きみが、名前を呼んでくれたから
こつん。こつん。
松葉杖の音が、人気のない廊下に響く。
「どない、したんや」
松葉杖を使って、たどたどしく歩いてくるアキラくん。
「あ、えっと」
ひっく、としゃくりあげて何とか声を出す。
「誰かになんかされたんか」
アキラくんは私の横に座り、目線を合わせた。
「ううん」
「じゃあなんで泣いとるんや」
「こ、」
「こ?」
「こわく、て」
そう告げると、まるでダムの決壊のように涙がまた溢れてきた。
「こわくて! こわくて! だって私のこと誰も知らないの! 私も誰も知らない! 知らない人ばかり!」
「華」
「やだやだやだ! こんなとこもういたくない!」
「華」
髪を振り乱し喚く私に、アキラくんは辛抱強く声をかけてくれていた。
ひどく、優しい声で。
何度も。
「華」
優しい声で"華"の名前を呼んだ。
私は声を張り上げる。
「違う違う違う! 私は華なんかじゃない! 私じゃない! 私は、私は」
「大丈夫やで」
ぎゅっ、と手を握られた。
「……アキラ、くん」
はっとして、アキラくんを見つめた。
「大丈夫やで。アンタが華って名前でも、そうじゃなくても」
にこりと微笑み、左手は私の手を握ったまま、右手で私の涙をぬぐった。
「俺はアンタを知ってるで。そらちょっとしか付き合いないけど、アンタの好きな食べモンも、どんな風に笑うのかも、話すのかも、何が苦手なんかも、ーーどんな風に泣くのかも、知ってるで」
泣き方は今知ったんやけどな、とアキラくんは笑う。
「なんやよお分からんけど、でもーー世界中のヤツがアンタを忘れても、アンタが俺を忘れても、俺はアンタを探し出してみせるわ」
涙をぬぐってくれているのに、涙が止まらない。
「それくらい、もう俺はアンタのこと好きやで」
両手で頰をそっと包まれた。
目の前にアキラくんの笑顔。
「やから大丈夫や。絶対大丈夫や。俺を信じぃ」
眩しい目だった。
まっすぐな目だった。
私は必死に頷いた。それしかできなかった。
(アキラくん、)
自分を好いてくれている人がいるってことは、こんなにも心が強くなるものなのかと思う。
「もー無理やってなったら、横浜、いつでも帰って来たらええよ。うち来たらええ」
それ、まだ諦めてなかったのか。
ちょっと笑ってしまう。
「……ふふ、うん」
「な? うん、ほらアンタは笑顔が可愛らしいでほんま。泣いててもとびきりキュートやけど」
「アキラくんって」
「ん?」
「ううん、なんでも」
(ゲームのアキラくんもこんな感じだったなぁ、そういえば。チャラいけど、女の子には本当に優しくて)
小学生でその性格は完成されていたのかと、ちょっと面白く思う。
「あ、そういえば、なんでここに?」
「あー、オカンが書類もらい忘れてたらしくてな。いま書類待ちや。めっちゃ待ってるわ」
「病院てそういうの時間かかるよねー」
頷きながら、松葉杖のアキラくんを支えつつ2人で立ち上がる。
待合室のソファに座って、アキラくんのお母さんを待つことにした。
その間も、アキラくんは手を握ってくれた。心配してくれているのだろう。
「しばらくこうしてようや」
「あは、うん」
手を繋いだまま、とりとめのない話をする。
「ねえ、アキラくん」
「ん? なんや?」
「一度だけ、今から言う名前を呼んでくれない?」
「名前?」
「うん」
私は、そっと囁くように、その名前を告げた。
かつての"私"の名前を。
前世における、私の名前を。
アキラくんは、優しくその名前を呼んでくれた。
大切なもののように、宝物のように。
「ーーありがとう」
私はそっと目を閉じた。
(忘れない)
アキラくんの、その声を鼓膜に刻みつける。
(この世界で、この名前を呼んでくれたひとがいたことを)
「これからこの名前で呼んだ方がええんかな?」
「ううん、大丈夫……華、で」
恐怖は消えていない。
孤独感はつきまとう。
寂しくてたまらないし、辛くて不安だ。
(でも)
繋いだ手は暖かい。
(これは、現実だ)
ふとアキラくんを見ると、にこりと微笑まれた。
私も微笑み返す。
(現実ならーー、もう、どうしようもないのなら)
私は、この世界で、生きていくのだ。
私は、設楽華として、生きていく。
(負けない)
運命になんか、負けてたまるもんか。