは、わたくしたちの陰口もヒートアップいたしました。
「お聞きになった? みっともない」
「ねえ、ひどい」
「ねえねえ皆さま、こんなのどう? あだ名をつけたのだけれど」
「なあになあに」
くすくす、とその子は笑いました。
「おかずハンター」
その響きに、わたくしたちは大きく笑いました。なんて、みっともない!
(さすがの樹様も、目が覚めたでしょう)
わたくしは、そう思いました。いえ、思いたかった、のです。
ほどなく、街中で、お二人をお見かけしました。
修学旅行直前の、ひどく暑い、五月半ばですのに、まるで真夏のような日のことでした。
わたくしは友人の家に向かう途中、車でその公園の前を通りかかったのです。
信号で停止し、何気なく窓の外をみると、そこには鹿王院君と、そして設楽様がいたのです。わたくしは、思わずお二人を凝視しました。
お2人は、特に何をしていた訳でもありませんでした。
ただ、木陰のベンチにのんびりと座っていただけです。
特に会話らしい会話も、していないようでした。
やがて設楽様は、コンビニエンスストアのビニール袋からアイスクリームを取り出しました。なにやら半透明のフタがついています。
そして嬉しそうにフタをとり、ぺろりぱくりと食べ始めました。
コンビニエンスストアのアイスクリーム! わたくしは、口にどころか手にしたこともございません。
(やはり育ちが違うのだわ。樹様も呆れたことでしょう)
皆にも教えてあげなくてはーー。
そう思い、スマートフォンを構え、写真を撮った時でした。
鹿王院君が少し嬉しそうに、悪戯っぽい顔で、甘えたような瞳で……そう、幼稚園から同じはずの、わたくしですら見たことのなかった「こどもらしい顔」で、設楽様の持っているアイスクリームを横から食べたのです。
設楽様は驚いた顔をして、少し笑ってから頰を膨らませ、怒った顔をしてみせていました。
(ああ)
わたくしは、早く車が動けばいいのに、もう見ていたくはない、そう思いながら、彼らから目を離せませんでした。
それから設楽様は、アイスクリームを樹様に渡そうとしました。首を傾げて。
樹様は、その顔を少し怖い顔で見つめて、それから首を振りました。
少し怖い顔。
幼稚園からの付き合いであるわたくしは知っています、誤解されやすいその癖のことを、その顔は照れているときの表情。ああ。
そして、設楽様がまたアイスクリームにかぶりついたのを眺めて、今度はまた幸せそうに笑いました。
初めて見る表情でした。
車が動き出し、わたくしは前を向きました。
「お嬢様?」
「なぁに」
「どうかされましたか、その」
運転手の言葉に、わたくしはやっと、自分が泣いていたことに気がつきました。
「なんでもありません」
わたくしはそう言うので精一杯で。
スマートフォンに、ぽたりと、涙が一滴。その画面には、お似合いのお二人が写っていました。
初めての、失恋でございました。