悪役令嬢は混乱している
アキラくんは、キッチンにあった冷蔵庫を足がかりに、ひょいひょい、とあっという間に下に降りてきた。
それからジッとこちらを見つめ「ケガはなさげやな」と少し表情を緩めた。
「アキラ、くん?」
「すぐ助けるからな〜」
アキラくんはそう言って、すぐに久保を強い目で睨みつけた。
「よおオッサン、久しぶりやな」
そう言うアキラくんに、久保は体を強張らせながらも、不思議そうにほんの少し、考えるそぶりを見せた。……あ、そっか。久保が知ってるのって、美少女バージョンのアキラくんだから。
頭が働かないせいで、しばらく経ってからやっとそれに気がつく。久保は全く気がついてない。
「華から手ェ離せ」
「い、いやだ、やっと手に入ったんだ」
「なぁんの話しとんねんボケカス、離せ言うとるやないか」
があん、と大きい音がする。
アキラくんが床をを金属製バットで殴りつけたのだ。木製の床は、歪んでヒビが入っていた。
久保はびくり、と肩をゆらす。
「ダメだよ山ノ内クンったら」
真さんは相変わらず窓のところで笑っていたけれど、やがて自分もアキラくんと同じように降りてきた。
それから、アキラくんからしなやかな動作でバットを受け取って、大変優雅に微笑んだ。
「これはね、山ノ内クン? 床を殴るために買ったんじゃないよ?」
私は完全に混乱した頭で、真さんの言葉を聞いていた。頭のどこかで「そりゃバットはボールを打つものだものな」と思う。
「このオッサンタコ殴りにするために買ったんだよ?」
「いや死にますて」
さすがにアキラくんが突っ込んだ。真さんは「ふうん?」と目を細めて、まるでホームランを予告するみたいに久保にそれを片手で突きつけた。
「じゃあ死なない程度に」
そして目を細めた。
「でも、どうせ殴るなら痛いとこだよね」
真さんは唇だけで静かに笑う。思わずゾクリとする、アルカイックスマイル。
ごんごんごん、と床を叩く。軽く首を傾げて、微笑みながら。
「センセー、ねえ、僕古典苦手なんですけどー」
久保は忙しなく目線をウロウロさせて、真さんを見つめる。
「さっきのは分かりましたー。授業でやったとこだから」
「な、なにを」
「青柳は女三宮」
「なんの話を」
「古典のお話です、そうでしょ? センセー」
真さんはバットをぐるりと回した。そして一歩一歩、間合いを詰めてくる。
「僕は女性を花に例える男は嫌いだ」
「だ、だからなんの話を」
「だから古典のお話ですって、ねぇ? せーんせ?」
真さんは、バットを肩にかけて頬をゆがめた。
「く、くるな、近づけばこの子を、」
私を引き起こし、腕に納めようとする。
その久保が、突然後ろから来た誰かに蹴られて、ベッドから落ちる。
「あ? 何するってかオッサン!」
関西弁。
振り向くと、そこにはアキラくんが蹴りをいれたままの姿勢で立っていた。
(いつのまに後ろに!?)
ぽかん、とアキラくんを見つめた。
「このアホ、ボケ、カス、ダボ。何ヒトのオンナに手ぇ出してくれてんねん」
「どさくさに紛れすぎじゃない、山ノ内クン」
「ほっといてください」
混乱してぼうっとしている私の頭上で、ぽんぽんと会話が行き交った。
頭が働かず、ほとんど内容が入ってこない。
(……? なにが、どうなって……、ダボってなに?)
妙なところだけが聞き取れていた。さっきからダボやら青柳やら、どうにも聞きなれない単語が多い……。
混乱する頭を振って、なんども瞬きをして、なんとか呼吸を整えた。
アキラくんは私をそっと引き起こし、ベッドに座らせた。
それから「来るの遅なってごめんな」と笑った。安心させるように。
「え、あ、……なんで?」
とりあえず口から出たのは、そんな抜けたセリフだった。ほんとに、なんで?
「細かい話はアトや、……華」
「なに?」
「無事でよかった」
一瞬泣きそうな顔をしたアキラくんだけど、すぐにキッ、と久保に向き直った。
久保は憎憎しげな表情で、身体を起こし、しばらく逡巡したあと、ずりずり、と後退して、ソファにあった何かを取った。
「く、くるな」
それは大型のバタフライナイフだった。
「きたら、ころすぞ」
久保はポケットからスタンガンをも取り出した。左手に持つ。
(あ、もしかして、さっきのクビにきた衝撃はこれか)
あのスタンガンだったんだろうか。
(気絶するくらい、って……改造してある?)
下手したら死んでいたんじゃ、という考えが頭をよぎった。今更ながらに、ゾッとする。
「ほ、本気だぞ」
久保の声は震えていた。相手は子供とはいえ2対1、ーー高校生と中学生だ。大人の男の人からしても、十分に脅威だろうと思う。しかもそのうち1人の埒外っぽい方は金属バットまで装備してる。
(ていうか、真さんに金属バット持たせちゃダメじゃない?)
なんか色々、ダメじゃない?