祖母と少年は話し合う
あたしが帰宅すると、玄関に見慣れたスニーカーが置いてあった。可愛い孫の婚約者の靴だ。
(あら、樹くんたらまだいるのかしら)
彼の祖母ーーあたしの先輩から、貸していたものを樹に持たせる、と連絡はあった。
けれど、とあたしは時計に目をやる。
(23時、過ぎ)
中学生が異性の家にいていい時間ではない、と思う。
まぁ、あの子たちのことだから、そうそう過ちはないでしょうけれどーーと考えつつ、すこし、その靴をしげしげと眺めてしまう。初めて会ったときは小さな赤ん坊だったのに、もうこんなに大きな靴を履いている。
リビングのドアをガチャリと開けると、件の婚約者殿は、華をお姫様抱っこして立っていた。
「ああ敦子さん、お帰りなさい。華が寝てしまったので、布団に運びます」
淡々と言う少年。
「……ただいま」
(そんな、当たり前のように)
この子にとっては、当たり前のことのんだろう、とも思う。この子は……古い言い方になるが、もう華に骨抜きにされている。願わくば、華もそれに応えてあげて欲しい、と思うものの。
(あの子は少し鈍感だし、何かズレてるものねぇ)
少し肩をすくめ、苦笑すると樹くんは華を抱きかかえたまま「では」とスタスタとリビングを出て行ってしまった。
(まー、軽々と。しっかりしちゃって。こないだまで赤ん坊だったくせに)
自分が抱っこされる立場だったのにね。
あたしはキッチンで紅茶をいれて、テーブルにノートパソコンを広げる。
ローテーブルには中華の残骸があり、華が大好きなエビチリを堪能した様子がうかがえた。
じきに、樹くんはリビングへ戻ってきた。
「敦子さん」
「なに?」
「華が、トラブルに巻き込まれました」
あたしはタイピングする手を止めた。
トラブル?
(そういえば、さっき声が変だった)
胸に重いものが詰まったような感覚。手の先が冷たくなった。
「ですが、心配ありません。すでに対策を講じてあります」
「……そう」
あたしは振り返って、可愛い孫の婚約者を見上げる。
堂々とした瞳。
「問題は華が何かと隠したがることです、心配させたくないのでしょうが」
「……そうね」
そのあたりは、笑と似ている。
「あなたを華の許婚に選んだのは、どうやら正解だったみたいねぇ」
こんなにしっかりしてくれる、なんて。
褒め言葉にも、樹くんは「恐縮です」と答えただけで、あとは静かにローテーブルの中華の残骸を片付け始めた。
まったく、しっかりしている。
「……、静子さんが心配してたわ。あなたがしっかりしすぎている、って」
あたしの言葉に、樹くんは眉を寄せる。
「あのバアさんは、俺にしっかりしろと言ったり、しっかりしすぎていると言ったり、どうして欲しいんですかね」
「あは、心配なのよ結局。あなたのことが」
「そうでしょうか。最近仕事を手伝わされる頻度も増えました」
「そりゃあなたは跡継ぎだし」
「俺は、」
樹くんはすこし言い淀んだ。
「サッカー選手になりたいんです」
「なればいいじゃない」
即答したあたしに、樹くんは目を瞬かせた。
「引退してから跡継げば」
「そんな簡単に」
呆れたように少年は言う。
「ま、たまには周りに甘えなさい」
あたしが笑うと、彼は「甘えさせてもらってます、特に、華には」とぽつりと言った。
見ると、耳がほんのり赤い。
(あらあらまぁまあ)
わたしは微苦笑する。まったく青春もいいところだわ。
「早く寝なさい、少年。もう遅いし、泊まって行きなさい。客間を使っていいわよ。あなたも疲れているんでしょうし」
「そうさせていただくつもりでした」
樹くんはぽつり、と言う。
「華をひとりにしたくなくて……遅くまで、申し訳ありません」
「いいの、むしろ助かったわ」
目を細めて、樹くんを見る。微笑んでみせると、少しホッとした表情をされた。この子、結構あたしのこと怖がってるわよね? 何かしたかしら……。
「では、おやすみなさい」
樹くんはぺこりと頭を下げ、リビングから出て行った。
(さてさて、どうなるかしらね)
あたしはパソコンに向き直りながら、考える。
華のトラブルも気にかかるが、鹿王院樹が「問題ない」というなら問題ないのだと思う。念のため、こちらでも調べておこうと思う。
(どうか、平穏に日々が続きますように)
それだけを願ってやまない。